私は、ありきたりな恋をして、宮沢賢治の詩が好きで、賢治の後輩になりたくて勉強を頑張り、盛岡一高に入学した、ごくごく普通の女子高生……と自己紹介したいのだけれど、それだけでは間違っている。
私はつい先日、命を落とした。隕石の衝突と片付けられている、不運な事故で。でも、その数日後、颯介が私に戻ってきてほしいと願ったことで、私は幽霊の姿として現世に降り立つことができたのだ。
死んでから颯介が呼ぶまでは、何やらひたすらに明るい光の海を、途方もないほどかき分けて進み続けていたような気がするし、何もしていなかったような気もしている。でも、それを現世の人間に伝えることは、なんだか憚られた。ネタバレになってしまうと思ったからだ。
そうして幽霊として過ごすこと、約一か月。8月末日である今日は、白堊祭の代休であるため、颯介に誘われるがまま、日帰りの小旅行へと出かけている。
盛岡駅発の急行バスで宮古駅へ、そこからさらに路線バスで浄土ヶ浜ビジターセンターへと移動する。
降り立った瞬間、潮の香りが体に染み渡った。
「海だぁ……」
「ああ、海だな……」
「ちょっと! 私の感想パクらないでよ」
「いや、これしかないだろ! 俺に人権はないのか」
軽口を叩き合う。颯介は、白シャツにカーゴパンツという出立ちだ。そこにさらに、先日コスプレ用に買ったグラサンをつけようとしていたから、思わず吹き出してしまう。
「……悪いかよ。海辺を歩くんだぞ。目を日焼けさせるのってあんまりよくないらしいし……」
「悪いなんて言ってないでしょ? 面白いだけで。五条悟のコスプレ、恥ずかしがってたくせに、グラサンは普段使いするんだって思っただけ」
「せっかく買ったんだから使わなきゃ損だろ」
この男は、いつだって損得で物事を考えている。いや、今回ばかりはその勘定を間違えていそうだが。グラサンをかけて歩くだなんて、周りから変な目で見られる可能性が高いのだから。もちろん、小物で小洒落た雰囲気を出せる人もいるだろう。けれど、颯介はそういうタイプではないのだ。
海岸線をゆっくりと並んで歩く。もっとも、私は浮いているだけなので、歩いているとは言い難い。
ちなみに私の格好はというと、いつも通り制服だ。ここ一か月いろいろと試してみたのだけれど、軽いものは移動させることができても、一定の質量以上のものは動かせないようなのだ。服は別に重いわけではないが、洋服箪笥を開けることができなかったのだ。だから着替えもできていない。とても不便だ。
ものに触れて動かすことはできても、シャワーを浴びることはできない。だから一か月お風呂に入っていないみたいで、なんだかとても気持ち悪いのだけれど、今海沿いを歩いて気づいた。汚れることがそもそもないのだ。普通、潮風を浴びて歩いたら、髪がきしきしになったり肌がベタついたりすると思うのだけれど、それがまったくない。
改めて自分が死んでいることを実感させられた。
「俺、海好きなんだよな。規模がでかいっていうか、雑に生きてても受け入れてくれそう」
「自分の悩みがちっぽけに思えるー、みたいなやつ?」
「あー、よく言うよなそれ。いや、俺が言いたいのはそんなんじゃなくて、もっとポジティブな感じ」
「えー何それ」
でも実際に、颯介が言うように、海はとてつもなく広かった。サファイア色が太陽に照らされて煌めいている。海風に煽られて、浮いている体が少し流されてしまう。なんとかその場に踏みとどまろうと意識する。実体がないくせに現実に干渉できる分、風のような現象に影響を受けてしまうのだ。でも、なぜかここに留まりたいと強く考えると、うまいこと止まっていられる。
動くのも同様の原理だ。前に出たい。颯介の隣を並んで歩きたい。一歩前に足を踏み出したい。そうやっていちいち考えないと進んでくれない。生きているときは無意識のうちにできていた行為が、一つひとつ意識しないと実現しないのは、なかなかに面倒だった。もう慣れてきたけれど。
「海水浴したかったなー」
「できないのか? ものは触れるんだろ?」
「限界があるみたいなの。物量なのか力の大きさなのかわかんないけど。私物理基礎ですら苦手だし」
「物理基礎関係ないだろ」
「大アリだよ! 理系科目得意な人にはわからないですよー」
私は完全に文系だ。数字を扱うのはさっぱり。言語だけでいい。言葉の奥深さだけを探究していたい。実体がない体の扱いなんて考えただけで頭が混乱してしまう。
「まあ確かに? 流体物理的な分野なのかもな」
「幽霊がいるという事実は非科学的ー、とか思わないの? 割とすんなり受け入れてたよね」
「あのなぁ、理系を勘違いしていないか?」
呆れたようにため息をつく颯介。仕方ないじゃん、根っからの文系なの。
「科学っていうのは、実際に起きている現象に再現性を見出す学問なんだよ。だから、俺が実際に莉子を認識している。それだけで十分信ずるに値するの。それに、この間は亮司や山崎さんにも見えていただろ? 一瞬だったがな。再現性はすでにあるんだよ」
「じゃあ、怪奇現象とかに非科学的だーって理系の人がよくいうのは何なの?」
「例えば写真に白い玉が写ってる、とかよくあるだろ? あれを幽霊とか魂とか信じ込むのはおかしいって話。他の原因が考えられるわけだからさ。もし、その場所に行ってある角度で写真を撮ると、必ず白い玉が写り込みます、とかだったら気になるかもな」
「面倒くさいね、理系って」
「おい、思考放棄しただろ今!」
しばらく歩いた頃。ビーチにたどり着く。案の定、海水浴客がちらほらいた。サーフボードを抱えている人、日焼け止めを塗りたくっている人、パラソルの下で読書している人。ありきたりな浜辺の景色だけれど、テンションが上がる。
「海入ろ! 颯介」
「え? お前入れないってついさっき……」
「いいから早く!」
私は精一杯の勢いをつけてぐんぐんと前に進み、海の中に入った。案の定、海は私をいないものとして扱ってきて、私の足の部分にも深い青が満たされている。
颯介は慌ててカーゴパンツを捲り、サンダルを脱いで恐る恐るといった感じで足を水につけた。
「なんかあったけえな。気温高すぎてあっためられてんだ、これ」
白波が颯介の足を通って激しい音を立てて返る。リアス海岸である三陸は、ぶつかり合って波が高くなりやすい。もちろん、場所にはよるし、気のせいかもしれないけれど。
涼しい顔をして青の中に佇む彼の、少し日焼けした小麦色の肌が、なんだかとても粋な感じがして、目が離せない。美しいものを見たら、それが本当に現実のものかどうか確かめたくなって、触りたくなるのと同じように、気づけば颯介に向かって手を伸ばしていた。
彼はそれに気づかずに、足元の水をパシャパシャと触って弄んでいる。
あたりに光の粒が広がるのがわかった。これはあのときと同じ、自分の体に何かしらの変化が起きるときだと、直感する。すぐに、その変化が何であるかに気づいた。海の水が感じられるのだ。足に確かに液体の塊が触れている。波に煽られて、足が取られそうになる。ぐっと踏みとどまって、バシャバシャと勢いよく颯介のほうへと近づいていく。
筋肉質な腕を、いつもより透明度の下がった自分の手がくいっと引っ張った。——触れた。
「なんだよ? って、あれ……?」颯介も違和感に気づいたようだった。
「触れた。今の私、実体があるみたい」自分でも信じられない。でも、それは本当に幸福なことで。この瞬間が人生の絶頂だと、そう思ってしまうくらい、マイナスの気持ちなんてひと欠片だってなくて。感極まって目の奥がじんわりと熱くなる。
颯介が遠慮がちに私の手をぎゅっと握る。その仕草が薄い顔立ちに似合わなくて思わず笑ってしまった。颯介の手のひらは温かくて、生きていることを実感させられたのだった。間もなく、私の実体はなくなって、元に戻った。
それから私たちは、何時間も歩いた。私は実際に歩いているわけではないから体力がすり減っていくことはなかったが、途中から颯介がしんどそうになってきて、バスに乗って帰ることにした。結構歩いたとは思うけれど、男子なのに意外と体力がないんだな、なんて思う。中学のときはサッカー部だったから、歩き回ったり走り回ったりするのには慣れていると思っていたのだけれど、高校から幽霊部員になったせいで、体力が落ちたのかもしれない。――とまあ、本物の幽霊はそんなことを思ったのだった。
ひたすらに暑い一日だった。今日この日を超えて幸せな日はもう、訪れない。そんな気がしている。
私はつい先日、命を落とした。隕石の衝突と片付けられている、不運な事故で。でも、その数日後、颯介が私に戻ってきてほしいと願ったことで、私は幽霊の姿として現世に降り立つことができたのだ。
死んでから颯介が呼ぶまでは、何やらひたすらに明るい光の海を、途方もないほどかき分けて進み続けていたような気がするし、何もしていなかったような気もしている。でも、それを現世の人間に伝えることは、なんだか憚られた。ネタバレになってしまうと思ったからだ。
そうして幽霊として過ごすこと、約一か月。8月末日である今日は、白堊祭の代休であるため、颯介に誘われるがまま、日帰りの小旅行へと出かけている。
盛岡駅発の急行バスで宮古駅へ、そこからさらに路線バスで浄土ヶ浜ビジターセンターへと移動する。
降り立った瞬間、潮の香りが体に染み渡った。
「海だぁ……」
「ああ、海だな……」
「ちょっと! 私の感想パクらないでよ」
「いや、これしかないだろ! 俺に人権はないのか」
軽口を叩き合う。颯介は、白シャツにカーゴパンツという出立ちだ。そこにさらに、先日コスプレ用に買ったグラサンをつけようとしていたから、思わず吹き出してしまう。
「……悪いかよ。海辺を歩くんだぞ。目を日焼けさせるのってあんまりよくないらしいし……」
「悪いなんて言ってないでしょ? 面白いだけで。五条悟のコスプレ、恥ずかしがってたくせに、グラサンは普段使いするんだって思っただけ」
「せっかく買ったんだから使わなきゃ損だろ」
この男は、いつだって損得で物事を考えている。いや、今回ばかりはその勘定を間違えていそうだが。グラサンをかけて歩くだなんて、周りから変な目で見られる可能性が高いのだから。もちろん、小物で小洒落た雰囲気を出せる人もいるだろう。けれど、颯介はそういうタイプではないのだ。
海岸線をゆっくりと並んで歩く。もっとも、私は浮いているだけなので、歩いているとは言い難い。
ちなみに私の格好はというと、いつも通り制服だ。ここ一か月いろいろと試してみたのだけれど、軽いものは移動させることができても、一定の質量以上のものは動かせないようなのだ。服は別に重いわけではないが、洋服箪笥を開けることができなかったのだ。だから着替えもできていない。とても不便だ。
ものに触れて動かすことはできても、シャワーを浴びることはできない。だから一か月お風呂に入っていないみたいで、なんだかとても気持ち悪いのだけれど、今海沿いを歩いて気づいた。汚れることがそもそもないのだ。普通、潮風を浴びて歩いたら、髪がきしきしになったり肌がベタついたりすると思うのだけれど、それがまったくない。
改めて自分が死んでいることを実感させられた。
「俺、海好きなんだよな。規模がでかいっていうか、雑に生きてても受け入れてくれそう」
「自分の悩みがちっぽけに思えるー、みたいなやつ?」
「あー、よく言うよなそれ。いや、俺が言いたいのはそんなんじゃなくて、もっとポジティブな感じ」
「えー何それ」
でも実際に、颯介が言うように、海はとてつもなく広かった。サファイア色が太陽に照らされて煌めいている。海風に煽られて、浮いている体が少し流されてしまう。なんとかその場に踏みとどまろうと意識する。実体がないくせに現実に干渉できる分、風のような現象に影響を受けてしまうのだ。でも、なぜかここに留まりたいと強く考えると、うまいこと止まっていられる。
動くのも同様の原理だ。前に出たい。颯介の隣を並んで歩きたい。一歩前に足を踏み出したい。そうやっていちいち考えないと進んでくれない。生きているときは無意識のうちにできていた行為が、一つひとつ意識しないと実現しないのは、なかなかに面倒だった。もう慣れてきたけれど。
「海水浴したかったなー」
「できないのか? ものは触れるんだろ?」
「限界があるみたいなの。物量なのか力の大きさなのかわかんないけど。私物理基礎ですら苦手だし」
「物理基礎関係ないだろ」
「大アリだよ! 理系科目得意な人にはわからないですよー」
私は完全に文系だ。数字を扱うのはさっぱり。言語だけでいい。言葉の奥深さだけを探究していたい。実体がない体の扱いなんて考えただけで頭が混乱してしまう。
「まあ確かに? 流体物理的な分野なのかもな」
「幽霊がいるという事実は非科学的ー、とか思わないの? 割とすんなり受け入れてたよね」
「あのなぁ、理系を勘違いしていないか?」
呆れたようにため息をつく颯介。仕方ないじゃん、根っからの文系なの。
「科学っていうのは、実際に起きている現象に再現性を見出す学問なんだよ。だから、俺が実際に莉子を認識している。それだけで十分信ずるに値するの。それに、この間は亮司や山崎さんにも見えていただろ? 一瞬だったがな。再現性はすでにあるんだよ」
「じゃあ、怪奇現象とかに非科学的だーって理系の人がよくいうのは何なの?」
「例えば写真に白い玉が写ってる、とかよくあるだろ? あれを幽霊とか魂とか信じ込むのはおかしいって話。他の原因が考えられるわけだからさ。もし、その場所に行ってある角度で写真を撮ると、必ず白い玉が写り込みます、とかだったら気になるかもな」
「面倒くさいね、理系って」
「おい、思考放棄しただろ今!」
しばらく歩いた頃。ビーチにたどり着く。案の定、海水浴客がちらほらいた。サーフボードを抱えている人、日焼け止めを塗りたくっている人、パラソルの下で読書している人。ありきたりな浜辺の景色だけれど、テンションが上がる。
「海入ろ! 颯介」
「え? お前入れないってついさっき……」
「いいから早く!」
私は精一杯の勢いをつけてぐんぐんと前に進み、海の中に入った。案の定、海は私をいないものとして扱ってきて、私の足の部分にも深い青が満たされている。
颯介は慌ててカーゴパンツを捲り、サンダルを脱いで恐る恐るといった感じで足を水につけた。
「なんかあったけえな。気温高すぎてあっためられてんだ、これ」
白波が颯介の足を通って激しい音を立てて返る。リアス海岸である三陸は、ぶつかり合って波が高くなりやすい。もちろん、場所にはよるし、気のせいかもしれないけれど。
涼しい顔をして青の中に佇む彼の、少し日焼けした小麦色の肌が、なんだかとても粋な感じがして、目が離せない。美しいものを見たら、それが本当に現実のものかどうか確かめたくなって、触りたくなるのと同じように、気づけば颯介に向かって手を伸ばしていた。
彼はそれに気づかずに、足元の水をパシャパシャと触って弄んでいる。
あたりに光の粒が広がるのがわかった。これはあのときと同じ、自分の体に何かしらの変化が起きるときだと、直感する。すぐに、その変化が何であるかに気づいた。海の水が感じられるのだ。足に確かに液体の塊が触れている。波に煽られて、足が取られそうになる。ぐっと踏みとどまって、バシャバシャと勢いよく颯介のほうへと近づいていく。
筋肉質な腕を、いつもより透明度の下がった自分の手がくいっと引っ張った。——触れた。
「なんだよ? って、あれ……?」颯介も違和感に気づいたようだった。
「触れた。今の私、実体があるみたい」自分でも信じられない。でも、それは本当に幸福なことで。この瞬間が人生の絶頂だと、そう思ってしまうくらい、マイナスの気持ちなんてひと欠片だってなくて。感極まって目の奥がじんわりと熱くなる。
颯介が遠慮がちに私の手をぎゅっと握る。その仕草が薄い顔立ちに似合わなくて思わず笑ってしまった。颯介の手のひらは温かくて、生きていることを実感させられたのだった。間もなく、私の実体はなくなって、元に戻った。
それから私たちは、何時間も歩いた。私は実際に歩いているわけではないから体力がすり減っていくことはなかったが、途中から颯介がしんどそうになってきて、バスに乗って帰ることにした。結構歩いたとは思うけれど、男子なのに意外と体力がないんだな、なんて思う。中学のときはサッカー部だったから、歩き回ったり走り回ったりするのには慣れていると思っていたのだけれど、高校から幽霊部員になったせいで、体力が落ちたのかもしれない。――とまあ、本物の幽霊はそんなことを思ったのだった。
ひたすらに暑い一日だった。今日この日を超えて幸せな日はもう、訪れない。そんな気がしている。



