7月24日、夏休み初日。午前中の長い長い課外がやっと終わり、莉子は気合いを入れて部活へ向かった。俺はというと、約束の十六時まで暇だから、教室に残ったまま、さっさと家に帰った亮司と対戦ゲーをすることにしたのだった。
それにしても、今日は何をするつもりなのだろうか。
一高の正門入って左手に、白堊記念館という建物がある。食堂と併設されているその記念館は、一高のさまざまな歴史を象った記録などが展示されている。新入生オリエンテーションのときに軽く見て回る機会があったが、これといって心惹かれるものはなかった。宮沢賢治の成績表は少しだけ気になったが。
その場所で、自主研究でもするのだろうか。莉子は宮沢賢治の大ファンだから、ただ拝みたいだけという可能性もある。
考えごとをしながらゲームをしていれば、案外すぐに時間は経つものだ。部活を終えた莉子から、どこにいるかと問うラインが届き、俺が答えて間もなく、快活な少女は教室の扉を勢いよく開けた。入学当初、新入生全員を震え上がらせた應援團がやっていたように。ピシャン! といい音が鳴る。
「お疲れ」
「先生に許可もらってきたから。行こう」
彼女は自分の席に荷物を置き、スマホとタブレットだけを持って出発した。俺もそれに倣って、リュックは席に置いたままにすることにする。
「なあ、白堊記念館で何すんの?」廊下をすたすた足早に進む彼女を半ば追いかけるようにして、斜め後ろから声をかける。
「探究活動よ。ほら、総合の時間でやるでしょ? 私は宮沢賢治について探究するの」
「なるほど。じゃあ史料とか集める感じ?」
「まあそうなるかな」
学芸員的な人がいるのかと思っていたが、記念館には誰一人いなかった。食堂も利用時間外のため、静寂が広がっている。薄暗い部屋はカビ臭い上に少し湿っぽくて、物置部屋みたいな独特の雰囲気があった。確か二階には泊まれる部屋があって、天文部が合宿でそこに泊まるらしい。毎年のようにゴキブリが出て女子が泣き叫ぶのだそうだ。しかしこの雰囲気では、Gどころか幽霊まで出そうだ。
薄気味悪さを感じている俺とは対照的に、莉子は目を輝かせて早速展示を眺め始めていた。
以前来たときは時間もなかったから、何があるかはきちんと見ていなかったが、意外にいろいろなものが置いてある。かつて野球が強かった一高が甲子園に出場した際の、バンカラ應援が取り上げられた新聞記事なんかも飾られていた。
ひとつ疑問が生まれる。別に史料を漁るだけなら、俺がついて来る必要はないのではないか? 莉子一人で必要なものを集められるだろう。先生に許可を取ったのも莉子なわけだし、問題ないはずだ。なぜ俺と一緒に来たのだろうか。
だが、それを尋ねることはしない。俺はコスパを重視する人間だ。それは好きな相手とのコミュニケーションでも同様。ここでそれを聞いてしまえば、莉子からすれば俺が嫌々来たかのように映ってしまう。そんな面倒な結果は招きたくない。俺は莉子と一緒にいられれば何でもいいのだ。
「ちょっとこれ見て! すごいよ」
興奮した莉子の声に、吸い寄せられるように移動する。彼女が指差していたのは、賢治の直筆原稿だ。俺にとってはそこまで価値が高くないものだが、世間的な価値と莉子にとっての価値が非常に高いのはよくわかる。
昔の人なんてみんな達筆だと思っていたが、全然違うようだ。カタカナこそしっかりとした筆跡だが、ひらがなはみみずのようにうねうねしている。俺も字は綺麗ではないが、ここまで汚くもない。
「宮沢賢治記念館とかには行かないのか? そのほうが史料収集は手っ取り早いだろうし、夏休み中に行ったほうがいいんじゃ……」
「もう行ったよ。ここにも何かないかなって思って来てみただけ」
「お前、そんなに探究真面目にやってるのか」
数年前に導入された総合的な探究の時間。問いを立て、仮説検証を繰り返して探究を進める授業だが、みんななあなあの調べ学習しかしていない。莉子は比較的真面目なほうだとは思うが、ここまで真剣に探求に取り組んでいるとは思わなかった。
もちろん、俺は自分が損しないように、亮司とタッグを組んで適当にやり過ごしている。基本的に俺は、どの科目においても狙って平均点を取りに行く人間だ。平均点より上を取ってしまったら、周りから期待されて、また頑張らなきゃいけない。それでは大損だ。だから、得意な理系科目は配点と難易度から平均を予想し、それに足る分だけ解いている。少し苦手な国語と英語は、莉子に教わることで平均を死守している。周りからも浮かないし、期待も失望もされない。そしてそれは、探求だって同じ。
楽に生きていくための努力を惜しまないのが大事なのだ。
「宮沢賢治を探求するとなれば、いくらでも頑張れるし。あとは東北大のAOとか狙うなら、何か胸を張って提出できる成果があったほうがいいでしょ?」
「進路のため、か……」
「何よ。ダメなの?」
「いや。単純にすげぇなあと思っただけ。一年のうちから下積みできてるやつなんて少ないだろ」
「颯介はちょっとくらい将来のことを考えなさい!」
苦笑いすることしかできない。将来のことなんて考えるだけ無駄だ。この学校で要領よく生きていけば、東北大か筑波大くらいは入れる学力が手に入るだろう。流れに身を任せればいい。余計なことを考えたり、したりする必要はない。
莉子はとても上機嫌に見えた。憧れている大先輩の生の史料を手に取ることができているのだ。機嫌が良くなるのも当たり前だろう。彼女にそこまでの幸福感を抱かせる宮沢賢治に、微かな嫉妬を抱かないでもない。俺なんかが、かの有名な大先生に嫉妬なんて、烏滸がましいことこの上ないが。
でもそれ以上に、俺自身、これ以上ない幸福を感じていた。高校一年の夏休み。好きな人と一緒にいて、その人が笑っている。さらに何かを求めようものなら、それはもはや罪だ。
「青春の一ページって感じだよな、今のこれ」
「何きもいこと言ってんのよ」
莉子がいつにも増して輝いて見える。呆れるように笑うその顔は、とても綺麗だ。暗い部屋の中心で、一際美しく煌めく宝石のような。俺は気恥ずかしさに、また頭を揺らして前髪を動かす。
そうやって、この一瞬を楽しんでいる俺たちは、異常事態にまったくと言っていいほど気がつかなかったのだ。
それにしても、今日は何をするつもりなのだろうか。
一高の正門入って左手に、白堊記念館という建物がある。食堂と併設されているその記念館は、一高のさまざまな歴史を象った記録などが展示されている。新入生オリエンテーションのときに軽く見て回る機会があったが、これといって心惹かれるものはなかった。宮沢賢治の成績表は少しだけ気になったが。
その場所で、自主研究でもするのだろうか。莉子は宮沢賢治の大ファンだから、ただ拝みたいだけという可能性もある。
考えごとをしながらゲームをしていれば、案外すぐに時間は経つものだ。部活を終えた莉子から、どこにいるかと問うラインが届き、俺が答えて間もなく、快活な少女は教室の扉を勢いよく開けた。入学当初、新入生全員を震え上がらせた應援團がやっていたように。ピシャン! といい音が鳴る。
「お疲れ」
「先生に許可もらってきたから。行こう」
彼女は自分の席に荷物を置き、スマホとタブレットだけを持って出発した。俺もそれに倣って、リュックは席に置いたままにすることにする。
「なあ、白堊記念館で何すんの?」廊下をすたすた足早に進む彼女を半ば追いかけるようにして、斜め後ろから声をかける。
「探究活動よ。ほら、総合の時間でやるでしょ? 私は宮沢賢治について探究するの」
「なるほど。じゃあ史料とか集める感じ?」
「まあそうなるかな」
学芸員的な人がいるのかと思っていたが、記念館には誰一人いなかった。食堂も利用時間外のため、静寂が広がっている。薄暗い部屋はカビ臭い上に少し湿っぽくて、物置部屋みたいな独特の雰囲気があった。確か二階には泊まれる部屋があって、天文部が合宿でそこに泊まるらしい。毎年のようにゴキブリが出て女子が泣き叫ぶのだそうだ。しかしこの雰囲気では、Gどころか幽霊まで出そうだ。
薄気味悪さを感じている俺とは対照的に、莉子は目を輝かせて早速展示を眺め始めていた。
以前来たときは時間もなかったから、何があるかはきちんと見ていなかったが、意外にいろいろなものが置いてある。かつて野球が強かった一高が甲子園に出場した際の、バンカラ應援が取り上げられた新聞記事なんかも飾られていた。
ひとつ疑問が生まれる。別に史料を漁るだけなら、俺がついて来る必要はないのではないか? 莉子一人で必要なものを集められるだろう。先生に許可を取ったのも莉子なわけだし、問題ないはずだ。なぜ俺と一緒に来たのだろうか。
だが、それを尋ねることはしない。俺はコスパを重視する人間だ。それは好きな相手とのコミュニケーションでも同様。ここでそれを聞いてしまえば、莉子からすれば俺が嫌々来たかのように映ってしまう。そんな面倒な結果は招きたくない。俺は莉子と一緒にいられれば何でもいいのだ。
「ちょっとこれ見て! すごいよ」
興奮した莉子の声に、吸い寄せられるように移動する。彼女が指差していたのは、賢治の直筆原稿だ。俺にとってはそこまで価値が高くないものだが、世間的な価値と莉子にとっての価値が非常に高いのはよくわかる。
昔の人なんてみんな達筆だと思っていたが、全然違うようだ。カタカナこそしっかりとした筆跡だが、ひらがなはみみずのようにうねうねしている。俺も字は綺麗ではないが、ここまで汚くもない。
「宮沢賢治記念館とかには行かないのか? そのほうが史料収集は手っ取り早いだろうし、夏休み中に行ったほうがいいんじゃ……」
「もう行ったよ。ここにも何かないかなって思って来てみただけ」
「お前、そんなに探究真面目にやってるのか」
数年前に導入された総合的な探究の時間。問いを立て、仮説検証を繰り返して探究を進める授業だが、みんななあなあの調べ学習しかしていない。莉子は比較的真面目なほうだとは思うが、ここまで真剣に探求に取り組んでいるとは思わなかった。
もちろん、俺は自分が損しないように、亮司とタッグを組んで適当にやり過ごしている。基本的に俺は、どの科目においても狙って平均点を取りに行く人間だ。平均点より上を取ってしまったら、周りから期待されて、また頑張らなきゃいけない。それでは大損だ。だから、得意な理系科目は配点と難易度から平均を予想し、それに足る分だけ解いている。少し苦手な国語と英語は、莉子に教わることで平均を死守している。周りからも浮かないし、期待も失望もされない。そしてそれは、探求だって同じ。
楽に生きていくための努力を惜しまないのが大事なのだ。
「宮沢賢治を探求するとなれば、いくらでも頑張れるし。あとは東北大のAOとか狙うなら、何か胸を張って提出できる成果があったほうがいいでしょ?」
「進路のため、か……」
「何よ。ダメなの?」
「いや。単純にすげぇなあと思っただけ。一年のうちから下積みできてるやつなんて少ないだろ」
「颯介はちょっとくらい将来のことを考えなさい!」
苦笑いすることしかできない。将来のことなんて考えるだけ無駄だ。この学校で要領よく生きていけば、東北大か筑波大くらいは入れる学力が手に入るだろう。流れに身を任せればいい。余計なことを考えたり、したりする必要はない。
莉子はとても上機嫌に見えた。憧れている大先輩の生の史料を手に取ることができているのだ。機嫌が良くなるのも当たり前だろう。彼女にそこまでの幸福感を抱かせる宮沢賢治に、微かな嫉妬を抱かないでもない。俺なんかが、かの有名な大先生に嫉妬なんて、烏滸がましいことこの上ないが。
でもそれ以上に、俺自身、これ以上ない幸福を感じていた。高校一年の夏休み。好きな人と一緒にいて、その人が笑っている。さらに何かを求めようものなら、それはもはや罪だ。
「青春の一ページって感じだよな、今のこれ」
「何きもいこと言ってんのよ」
莉子がいつにも増して輝いて見える。呆れるように笑うその顔は、とても綺麗だ。暗い部屋の中心で、一際美しく煌めく宝石のような。俺は気恥ずかしさに、また頭を揺らして前髪を動かす。
そうやって、この一瞬を楽しんでいる俺たちは、異常事態にまったくと言っていいほど気がつかなかったのだ。



