「キスしたら、俺の」――突然のキスで、勝手に恋人宣言されました

 午後の教室は、特に嫌な視線は感じなかった。
 帰りに碧が教室まで僕を迎えに来ても、周囲に変化はなかった。
 ただ、見える範囲に箕輪の姿はなかった。

 次の日も、その次の日も。
 僕の日常は変わらなかった。

(箕輪は、黙っていてくれたのか)

 旧校舎での出来事も、誰も見ていなかったようだ。
 僕は、ようやく安心して学校生活を送れた。

「朝比奈、次、教室移動だよ」
「うん、行く」

 声を掛けてきたのは、隣の席の日高(ひだか)光飛(みつひ)だ。
 教科書を持って、僕は立ち上がった。

「一緒に行く?」
「うん」

 日高と並んで廊下を歩く。

「なんか、朝比奈と話すの、久し振りな気がする」
「そう? 毎日、話している気がするけど」

 日高はクラスで一番、仲が良い男子だ。
 他のクラスメイトより確実に一緒にいる時間が長い。

「いつも女の子に囲まれてるし。そうじゃない時って、最近は大体、夜久と一緒だし」

 言われてみれば、そうかもしれない。
 それについては反論の余地がない。

「……確かに、そうかもね」
「だろ」

 日高が爽やかに笑った。
 バスケ部の光飛は、スポーツマンのせいか、常に爽やかだ。
 少なくとも僕にはそう見える。

(何気に、モテるし)

 今まで何度か、日高宛てのラブレターを預かったことがある。
 本人は、今は部活のほうが楽しいらしく、断っていたけど。

「日高って、彼女作らないの?」
「え!」

 何気なく聞いただけなのに、日高がやけに驚いた。

「普通にモテるし、すぐにできるのになぁと思って」
「それを言うなら、朝比奈だろ。茶化すなよ」

 日高が僕の肩をポンポン叩いた。

「茶化してないよ」

 何だか、上手く誤魔化された気がする。
 
「そういえば、数学さ。宿題、難しくなかった?」
「難しかった。いつもより時間かかった」
「量も多いんだよなぁ」

 そんなたわいない話をしながら、僕たちは廊下を歩いた。
 やっぱり上手く誤魔化された気分だ。

 昼休み。
 僕はいつもの如く、鞄を持って立ち上がった。

「また移動?」
「え? うん……」

 日高に声を掛けられて、鞄を机に引っ掛けた。
 微妙に開いていた鞄の口から、勢いで中身が零れた。
 碧のために作ったボックスクッキーだ。

「何か落ちたよ」

 日高がラッピングしたクッキーを拾った。
 ドキッとしたが、そうだった。
 僕がお菓子を作るのは、クラス中にバレているんだった。
 お菓子作りは日高にも話せなかった趣味だ。

「ラッピング、綺麗だな」

 そう言いながら、日高が僕にクッキーを手渡した。

「あ、ありがと」
「今度さ、俺にも作ってよ。朝比奈のクッキー、食べてみたい」
「……うん」

 きっと、僕が嫌な思いをしないように気を遣ってくれた。
 日高は優しいから、そういう気遣いができる。
 本気でほしいわけじゃないだろうけど。

(否定されなかった。受け入れてくれた)

 碧以外で、初めて面と向かって褒めてくれた。
 心臓が、トクトクと鼓動を早めていた。

「じゃ、行くね」
「おぅ、また後でな」

 手を振る日高をろくに見ないで、僕は教室を出た。
 世界が、変わり始めた。
 狭い水槽みたいだった教室で、息がしやすくなった。

(全部、碧と仲良くなってから)

 碧といると、僕は僕でいられる。
 その僕を引き摺って教室に帰っても、居場所はなくならない。

(僕は、僕でいい)

 そんな当たり前が、胸の鼓動を早くする。
 胸に広がるこの気持ちを、早く碧に伝えたかった。