きみを呼ぶのをやめるまで

 川辺にたどり着くまで、莉子は何も喋らなかった。でも、その沈黙はさっきのそれとは全然違くて、重々しくて気まずかった。俺は婆さんの言い方に少し怒っていたが、彼女はそれ以上に辛くなってしまったらしい。どこに受け取り方の違いがあったのだろう。
 川に沿って吹く風が、少し肌に突き刺さるようで痛く感じられる。

「検証してみたいの。さっきのおばあちゃんが言っていたこと」大きなため息のあと、莉子が言った。
「検証?」
「呼ぶっていう行為が、私を具現化させたって意味だと思うんだよね。私、薄々そうじゃないかって思っていたの。だから、言い当てられてびっくりしちゃった」
「俺、全然意味わかんなかったんだけど……」

 莉子は悲しそうに微笑む。

「じゃあさ。思い出してみてほしいんだけど、私が蘇った日、颯介は何してた?」
「ショックでただなんとなく歩いていたら、いつの間にか白堊記念館に来ていて……それから、事故の直前に莉子が見ていた史料が落ちてたから、それを見たら思い出が溢れてきて。泣きながら……名前を呼んで願った。帰ってきてほしいって」
「うん。そうだよね。私は颯介の声が聞こえて、気づいたらあそこに立っていたの。――じゃあ、次は彩奈(あやな)と亮司くんが私を認識したとき。これは私が説明しなきゃだめだね。私あのときね、三人が羨ましかったの。私も一緒に行きたいなぁ、話しながら文化祭の準備したかったなぁって。もし、二人も私のこと見えていたらって思った」

 少し文章を切ったところで、川のせせらぎが存在感を増す。俺はこのあと、世界の真実を知ることになる予感がしていた。そして、それは決して甘くない、残酷な現実を具現化したルールであることも、わかっていた。

「そうしたら、自分の周りがきらきら輝き出して、二人が私を認識できるようになったの。そして――それと同時に、颯介が立ちくらみを起こした」

 聞きたくなかった。これ以上、現実を突きつけられたくなかった。いいじゃないか、このままで。何も知らないままでいい。この関係が崩れるような変化なんて望んでいない。なんのために、ここまで変えない努力をしてきたというのだ。
 でも、莉子は話し続ける。

「じゃあ次。宮古に遊びに行ったとき。あのとき、颯介がなんかとっても美しい景色の一部に見えて、触りたいって思ったの……何これ、恥ずかしい」両手で頬を覆って恥じらう莉子。普段ならかわいいと思って目に焼きつけるのだが、そんな気にはなれない。
「それで、また周りがきらきらして、触れるようになった。そのあと、結構歩いたとはいえ、生きていた私でも疲れるか疲れないかくらいのタイミングで、颯介が疲れ切って帰ることになったよね」
「あれは、寝不足で疲れやすかっただけで」
「最近すぐ寝不足のせいにしてるけど、私が蘇る前だって、夜更かしすることはあったでしょ? 特に中学のときなんて、しょっちゅう明け方まで起きてたじゃん。それでも部活できてた」
「年取ったし、幽霊部員になったから体力が落ちたんだろ」
「年なんてほとんど変わらないよ! ……誤魔化して見て見ぬふりするのやめなよ。気づいてるんでしょ? この間の高熱だってそう。最近明らかに体調が悪いと感じることが増えてるはずよ」

 心当たりはある。でも、だからなんだよ。
 そう思ったが、口には出せなかった。

「おばあちゃんが言っていたことは、三つあった。まず、『呼んだら向こうから来てしまう』。これは死者の世界から来ちゃうってことかな。私みたいに。そして『強く呼べば、境界が薄れてどんどん来てしまう』。これはちょっとよくわからない。境界って何? って感じだし。三つ目は『呼び続ければ、颯介も私も消耗してしまう』。明らかだよね。私は別に消耗を感じないけれど、颯介は体調が悪くなってる」莉子は俺の知らない微笑みを貼りつけたまま、話し続けている。「だから、検証してみようと思って」
「何するの」観念してとりあえず話には乗ることにした。試してみて、わからなければいいのだ。
「うーん……あんまりよくわかっていないから、いろいろ試してみたいかな。名前呼んだり、呼ばないように意識したり? 実体に触れようと考えてみたり、とかかな」
「なるほど」

 まずは名前を呼んでみるか。

「莉子」精一杯、俺の感情を込めて名前を呼んだ。莉子、莉子、阿部莉子。ツンとした彼女によく似合う、キリリとした、でもどこかかわいらしさのある名前。
 だが、特に変化は起こらない。

「まあ、そもそも私が具現化している時点で、もう呼んでいる状態なわけだし、今更名前を呼んでも意味ないのかも」
「いや、仮定が間違っている可能性だってあるだろ」
「じゃあ、次。呼ばないように意識してみたら、私が消えるとかあるかな。やってみて?」
「は? 何だよそれ……もし消えたらどうすんだよ?」
「もう一回呼べばいいでしょ?」
「うまく行く保証なんてないんだぞ? 一度きりとかいう可能性だってあるじゃねえか!」
「大丈夫。私の予想では、これは成功しないから」
「…………」

 恐る恐る、莉子のことを考えないようにしてみる。できる限り、頭の中を他のことで埋め尽くす。数学の未解決問題、いつもやっているゲームのエイムの改善方法、上京してなかなか顔を見せない姉のこと……。この間まで考えていたコラッツ予想の二進数表記での考察を思い出してみる。
 だが、どうしても意識を完全に莉子以外に絞ることができない。頭の片隅に残ってしまうのだ。
 
「ほら、うまくいかないでしょ? だって幽霊になってから、私一度も消えていないもの」
「……だからってリスクのある方法を取ることないだろ」
「でもやってみないとわからないでしょ? 理系なら実験すべきじゃないの?」
「これは疫学的な話だって。状況を改善する方向に実験すべきなの。肺炎になるリスクを調べるために、タバコ吸ってない人を集めてきて、タバコを吸わせるグループとそのまま吸わないグループに分けて経過を見るのって、倫理的におかしいだろ。肺炎になる可能性が上がることを証明しようとしているのに、そのリスクを追わせることになるんだから。それと一緒」
「でも仕方ないじゃん。私しか実験体がいないんだから。……それに、私は申し訳ないと思ってるの。世界にも、颯介にも」
「は……?」

 何を申し訳なく思う必要があるのだろうか。俺はこうして、最大限の幸福を手に入れ続けているのに。世界にも迷惑はかけていないだろう。

「まあ、その話は置いておいて。じゃあ次。私に触れたいと考えてみて。この間は私が颯介に触れたいと考えたから、逆を試したい」
「お、お前なぁ……」よく平気な顔をしてそんなことが言えるものだ。年頃の男を何だと思っているのだろう。だが、ここで下手なことを考えると、俺のこれまでの関係値を保つ努力が水泡に帰してしまう。何も考えず、好きな相手だからとかではなく、単純に心地よい間柄として、触れたいと考えるのだ。

 覚悟を決めて、冷静に触れたいと考えた。白い華奢な腕を掴みたい。掴んで川沿いを一緒に歩くんだ。
 目的と一緒に考えながら、自らの手を彼女の腕に向かって伸ばした。すると、彼女の周りが白い光に包まれ始める。すぐに掴んでみた。――実体がある。この間の海での感触と同じ。特別冷たいわけではないが、かといって人間の温もりがあるかと問われると若干疑問が残るような。だが、確かに人の腕の柔らかさをしていた。

「成功だね」莉子は優しく笑った。それが、感情のすべてを覆い隠しているように感じられて、切なくなる。それじゃあダメだろ。お前は感情にまっすぐじゃないとダメなんだ。

 刹那、自分が自分でなくなる感覚に襲われて、足元がふらつく。立っていられず、がくりと膝と手をついてしまった。

「大丈夫⁉︎」莉子が慌てて手を差し伸べてくれる。大丈夫、とだけ言って手を掴もうとしたが、すでに実体はなくなっていて、するりと通り抜けてしまう。
「――これが消耗、か」自分の口から出た言葉だとは思えなかった。いや、思いたくなかった。
「ああ、怖いな」莉子の声は、少し震えていた。「私のせいで颯介が……」

 俺は立ち上がって、莉子の手のあるはずの空中を、ぎゅっと握りしめる。

「莉子が怖がる必要はない。大丈夫、俺は大丈夫だから」

 風が一段と強く吹いた。岩手山が澄んだ空気に囲まれてその輪郭をくっきりと示している。俺は自分に言い聞かせるように、莉子に大丈夫だと言い続けた。莉子の顔が泣きそうに歪んでいるのにも気づかずに。