きみを呼ぶのをやめるまで

 週明け、休日ボケした生徒たちが朝学習に遅れて廊下で勉強していた。俺は朝に弱いわけではないから、別にそんなこともなく、いつも通り教室の自席で数学を解いている。
 一限目は数学だったから、教材を机に出したまま、授業を受け始める。9月も二週目に入れば気温もだいぶ下がってくるものなのか、クーラーの風がどこかに当たって跳ね返ってここまで届いて、少しだけ寒く感じられる。登校時に捲っていた袖を下ろし、腕をさすった。そんな俺を隣の女子と、浮かんでいる莉子が不思議そうに眺めていた。莉子はともかく、女子ですら寒いと思っていないのは一体どういうことなのだろう。
 数学の授業はあっという間に終わってしまった。面白いと思っている科目ほど短く感じられるのは、かなり理不尽だ。
 英語教師が入れ違いで入ってくる。小太りの爺さんで、一部の女子からはかわいいと言われているらしい。俺は渋々数学の教材をしまい、英文解釈の教材を取り出した。
 授業が始まる。先生がみみずのようなアルファベットを黒板に書きつけていく。読みづらいことこの上ない。ちゃんと読み取ろうと、眉間に皺を寄せながら黒板を眺めていると、なんだか気分が悪くなってきた。やっぱり寝不足というのは人間の大敵のようだ。
 突然、教卓の前の、いわゆるアリーナ席に座っていた男子ががたんと激しい音を立てて立ち上がった。皆が一斉に彼を眺める。彼は口に手を当て、もう片方の手で窓の外を指差した。口を覆っているほうの手が細かに震えているのが、それなりに距離がある俺ですらわかる。

「何をしているんですか? 授業中ですよ。座ってください」
「いや、あの、あれ……」

 皆が徐々に騒ぎ立て始める。俺も気になって窓の外を見遣ると、皆が何にざわついているのかがわかった。
 ――黒い物体が、空中に浮かんでいるのだ。
 それは、黒い物体としか形容ができなかった。空にぽっかり空いた穴のようにも見えるし、質量のある物体にも見える。とにかく真っ黒で、ひたすらに不気味だった。
 先生は怪訝な顔をして窓の近くまで歩いて行き、なんだあれは、と呟いた。だが、咳払いしてすぐいつもの調子に戻る。

「気になるのもわかりますが、授業中です。集中しましょう。はい、次の問題の和訳を、山田さん」

 あちらこちらでひそひそと噂をする声がまた聞こえたが、いかんせん先生があの調子であるため、少しずつその声も止んでいった。
 俺は授業に集中するふりをしながら、ちらちらと窓の外をときおり確認した。もっとも、クラスの数人はそうやって見ているようだ。
 莉子が窓をすり抜けて、物体のほうに近づいていったとき、俺は危うく声を上げるところだった。ふわふわと彼女は物体へと体を動かしてどんどん浮上していったが、ある地点で止まって、また戻ってくる。窓をすり抜けて俺の隣に佇むと、静かな声で俺に現状を伝えてくれた。

「近づけなかった。変な感じだったの、なんか警鐘が鳴ってる感じ。これ以上近づいたらダメだって、直感したの。行けるところまでは行ってみたけど、形状は球体。でもここから見るのとあんまり変わらないかも」

 表情を変えずに莉子の話を聞く。すると、途中から莉子の声にたっぷり感情が乗り始めて、俺は自然と背筋が伸びたのだった。

「それよりさ。颯介、大丈夫? 顔めっちゃ赤いけど。どうしたの?」

 眉間に皺が寄る。こいつは何を言っているんだ? 莉子と話していて、今更俺の顔が赤くなることなどないだろう。それに、咎めるような口調で怒りの感情を乗せているのが気になる。俺が何をしたっていうのだ? 気に障るようなことをしただろうか。

「じゃあ、及川くん。このthatを文法的に説明してください」

 突如として、先生が俺を当てる。びくりと肩を揺らして、慌てて立ち上がった。一応、さっきさらっとテキストを見たから、なんとなくはわかっている。

「ええと、これはthe worldを先行詞にとる関係代名詞です。後ろに動詞が続いていて……」

 続きを喋ろうと思った。だが、口を開いて声を出そうとしているのに、なぜか音が発せられない。焦ってもう一度発音しようとしたが、うまくできなかった。それどころか、立っている体が自分のものでない気がしてきて、どうすればいいかよくわからない。初めての感覚に戸惑っていると、先生の声が聞こえてくる。

「大丈夫ですか? もしかして、体調がよくないとか……」

 答えようにも、声が出せない。
 口をパクパクしていると、視界がぐらぐらと揺れ始めて、座ろうと考える。でも、体はそれすらも許してくれないようで、とりあえず机に両手をつくしかなかった。

「大丈夫? 一緒に座ろっか」

 隣の席の女子が俺の異変に気づいて、いち早く肩を貸してくれる。視界の端にある俺の腕は自分のものでないみたいで、思い切り脱力していた。
 先生が近づいてきて、何か話しかけてくれている気がする。頭が理解してくれない。女子の手を借りてなんとか椅子に腰をかけるも、体のどこにも力が入らず、すぐ机に伏せる形になってしまった。
 ――寒い。体が勝手に震える。息が苦しい。これは、何なんだ……?

「体あっついよ。熱あるの、気づかなかったの?」少し呆れたように女子に言われる。謝ろうとしたが、相変わらず声が出なかった。「いいよ、喋らなくて。声出ないんでしょ? それだけ高熱なら仕方ないよ。今、先生が保健室の先生呼びに行ってるから」

 クラスメイトが何人か、大丈夫かー? と声をかけてくれているが、全然反応することができないまま、ひたすら机の材木の節目を眺めていた。
 どれくらいそうしていただろうか。数回見かけたことがある程度の保険の先生が車椅子を持って教室に入ってきたようだ。

「大丈夫かしら? 自分で移動できる?」

 ゆっくりと立ち上がり、車椅子のほうへ移動しようとするが、足が思うように動いてくれない。見かねた先生二人が支えてくれた。女子も背中を押してくれていた気がする。
 莉子がそばにいるはずだが、怖くて顔が見られなかった。
 車椅子で連れて行かれ、保健室のベッドになんとか這い上がったときを境に、俺の意識は途絶えている。

 目が覚めたとき、まず状況を把握するのに数秒要したが、さらに、ベッドを覗く形で俺の姿を見ている莉子の顔が目の前にあることに驚いた。

「ごめんね。私が最近いっぱい連れ回してるからだよね」
「いや、別にそうではないだろ」
「きっと私のせい、だと思うの。だって、颯介って全然風邪ひかないじゃん。こんな高熱出すなんて……」
「俺、熱何度あるの?」

 そこまで聞いてから、慌てて口をつぐむ。保健の先生が部屋にいたらどうしようと思ったのだ。

「――先生なら今は職員室にいる。他の子もいないみたいだから、喋っても大丈夫よ」
「それはよかった」
「さっき測られてたときは8度8分。かなりの高熱だね」
「それは聞かなきゃよかったかもしれないな……」

 しばしの沈黙のあと、莉子が口を尖らせて話し始めた。

「どうして気づかなかったの? 鈍感にも程があるんじゃない?」
「ええ……単純に寝不足だと思ったんだよ。まさか熱があるなんて思わないじゃないか」莉子が怒っている理由がまったく見当もつかず、困惑しながら、とりあえず言い訳する。すると、あからさまにため息をつかれた。切り揃えられたボブカットがさらりと揺れる。
「高校生にもなって、気づかないなんて重症だよ。颯介は周りに気を遣うくせに自分には無頓着だよね」

 怒っているだけではないような気がした。悲しそうな、寂しそうな、そんな不思議な感情が渦巻いているのが読み取れる。
 そんなことはないと否定しようとしたが、ちょうど扉が開く音がして、慌てて口をつぐむ。
 それから俺は、迎えに来てくれた母さんと早退することになったのだった。莉子は教室に戻っていった。やっぱりどこか寂しそうだった。