きみを呼ぶのをやめるまで

 家に帰ってから、信じられないほど睡眠を取った。途中、しんどさで何度か目が覚めたが、すぐに寝落ちるのを繰り返し、合計で十六時間ほど眠っただろうか。万全とは言い難かったが、とりあえず熱が下がったので、翌日は普通に登校した。

「おう、お前大丈夫かよ? 深夜までゲームやってたからか?」亮司が心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫大丈夫。さんきゅ。ゲームはやりたいからやってんだよ。亮司が気にすることねえって」

 昨日の騒ぎが嘘のように、今日は何も起こらなかった。それでもちらほら、噂が聞こえてくる。SF好きが宇宙人の侵略を受けていると言ったり、『呪術廻戦』に影響を受けた人が呪霊が学校に溜まっていると言ったり、想像力豊かな噂が宙を舞っている。石川啄木の呪いという噂が個人的には一番興味深かった。なんでも、今の校長は啄木が大嫌いなのだそうだ。確かに、俺はこの間啄木ごっこをして怒られている。じゃあきっと、啄木の呪いなんだろう。勝手に結論づけて、退屈な授業を七つ片づける。
 いつものように、莉子とバスに乗り込んで、当然のように二人席を確保する。毎回莉子は、いいのに、と呟くように言うのだが、俺としては関係ない。俺にとって莉子は生きているも同然なのだから、席を取ってあげるのは当たり前のことだ。
 開運橋の停留所で降りて、いつも通り川のほうへ向かおうとしたとき、少し強めに服の裾を引っ張られた。

「なに?」
「――駄菓子屋に行きたい。この辺にあるから」そう言って、彼女は静かにそちらへ歩き出した。
「え、ちょっと待って。駄菓子屋?」

 突然の提案に頭が追いつかない。どうも、やっぱり体調がいいとは言えないらしい。

「でもお前、食べ物食べられねえじゃん……」文化祭で俺がワッフルを食べていたときの、こいつの羨ましそうに眺める瞳を、俺は忘れていない。
「いいから! 久しぶりにあの雰囲気を味わいたくなったの」

 それから目的地にたどり着くまで、莉子は一言も喋らなかった。俺もただ黙って後ろを着いていった。この辺りの路地には入ったことがなかったから、なんだか新鮮だ。少し寂れた空気が、懐かしさをくすぐる。
 駄菓子屋は、想像通りのそれで。あまりにもテンプレ通りの外観と内装に、拍子抜けしてしまった。

「ってか、お前なんでこの辺に来たことがあるんだ? 家から遠くね?」
「英語部の友達に教えてもらったの。昔ながらのって感じで、雰囲気が好きで」
「確かに、だいぶ昭和な感じだな」

 店先に出されている台を一通り眺めてから、いかにもわくわくといった様子で店内に入っていく莉子を追いかけるように、中へ急ぐ。レジのところにはしわしわの婆さんが座っていて、どこまでステレオタイプなんだろうと思ってしまった。
 照明の弱々しい光が、店内をほのかに温かく照らしている。古い家の匂いと段ボールの匂いが混ざった空気を肺に思い切り吸い込んで、莉子が好きな雰囲気を俺も味わってみた。あまり店の雰囲気などに心惹かれる経験がないから、共感はできなかったが、嫌いでは決してない。
 痛ガムが十二個張り付いた台紙が天井から吊るされている。お菓子の箱にポップがくっついていて、二十円、三十円と金額が手書きされていた。円形の台には二十種類くらいの駄菓子が綺麗に陳列されている。
 小学生の頃は、百円で何個買えるか必死で数えて、当たりが出ればひとつお得にもらえるからと、それはそれは喜んだ。今ではそんな気持ちは忘れてしまったが。一つひとつがとてつもなく安く感じられる。もちろん、当たりが出れば今でも嬉しいだろうが、当時のようにはしゃぐことはできないだろう。
 自分が大人であるとは思っていない。大人にはなりたくないと思っているくらいだ。でも、少し大人に近づいている部分を見つけてしまって、軽いショックを受ける。

「何考えてるの?」莉子が顔を覗き込んできた。
「いや何も」
「嘘だ! しみじみとしてたもん。懐かしいとか思ってたんでしょ?」
「思わないほうが変だろ、それは。莉子こそ、そう思いたくてここに来てるんじゃないのか?」
「うん。そうだよ」

 理不尽なやり取りだ。だが、それすらも心地いいと思えてしまう。何よりオレンジ色の光を受けて透き通る彼女の姿が美しかった。
 店主の婆さんは、俺たちの存在に気づいているのかいないのか、黙って下を向いて本を読んでいる。
 
「そろそろ買って北上川のほう行こうぜ。いい?」
「いいよ。もう雰囲気は十分味わった」
「そうか」

 小さな買い物かごに、昔好きだったものを次々と投げ入れていく。ここで値段を気にしてもあまり意味がない。合計金額は大したものにならないだろう。だが、脳が勝手に計算していく。あ、二百円超えた。
 ざっと千円くらいになった頃、ゆっくりとそのかごを婆さんの目の前に置いた。やっとこさ気づいたという感じで、本から目を離す。その視線が俺をじっくりと観察すると、ふいに莉子のいるほうへ投げられた。――確実に、見えている。
 俺は何を言えばいいのかわからなかった。だが、戸惑いをよそに、婆さんが口を開く。

「その子はあんだが呼んだのかえ?」濁点がついた訛りの強い言い方で聞かれた。何を言っているのか理解ができず、ただ婆さんを見つめるだけになってしまう。決して、訛りが聞き取れなかったわけではない。生まれてこの方、盛岡に住んでいるのだから、これくらい簡単に聞き取れる。「それは、どういう……」「あんだが強ぐ呼んだがら、その子はこごにいるんだべ」「はあ……」莉子のほうを見ると、ショックを受けたように立ち尽くしている。彼女は理解できたのだろうか? 俺だけが会話に取り残されているらしい。

「強ぐ呼んだら、向こうがら来てしまうものなのさ」
「あの、呼ぶって何ですか?」俺の質問が意外に思えたのか、婆さんは目をぱちくりさせる。そんなに意外な問いだろうか。普通だと思うが。
「そのまんまの意味だべな」
「…………」
「あんまり呼びすぎだら、境界が薄れでどんどんさ、向こうがら来てしまうべよ」意味がわからないまま、どんどん進んでいく。神託を受けているみたいだ。解釈次第でなんとでも取れてしまうような。ただとにかく、俺と莉子に忠告していることは確かのようだ。
「お前さんもその子も、もうだいぶ消耗してるんじゃねべか?」

 ――何だよ、それ。
 まるで俺が莉子と一緒にいてはいけないみたいじゃないか。一緒にいたらお互いに消耗してすり減っていくみたいな。そんなわけないだろう。俺はこいつといて幸せだし、莉子だって基本的には俺にしか認識されないんだから、一緒にいるべきだろ?
 納得できないもやもやが胸の辺りに広がって、それが徐々に怒りのようなものに変わっていく。同時に、動揺が止まらない。眼前がぐらぐらと揺れる。
 とにかく、ここを早く離れよう。

「すみません。早く会計してもらっていいですか」ぶっきらぼうに尋ねる。
「ああ、すまねえべな」婆さんはそれ以降、変な話はしてこなかった。合計は九百九十円で、桁は違えど、小学生の頃の癖が抜けていないのがわかる。

 札を出して十円玉をもらい、莉子のほうへ足を進めた。怯えたような、悲しそうな顔をして立ち尽くしている彼女に、行こうと促す。そうして、駄菓子屋を後にしたのだった。