きみを呼ぶのをやめるまで

 クーラーをつけても少しも和らがない蒸し暑さに、男子はワイシャツのボタンをギリギリまで開け、女子すらも防弾チョッキと呼ばれるベストを脱いでいる。窓越しにはアブラゼミが輪唱を繰り広げていて、教室の誰もが夏休みに思いを馳せていた。
 ここ、岩手県立盛岡第一高等学校は、バンカラ應援で有名な県内トップ校だ。かの宮沢賢治、石川啄木の母校でもあり、自由な校風の伝統ある学校である。ああ、石川啄木は中退しているから先輩と呼んではいけないのだったか。
 入学から四ヶ月が経とうとしているというのに、未だに一度も席替えをしておらず、俺は窓際の一番後ろの特等席をずっと陣取っている。名字が「及川(おいかわ)」で、席次順で前から七番目だからだ。
 同じ列の前から二番目に座る、これまたベストを脱いだ女子を眺める。阿部莉子(あべりこ)。少し明るい茶髪のボブカットがよく似合う、勝気なやつだ。中学の頃から仲が良く、頻繁に遊びに行く。この高校を一緒に目指し、勉強を教え合いながら合格を勝ち取ってきた。
 何を隠そう俺は、莉子のことを好いている。恋愛的な意味で、だ。だが、その思いを伝えたことはないし、これからも伝えないと思う。俺らの関係において、そのような野暮な発言は禁忌であり、また不必要なのだ。今の関係値が最も心地がいい。だから、無駄なことをしてそれを変えたくない。
 
「今から合格体験記を配るから、夏休みのうちに何人分か読んで、感想を提出することー」
 
 担任もすでに夏バテしているのだろうか、気怠げに言いながら冊子を配り始めた。『浩然の氣』と題された冊子には、前から東京大学合格者が数人並び、そのあと順々に難関大学合格者の体験記が掲載されている。自称進学校とも言えるような所業に、自然とため息が出た。
 志望校など考えている余裕はない。月末に東北大のオープンキャンパスに学年総出で向かうことになっているが、将来のビジョンよりもまず、クラスでも半数が追いつけていない数学の勉強をなんとかするべきではないのか。いや、俺の場合はむしろ、数学よりも英語のほうがまずいが。
 活字中毒と自称している莉子は、早速『浩然の氣』を読み耽っていた。彼女は根っからの文系で、宮沢賢治に憧れてこの学校を目指している。俺は文字を読むより数式で遊ぶほうが好ましく、来年からは理系に進もうと思っているから、莉子とは確実にクラスが離れてしまう。勉強の内容も変わってくることだし、お互いに忙しくもなるだろう。あまり遊べなくなっていくのだろうか。
 もっぱら書類配布に充てられてしまった総合の時間が終わり、放課となる。軽音部の幽霊部員となっている俺は、いつも通り同じく帰宅部の小野寺亮司(おのでらりょうじ)の席へと向かう。羨ましいことに、こいつは莉子の隣の席だ。

「帰ろうぜ」
「おう、颯介(そうすけ)か。ちょっとだけ待ってな」

 亮司はいつの間にスマホの電源を入れたのか、もう対戦ゲームを始めていた。一戦終わるまで待てということだろう。俺としては都合がいい。さりげなく莉子に近づいた。

「今日も部活?」
「当たり前でしょ? 帰宅部の誰かさんとは違って忙しいの」

 勝気な言い方がいつも通りで安心する。みんなこの暑さにやられて元気がない中で、莉子はいつだってエネルギッシュだ。
 どう見られているのかが気になって、頭を小刻みに揺らして前髪をどけた。

「夏休みも忙しい? どっか一緒に行かん?」
「それは全然いいけど……」先ほどまでの勢いはどこへやら、少し躊躇うように俯く。その仕草一つひとつが年頃の少女の輝きを醸し出しているように見える。「……その代わり、夏休み明けの実テ対策も一緒にやろう? 私に数学教えて?」
「その代わりって、何の代わりだよ? むしろこっちがその代わりに国語と英語を教えてほしいね」
「じゃあ勉強会しよう。――早く部活行きたいから、日程とかはまたあとで連絡して」

 一高生のチャームポイントとも言える四角い大きなリュックを抱えて颯爽と教室を出て行った。英語部に所属している彼女は、英語ディベートという競技をやっているらしい。英弱の俺からしてみれば、何をやっているか、その難易度すらわからないが、きっと難しいのだろう。
 そうこうしているうちに、亮司がゲームを終え、帰る流れになった。

「お前ら、早く付き合っちゃえばいいのに。誰が見たって両想いだろうがよ」
「そういう問題じゃねえんだって。今の関係がちょうどいいの、お互い」
「そういうもんかねえ……まあ、俺にはわからんね。あーあ、俺にも仲良い女子がいればなぁ!」

 家に帰り、数学の分厚い問題集『Focus Gold』を開いて問題を解いていると、伏せて置いていたスマホが机に振動を伝える。俺のスマホに通知が来るとすれば、ピックアップニュースが配信されたか、クラスラインが動いたか、亮司がゲームの誘いをしてきたか、莉子が何か連絡をしてきたか、の四択だ。一番最後であれ、と希望を込めてロック画面を確認すると、期待通りで飛び上がる。
 いつの間にか、窓の外は暗くなっていて、部活終わりであることが察せられた。
 やっぱりこの関係が一番心地いい。好きな相手から連絡が来て、一緒に遊ぶこともできて。こんなにも幸せな関係を、進展させるほうが馬鹿だろう。そんなリスクは背負いたくない。

《24日の夕方に白堊記念館に行こう。それから、8月1日に海でも行かない? お盆あたりの日程はまだわからないから、実テ対策はもうちょっと先に決めたい》

 こちらのお伺いを立てることなく、ほぼ確定という勢いで日調を進める莉子に、思わず口角が緩む。

《俺の予定は無視⁉︎》
《どうせ暇でしょ? 部活もないんだし。毎日亮司くんとゲームするだけじゃん》

 何でもお見通しというわけだろう。確かに俺は、この夏休みは莉子と遊びに行く以外、亮司とゲームをするか、それ以外の時間は数学を解こうと思っていた。
 そもそも、一高の夏休みは短い。そもそも夏休みと名前がついている期間が一ヶ月とないくせに、夏期講習(通称:課外)などという授業が前半の午前中に当たり前のように入っているため、普段と大して変わらない。むしろ、いつもは五十分授業なのに、課外は九十分だ。この暑い中、九十分間も集中して授業を聴けるとは到底思えない。考えるだけで憂鬱だ。
 そんな儚くも短い夏休みに、一体何ができると言うのだろう。課題だって大量に出されているのだから。

《じゃあ、決定で。24の十六時に白堊記念館前で》

 このときの俺は、まだ知らなかった。この一夏が、俺たちの関係性を変えることになるなんて――。