代休の翌日、疲れがどっと来たのか、朝はなかなか起きられなかった。遅刻ギリギリの時間に走って登校する。朝学習とかいう謎の文化に間に合わなかった俺は、教室に入ることは許されず、廊下で単語帳を読んでいた。莉子がそんな俺を遠目で眺めて笑っているのが見える。
「朝学習間に合わなかったのか? 珍しいな」担任がホームルームを始めるために階段を上ってきた。「うっす」適当に返事をすると、教室に入るよう促される。いつもは早めに登校しているのもあって、怒られることはなかった。
現代文の授業では耐えきれないほどの眠気が来て、少しうとうとしてしまった。最近、疲れやすいような気がする。寝不足だろうか? もともと放課後から夜までぶっ通しで亮司とゲームをやっていたのが、莉子と話すようになって時間が夜遅くにずれ込んでいるため、睡眠時間が削られているのが原因なのだろう。
当の亮司はというと、端から授業は起きるつもりがないとでもいうように、ずっとこっくりこっくりしている。
「諸君はこの颯爽たる 諸君の未来圏から吹いて来る 透明な清潔な風を感じないのか」
宮沢賢治が、盛岡一高の後輩へと向けて書いた詩がプロジェクターで投影されている。現代文の先生は比較的静かな男性で、去年奥さんを亡くしたらしい。最近ずっと元気がなくて、ふとしたときに顔に翳りが見える。気の毒に思えるが、俺たちにはどうすることもできない。今は一人で息子を育てているらしい。
「むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ 諸君よ 紺いろの地平線が膨らみ高まるときに 諸君はその中に没することを欲するか」
俺には、賢治が何を思ってこの詩を書いたのか、到底理解ができない。いや、理解しようともしていないのだろう。興味が持てないのだ。
ため息をつく。隣の席の女子生徒が、こちらを見て気の毒そうにしていた。莉子を失ってまだショックが消えていないと思われているのだろう。
「何ため息ついてるのさ。疲れた? やる気出ない?」
莉子が声をかけてきて、俺は思いっきり睨みつける。授業中、というか人がいるところでは話しかけるな、とあれほどきつく言ったのに、まったく守る気がないようだ。
「そんなあなたにー! ひとつ提案があります!」効き目がなかったようで、一人で話し続ける莉子。「石川啄木ごっこをしませんか?」屈託のない笑みをこちらに向けている。
なんだよ、石川啄木ごっこって。頭の中でツッコミを入れる。隣をふわふわと浮かぶ美少女は、石川啄木ごっこの説明を始めた。曰く、授業中に抜け出して盛岡城跡公園に行き、原っぱに寝転ぶことを指すのだそう。かつて一高に通っていた啄木は、窓から教室を抜け出して公園に向かい、有名な俳句を読んでいる。
「不来方の お城の草に寝転びて 空に吸はれし 十五の心。いい俳句だよね。十五だって。私らと同い年だよ! そんな年齢にこんな名句を残しているだなんてすごいよ」
俺はもう誕生日過ぎてるから十六だけどな。また脳内でツッコミつつ、少し考える。啄木ごっこというのも、なかなか悪くないかもしれない。かなり怒られそうなのと、莉子と一緒に行っても怒られるのは俺だけという理不尽な状況にはなりそうなのだが。
少し前の俺ならば、たとえ恋心を抱いている相手に誘われようと、数年来の友に誘われようと、授業をサボるなどしなかっただろう。何かがきっかけで、俺は変わってしまったらしい。
俺はしばらく考え込んだ。どうやって抜け出そうか、と。仮病を使って早退するのは難しいだろう。憔悴し切った様子を演じてもいいのだが、莉子が目の前にいるのに、気が引ける。病院に行く予定があるので早退します、と言って帰ることはできるはずだ。でも、それもやりたくはない。スリルがなさすぎる。やっぱり、何も言わずに休憩時間に消えるしかないか。
とはいえ、荷物を持って廊下に出れば、いかにも帰ります感が強くて、誰かにチクられてしまうかもしれない。途中でおじゃんになっては、啄木ごっことは言えないだろう。荷物は置いておいて、後で取りに戻るのがよさそうだ。きっとこっぴどく叱られるだろうが。頑張れよ、そのときの俺。
「覚悟は決まった? 次の休憩時間に抜けるの。OK?」
いたずらっぽく笑う莉子は、生前よりも自由で生き生きとしているように感じられる。俺は呆れたように笑い返しながら、誰にも気づかれないようにグッドサインを出した。
「へえ、珍しい。てっきり断られるかと思った」
手順を考えていたら、すぐに授業時間が過ぎていき、弱々しいチャイムが鳴った。女子生徒が固まって話し始める。亮司は突っ伏して寝ていた。俺は財布とスマホをズボンのポケットに入れると、極限まで気配を消して教室を出る。階段を駆け降り、昇降口にたどり着く。教師はたまたまおらず、あたりは静かだった。さっさと靴を履き替える。
警備員は白堊記念館の奥のほうを歩いていた。目立つのを避けるために、あえて大手を振って堂々と正門を出る。あとはリレー選にも選ばれていた足の速さを駆使して、大通りに抜ける。あたかも、自分が何も悪いことをしていないかのように振る舞った。平日の昼間に外を制服で外を歩いていたら、怪しまれると思ったのだ。
だが、なんとでも言える。外部の人間になら、それこそ病院に行く予定があるから早退して、家に荷物を置いてきたのだ、などと説明すればいい。この時間帯に制服で学校外を歩いているからといって、百パーセント悪いことをしているとは限らないのだから。もっとも、俺は悪いことをしているのだが。
莉子は普通についてきていた。
「歩いて行くんだろ? 啄木ごっこなんだし」
「え、あ、そっか」
「バスで行こうとしてたのか? 流石に怪しまれるだろ」
「それもそうだね。じゃあ走ってよ」
「は? 結構距離あるぞ」
「元サッカー部なんだから、それくらい余裕でしょ?」
正直自信がなかった。寝不足だし、疲れやすくなってきているのだ。そんなことをして、明日普通に起きられるだろうか。だが、莉子は俺の目をまっすぐに見つめてくる。期待を込めて。
「なんで走らなきゃいけないんだ?」一応、最後の悪あがきをしてみることにした。「啄木ならそうしたから」確信を持っているように、莉子は言う。「なんでわかる?」「わかるよ。簡単じゃん。授業をサボって抜け出して、公園まで行ったんだよ? 走るでしょ、普通」
そこには論理など微塵もなかったが、なぜだか妙に納得してしまった。
「そうか。確かにそれが普通だな」
バカみたいな理論で、自然と笑いがこぼれる。
「よし! 走るか」
覚悟を決めて、軽くその場で準備運動をし、深呼吸をしてから、走り出した。莉子は浮遊しながら、同じペースでついてくる。
風が流れていく。9月に入ったばかりの盛岡は、まだまだ暑く、昼過ぎの高い太陽が額から溢れる汗を光らせる。街並みが現れては消え、現れては消えを繰り返す。この街はどこを切り取っても、なんだかグレーみたいな静かな色をしていた。
川沿いにたどり着いて、あとはただひたすらに川のせせらぎをBGMに前へ前へと進んでいく。背の高い草が制服に擦れて、さわさわと音が鳴る。
公園が見えてくる。意外とあっという間に感じられた。サッカーの試合よりよほど楽だった。
「久しぶりに走ったけど、案外行けるもんだな」
「すごい! 足速い人の視点ってこんな感じなんだ……」
変なところに感心している莉子を横目に、公園の中へと入っていく。小さい頃、親がよくこの公園に散歩に連れて来てくれたのを思い出す。
「で、啄木はどこで寝転んだんだ?」
「知らない」
「おい!」
「でも、石碑ならそこにあるよ。さっきの俳句を刻んだやつ」
二人でそこに向かって歩いていく。確かに、石碑はそこにあった。草がまったくなく、ただの地面だから、寝転ぶにしては寂しい場所だ。
「とりあえず上に行くか」
「そだね」
あまり会話を重ねることなく、それぞれが自分と向き合っている気さえする沈黙の中で、階段や坂を登ってひたすら上へ上へと進んでいく。
盛岡城の跡地だから、この公園には綺麗に積み上がった石垣があちらこちらにある。そして、中心に向かっていくに連れて、どんどん高くなっていくのだ。
「こことかいいんじゃない⁉︎ 寝転ぶのに!」
莉子の声に驚きつつ、あたりを見渡して納得する。確かに原っぱという感じで、寝転ぶのにちょうどよさそうだった。
そのとき、ポケットの携帯が振動を始める。俺は慌てて確認すると、どうやら親のようだった。学校から連絡が行ったのだろうか。学校はどうでもよかったが、親に迷惑をかけるのは良くない。そう思い、母さんにだけ端的に連絡を入れる。怒られてもいい。覚悟の上だ。だが、誰にも邪魔されたくない。
それから、電源を切ってもう一度ポケットにしまう。
気づけば、莉子はすでに寝転んでいた。俺は恐る恐る草の上に腰かけ、さらに恐る恐る仰向けになる。
「なんでそんなに怖がってんの」ツボった、と言いながら爆笑してくる莉子に、俺はむすっとして言い返す。「草の上に寝るのなんて罪悪感があるだろ。制服汚れるし。学ランならいいけど、白シャツなわけだから」
それもそっか、と他人事の莉子を恨めしく思う。幽霊はこういうとき自由で便利だ。
寝たまま、薄い水色の空に向かって手を伸ばしてみる。空をこの手で掴めそうな気がするくらい、俺は日常から気持ちが遠く離れていた。
「何それ、颯介らしくない」
「別にいいだろ。俺だってこういうことするよ」
「じゃあ私もやる」
二人で寝転んで空に手を伸ばす。周りからは俺一人しか認識できないから、一人で喋りながら空を掴もうとしているヤバいやつに見えているのだろう。でも、まったく気にならなかった。
「幸せだわ、俺」
「え?」
莉子が驚いたような声を出して、俺は心の声が漏れていたことに気づいた。なんだか泣きそうな気持ちになって、目をぱちぱちさせて涙を引っ込める。好きな人の前では泣きたくない。漢の性だ。
「――私も」
「え?」
私も、と言ったように聞こえた。確かに聞こえた。それが本当に嬉しかった。俺なんかでも、莉子を幸せにすることができていることが、何より喜ばしい。器用貧乏な俺は、誰かを幸せにすることなんてできないとどこかで思っているから。幸せとは、それだけ特別なものだと、俺は知っている。
「よし、学校帰るわ」
「え? もう終わり?」
このままここにいたかった。ずっと、一生。でも、公園に来ていた大学生らしきカップルの会話が、ボール遊びをしている小さな子どもの姿が、しみじみと緑を眺めながら散歩する婆さんの顔が、俺を日常に引き戻してくる。
それから、名残惜しそうにする莉子を無理やり着いて来させ、バスに乗って学校に戻った。さっきと同じように、堂々と正門から敷地に入る。警備員が目を丸くしていたが、素通りして、靴を履き替え、教室に戻る。七限の授業の途中だった。気弱そうな現代社会の女教師が、俺の姿を見るなり、授業を放棄して慌てて職員室に向かった。きっと、俺の帰還を担任に知らせるつもりだろう。
「何してたの? 及川くん」隣の席の女子が聞いてくる。「石川啄木ごっこ」すると、教室中がわっと湧いた。皆、俺の回答が気になっていたらしい。隣の子も笑い転げている。そこに、担任がやってきて、俺は廊下に呼び出された。
「何してた」
「石川啄木ごっこです」
「は?」
「盛岡城跡公園に行って、お城の草に寝転んできました」
担任は意味がわからないという顔をしたのち、呆れたように笑った。
「まったく。でも安心したぞ。お前はコスパ重視で人生を軽んじているような気がしていたからな。意外と理不尽なことにも手を出すんだな。成長と捉えてもいいのかもしれない」
どこか冷めているような、雑な全肯定をいただいて、面食らってしまった。
「俺は叱らないけど、他の先生はわからんぞ。理由が理由だからな」
「え……?」
「ほら、行くぞ」
どこに連れて行かれるのだろうか。担任は階段を下り、一階を進み始めた。俺は職員室に連れて行かれるものだと思ったら、違うようだ。
担任が立ち止まった部屋には「校長室」の札が。俺、校長直々にお叱りを受けるのか……? こっそり着いて来ていた莉子も事の重大さを悟ったのか、ショックを受けた顔をしている。担任が三回扉をノックし、失礼しますと言って扉を開けた。校長はあまり威厳のない立ち姿で、ソファに手をついていた。
「君かね。授業を抜け出して外に行ったという不良は」じっとこちらを見定めるような目つきで見てくる。
「はい。勝手をして申し訳ございませんでした」とりあえず謝る。こういうときは、早く謝罪を繰り出したほうがいい。
「……ひとまず理由を聞こう」
「石川啄木ごっこがしたくて」
重い沈黙が訪れる。どうやら答え方を間違えたようだ。啄木は一高を中退している。それが原因で、先生の中には、啄木をよく思わない人がいるというのも聞いたことがある。
俺は人間関係でも比較的器用な自信がある。つまりは空気が読めるということだ。だから今、空気が死んだことにも当然気づいている。頭をフル回転させて、どう打開すべきか考えるが、今回ばかりはどうにもならなそうだ。初手をミスったばかりに。
「石川啄木ごっこだと? この盛岡一高を中退した啄木の真似をした? 君は何になりたいというのだね。何にもなっていない者の、何者かの真似はただの現実逃避に過ぎないぞ」
「特に深い意味はありません。不快な思いをさせて申し訳ございませんでした」
あとはもう、何も言い訳せずにひたすら謝るのみ。教師、それも校長ともなれば、人の上に立ちたいとどこかで思っているはずだ。偏見ではあるかもしれないが。とりあえず下手に出ていればなんとかなるだろう。
説教はしばらく続いたが、ときおり表現を変えながら謝罪を繰り返し、俺は無事解放されたのだった。変なことをした割に、うまく切り抜けたほうだと思う。
授業が終わったばかりの教室に戻ると、珍しい見せ物でも見るかのような視線が集中した。俺は曖昧に笑って誤魔化しながら、席に戻って帰る支度をしたのだった。亮司と山崎さんだけが、すべてを悟って複雑な表情をしていた。風のない教室は、日の当たる公園よりよほど暑く感じられた。
「朝学習間に合わなかったのか? 珍しいな」担任がホームルームを始めるために階段を上ってきた。「うっす」適当に返事をすると、教室に入るよう促される。いつもは早めに登校しているのもあって、怒られることはなかった。
現代文の授業では耐えきれないほどの眠気が来て、少しうとうとしてしまった。最近、疲れやすいような気がする。寝不足だろうか? もともと放課後から夜までぶっ通しで亮司とゲームをやっていたのが、莉子と話すようになって時間が夜遅くにずれ込んでいるため、睡眠時間が削られているのが原因なのだろう。
当の亮司はというと、端から授業は起きるつもりがないとでもいうように、ずっとこっくりこっくりしている。
「諸君はこの颯爽たる 諸君の未来圏から吹いて来る 透明な清潔な風を感じないのか」
宮沢賢治が、盛岡一高の後輩へと向けて書いた詩がプロジェクターで投影されている。現代文の先生は比較的静かな男性で、去年奥さんを亡くしたらしい。最近ずっと元気がなくて、ふとしたときに顔に翳りが見える。気の毒に思えるが、俺たちにはどうすることもできない。今は一人で息子を育てているらしい。
「むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ 諸君よ 紺いろの地平線が膨らみ高まるときに 諸君はその中に没することを欲するか」
俺には、賢治が何を思ってこの詩を書いたのか、到底理解ができない。いや、理解しようともしていないのだろう。興味が持てないのだ。
ため息をつく。隣の席の女子生徒が、こちらを見て気の毒そうにしていた。莉子を失ってまだショックが消えていないと思われているのだろう。
「何ため息ついてるのさ。疲れた? やる気出ない?」
莉子が声をかけてきて、俺は思いっきり睨みつける。授業中、というか人がいるところでは話しかけるな、とあれほどきつく言ったのに、まったく守る気がないようだ。
「そんなあなたにー! ひとつ提案があります!」効き目がなかったようで、一人で話し続ける莉子。「石川啄木ごっこをしませんか?」屈託のない笑みをこちらに向けている。
なんだよ、石川啄木ごっこって。頭の中でツッコミを入れる。隣をふわふわと浮かぶ美少女は、石川啄木ごっこの説明を始めた。曰く、授業中に抜け出して盛岡城跡公園に行き、原っぱに寝転ぶことを指すのだそう。かつて一高に通っていた啄木は、窓から教室を抜け出して公園に向かい、有名な俳句を読んでいる。
「不来方の お城の草に寝転びて 空に吸はれし 十五の心。いい俳句だよね。十五だって。私らと同い年だよ! そんな年齢にこんな名句を残しているだなんてすごいよ」
俺はもう誕生日過ぎてるから十六だけどな。また脳内でツッコミつつ、少し考える。啄木ごっこというのも、なかなか悪くないかもしれない。かなり怒られそうなのと、莉子と一緒に行っても怒られるのは俺だけという理不尽な状況にはなりそうなのだが。
少し前の俺ならば、たとえ恋心を抱いている相手に誘われようと、数年来の友に誘われようと、授業をサボるなどしなかっただろう。何かがきっかけで、俺は変わってしまったらしい。
俺はしばらく考え込んだ。どうやって抜け出そうか、と。仮病を使って早退するのは難しいだろう。憔悴し切った様子を演じてもいいのだが、莉子が目の前にいるのに、気が引ける。病院に行く予定があるので早退します、と言って帰ることはできるはずだ。でも、それもやりたくはない。スリルがなさすぎる。やっぱり、何も言わずに休憩時間に消えるしかないか。
とはいえ、荷物を持って廊下に出れば、いかにも帰ります感が強くて、誰かにチクられてしまうかもしれない。途中でおじゃんになっては、啄木ごっことは言えないだろう。荷物は置いておいて、後で取りに戻るのがよさそうだ。きっとこっぴどく叱られるだろうが。頑張れよ、そのときの俺。
「覚悟は決まった? 次の休憩時間に抜けるの。OK?」
いたずらっぽく笑う莉子は、生前よりも自由で生き生きとしているように感じられる。俺は呆れたように笑い返しながら、誰にも気づかれないようにグッドサインを出した。
「へえ、珍しい。てっきり断られるかと思った」
手順を考えていたら、すぐに授業時間が過ぎていき、弱々しいチャイムが鳴った。女子生徒が固まって話し始める。亮司は突っ伏して寝ていた。俺は財布とスマホをズボンのポケットに入れると、極限まで気配を消して教室を出る。階段を駆け降り、昇降口にたどり着く。教師はたまたまおらず、あたりは静かだった。さっさと靴を履き替える。
警備員は白堊記念館の奥のほうを歩いていた。目立つのを避けるために、あえて大手を振って堂々と正門を出る。あとはリレー選にも選ばれていた足の速さを駆使して、大通りに抜ける。あたかも、自分が何も悪いことをしていないかのように振る舞った。平日の昼間に外を制服で外を歩いていたら、怪しまれると思ったのだ。
だが、なんとでも言える。外部の人間になら、それこそ病院に行く予定があるから早退して、家に荷物を置いてきたのだ、などと説明すればいい。この時間帯に制服で学校外を歩いているからといって、百パーセント悪いことをしているとは限らないのだから。もっとも、俺は悪いことをしているのだが。
莉子は普通についてきていた。
「歩いて行くんだろ? 啄木ごっこなんだし」
「え、あ、そっか」
「バスで行こうとしてたのか? 流石に怪しまれるだろ」
「それもそうだね。じゃあ走ってよ」
「は? 結構距離あるぞ」
「元サッカー部なんだから、それくらい余裕でしょ?」
正直自信がなかった。寝不足だし、疲れやすくなってきているのだ。そんなことをして、明日普通に起きられるだろうか。だが、莉子は俺の目をまっすぐに見つめてくる。期待を込めて。
「なんで走らなきゃいけないんだ?」一応、最後の悪あがきをしてみることにした。「啄木ならそうしたから」確信を持っているように、莉子は言う。「なんでわかる?」「わかるよ。簡単じゃん。授業をサボって抜け出して、公園まで行ったんだよ? 走るでしょ、普通」
そこには論理など微塵もなかったが、なぜだか妙に納得してしまった。
「そうか。確かにそれが普通だな」
バカみたいな理論で、自然と笑いがこぼれる。
「よし! 走るか」
覚悟を決めて、軽くその場で準備運動をし、深呼吸をしてから、走り出した。莉子は浮遊しながら、同じペースでついてくる。
風が流れていく。9月に入ったばかりの盛岡は、まだまだ暑く、昼過ぎの高い太陽が額から溢れる汗を光らせる。街並みが現れては消え、現れては消えを繰り返す。この街はどこを切り取っても、なんだかグレーみたいな静かな色をしていた。
川沿いにたどり着いて、あとはただひたすらに川のせせらぎをBGMに前へ前へと進んでいく。背の高い草が制服に擦れて、さわさわと音が鳴る。
公園が見えてくる。意外とあっという間に感じられた。サッカーの試合よりよほど楽だった。
「久しぶりに走ったけど、案外行けるもんだな」
「すごい! 足速い人の視点ってこんな感じなんだ……」
変なところに感心している莉子を横目に、公園の中へと入っていく。小さい頃、親がよくこの公園に散歩に連れて来てくれたのを思い出す。
「で、啄木はどこで寝転んだんだ?」
「知らない」
「おい!」
「でも、石碑ならそこにあるよ。さっきの俳句を刻んだやつ」
二人でそこに向かって歩いていく。確かに、石碑はそこにあった。草がまったくなく、ただの地面だから、寝転ぶにしては寂しい場所だ。
「とりあえず上に行くか」
「そだね」
あまり会話を重ねることなく、それぞれが自分と向き合っている気さえする沈黙の中で、階段や坂を登ってひたすら上へ上へと進んでいく。
盛岡城の跡地だから、この公園には綺麗に積み上がった石垣があちらこちらにある。そして、中心に向かっていくに連れて、どんどん高くなっていくのだ。
「こことかいいんじゃない⁉︎ 寝転ぶのに!」
莉子の声に驚きつつ、あたりを見渡して納得する。確かに原っぱという感じで、寝転ぶのにちょうどよさそうだった。
そのとき、ポケットの携帯が振動を始める。俺は慌てて確認すると、どうやら親のようだった。学校から連絡が行ったのだろうか。学校はどうでもよかったが、親に迷惑をかけるのは良くない。そう思い、母さんにだけ端的に連絡を入れる。怒られてもいい。覚悟の上だ。だが、誰にも邪魔されたくない。
それから、電源を切ってもう一度ポケットにしまう。
気づけば、莉子はすでに寝転んでいた。俺は恐る恐る草の上に腰かけ、さらに恐る恐る仰向けになる。
「なんでそんなに怖がってんの」ツボった、と言いながら爆笑してくる莉子に、俺はむすっとして言い返す。「草の上に寝るのなんて罪悪感があるだろ。制服汚れるし。学ランならいいけど、白シャツなわけだから」
それもそっか、と他人事の莉子を恨めしく思う。幽霊はこういうとき自由で便利だ。
寝たまま、薄い水色の空に向かって手を伸ばしてみる。空をこの手で掴めそうな気がするくらい、俺は日常から気持ちが遠く離れていた。
「何それ、颯介らしくない」
「別にいいだろ。俺だってこういうことするよ」
「じゃあ私もやる」
二人で寝転んで空に手を伸ばす。周りからは俺一人しか認識できないから、一人で喋りながら空を掴もうとしているヤバいやつに見えているのだろう。でも、まったく気にならなかった。
「幸せだわ、俺」
「え?」
莉子が驚いたような声を出して、俺は心の声が漏れていたことに気づいた。なんだか泣きそうな気持ちになって、目をぱちぱちさせて涙を引っ込める。好きな人の前では泣きたくない。漢の性だ。
「――私も」
「え?」
私も、と言ったように聞こえた。確かに聞こえた。それが本当に嬉しかった。俺なんかでも、莉子を幸せにすることができていることが、何より喜ばしい。器用貧乏な俺は、誰かを幸せにすることなんてできないとどこかで思っているから。幸せとは、それだけ特別なものだと、俺は知っている。
「よし、学校帰るわ」
「え? もう終わり?」
このままここにいたかった。ずっと、一生。でも、公園に来ていた大学生らしきカップルの会話が、ボール遊びをしている小さな子どもの姿が、しみじみと緑を眺めながら散歩する婆さんの顔が、俺を日常に引き戻してくる。
それから、名残惜しそうにする莉子を無理やり着いて来させ、バスに乗って学校に戻った。さっきと同じように、堂々と正門から敷地に入る。警備員が目を丸くしていたが、素通りして、靴を履き替え、教室に戻る。七限の授業の途中だった。気弱そうな現代社会の女教師が、俺の姿を見るなり、授業を放棄して慌てて職員室に向かった。きっと、俺の帰還を担任に知らせるつもりだろう。
「何してたの? 及川くん」隣の席の女子が聞いてくる。「石川啄木ごっこ」すると、教室中がわっと湧いた。皆、俺の回答が気になっていたらしい。隣の子も笑い転げている。そこに、担任がやってきて、俺は廊下に呼び出された。
「何してた」
「石川啄木ごっこです」
「は?」
「盛岡城跡公園に行って、お城の草に寝転んできました」
担任は意味がわからないという顔をしたのち、呆れたように笑った。
「まったく。でも安心したぞ。お前はコスパ重視で人生を軽んじているような気がしていたからな。意外と理不尽なことにも手を出すんだな。成長と捉えてもいいのかもしれない」
どこか冷めているような、雑な全肯定をいただいて、面食らってしまった。
「俺は叱らないけど、他の先生はわからんぞ。理由が理由だからな」
「え……?」
「ほら、行くぞ」
どこに連れて行かれるのだろうか。担任は階段を下り、一階を進み始めた。俺は職員室に連れて行かれるものだと思ったら、違うようだ。
担任が立ち止まった部屋には「校長室」の札が。俺、校長直々にお叱りを受けるのか……? こっそり着いて来ていた莉子も事の重大さを悟ったのか、ショックを受けた顔をしている。担任が三回扉をノックし、失礼しますと言って扉を開けた。校長はあまり威厳のない立ち姿で、ソファに手をついていた。
「君かね。授業を抜け出して外に行ったという不良は」じっとこちらを見定めるような目つきで見てくる。
「はい。勝手をして申し訳ございませんでした」とりあえず謝る。こういうときは、早く謝罪を繰り出したほうがいい。
「……ひとまず理由を聞こう」
「石川啄木ごっこがしたくて」
重い沈黙が訪れる。どうやら答え方を間違えたようだ。啄木は一高を中退している。それが原因で、先生の中には、啄木をよく思わない人がいるというのも聞いたことがある。
俺は人間関係でも比較的器用な自信がある。つまりは空気が読めるということだ。だから今、空気が死んだことにも当然気づいている。頭をフル回転させて、どう打開すべきか考えるが、今回ばかりはどうにもならなそうだ。初手をミスったばかりに。
「石川啄木ごっこだと? この盛岡一高を中退した啄木の真似をした? 君は何になりたいというのだね。何にもなっていない者の、何者かの真似はただの現実逃避に過ぎないぞ」
「特に深い意味はありません。不快な思いをさせて申し訳ございませんでした」
あとはもう、何も言い訳せずにひたすら謝るのみ。教師、それも校長ともなれば、人の上に立ちたいとどこかで思っているはずだ。偏見ではあるかもしれないが。とりあえず下手に出ていればなんとかなるだろう。
説教はしばらく続いたが、ときおり表現を変えながら謝罪を繰り返し、俺は無事解放されたのだった。変なことをした割に、うまく切り抜けたほうだと思う。
授業が終わったばかりの教室に戻ると、珍しい見せ物でも見るかのような視線が集中した。俺は曖昧に笑って誤魔化しながら、席に戻って帰る支度をしたのだった。亮司と山崎さんだけが、すべてを悟って複雑な表情をしていた。風のない教室は、日の当たる公園よりよほど暑く感じられた。



