「キスしたら、俺の」――突然のキスで、勝手に恋人宣言されました

 次の日の朝。
 僕が入ると、教室はしんと静まり返った。

(皆がわかりやすく戸惑っている)

 掃除が終わっていたし、あの場に残っていた生徒は少なかったけど。
 噂なんて、朝の内でも充分、広まるんだろう。

「朝比奈、おはよ」

 最初に声を掛けてくれたのは、早瀬だった。

「おはよう、早瀬」

 その後ろに座っている佐田は、俯いている。

「佐田さんも、おはよう」

 僕はいつもと同じ顔で挨拶をした。

「お……はよ」

 佐田が目だけを上げた。

「昨日は、ごめん」

 小さな声で謝られた。

「うん」

 それだけ、答えた。
 許すとも許さないとも言わない。
 お菓子作りがキモい。
 その反応は、想定内だ。
 その言葉を碧に向けられたのが、許せなかった。

(でも、一番悪いのは、僕だから)

 普段の僕しか知らない佐田からしたら、知らない僕だったはずだ。
 中途半端な真似をした、自分が悪い。
 だから、佐田を責めない。
 そう決めた。

 自分の席に着くと、周囲が少しざわついた。
 その程度は想定内だけど。
 やっぱりまだ、胸の奥がぎゅっと苦しい。

(僕の王子様の仮面、剥がれちゃったかな)

 期待されている自分じゃなくなっても、居場所はあるんだろうか。

『絢音』

 碧の声が聞こえた気がした。
 誰がどれだけ離れても、碧はきっと傍にいてくれる。
 そう思うと、怖くなかった。

 昼休み。
 僕は荷物を持って廊下に出た。
 早すぎてまだ廊下に人はいない。

(声を掛けられる前にと思って出てきたけど)

 昨日の今日で、僕に声を掛ける生徒はいないかもしれない。

「朝比奈!」

 と思ったら、早速声が掛かった。
 恐る恐る振り向いたら、早瀬が立っていた。

「早瀬が僕に声を掛けるの、珍しいね」

 取り巻きの女の子を遠巻きに眺めているタイプの人だ。
 実際、話す機会もあまりない。

「用があれば、声くらい掛けるよ。はい、これ」
「なに?」

 大判の薄い本を渡された。
 表紙には「お菓子の作り方」と書いてある。

「私も、お菓子作り好きでさ。貸してあげる」
「そうなんだ、ありがとう」

 正直、意外だった。
 早瀬はスポーツが得意で、いわゆる格好良い女子のイメージだったから。

「自分のイメージにないことって、言い出しづらいよね」
「そうだね」
「でも、朝比奈はあんまり意外じゃないよ」
「え!」

 早瀬の言葉が意外過ぎて、言葉が出なかった。

「何でもできそうだし、お菓子似合うし」
「似合う……?」
「うん、普通に作ってそう」

 驚きすぎて、本を落としそうになった。

「朝比奈が作ったお菓子を食べたい子、いっぱいいるんじゃない?」

 ニシシと早瀬が笑う。
 
「そうかな」

 僕は苦笑いした。
 取り巻きの子たちなら、ちゃんと人数分作らないと軋轢が生まれそうだ。

「だからまぁ、昨日のことは、あんまり気にすんな」

 早瀬が、ポンポンと僕の肩を叩いた。

「あ……っと、別に、碧とは普通に友達だから」
「わかってるって。そうでも、そうじゃなくても、深追いしないから」
「友達だって!」
「はいはい」

 ニヤニヤされると、誤解が解けていないんじゃないかと不安になる。

「いつも優雅な王子様が、息を切らせて会いに行く友達。気になっちゃう子もいるんだよ」
「それは……」

 最近は昼休みと放課後が楽しみになっている。
 だから、一秒でも早く教室を出るけれど。

「だからって、朝比奈が気にする必要、ないと思うけどね」
「うん……」
「周りに気を遣い過ぎだよ」

 早瀬に、額を小突かれた。
 さっきから、早瀬の意見は大人だ。

「朝比奈ってさ、佐田に優しい王子様って言われたの、気にしてる?」
「気にしてるっていうか」

 それがこの学校での僕の立ち位置で、意味なんだと思う。

「私、朝比奈のこと王子様だと思ったこと、ないよ」
「え!」
「そんなに驚くか」

 早瀬が呆れた顔をした。
 だって、だとしたら僕の存在意義って、一体何だ。

「綺麗めな男子だとは思うけど。だから、お菓子作っていても、何とも思わない。それでいいじゃん」
「それで、いい……のかな」

 言葉が、ぎこちなくなった。

「朝比奈が王子様やりたいなら、やればいいと思うけど。王子様って、そんなに大事?」
「大事っていうか、それが僕だから」

 失くしたら、この学校での僕の居場所がなくなる気がする。

「ふぅん。朝比奈がそうしたいなら、いいんじゃない」
 
 僕は、本当にそうしたいんだろうか。
 できるだけ優雅に、余裕に振舞ってきた。
 皆が求める僕でいるために。
 だけど——僕は手元の本を眺めた。

(僕を王子様だと思っていなくても、早瀬は本を貸してくれるんだ)

 胸の奥が、むず痒い。
 だけど、少し安心している自分がいる。

(碧と一緒だ)

 王子様な僕を期待していない人もいる。
 それでも、向き合ってくれる。

「王子様じゃなくても、いいのかな」
「少なくとも、私は思ってないけどね」
「うん」

 僕が頑張らなくても、気にしない人もいる。
 碧の前では、最初から無理する余裕なんかなかった。
 あの通り魔キスを思い出して、僕はクスクスと笑った。

「いい本、あったら教えてよ。その本は、いつ返してくれてもいいからさ」

 早瀬が教室に戻ろうとした。

「あ、ありがとう、早瀬!」

 ニコリと笑んで、早瀬が戻っていった。
 颯爽とした姿は僕より格好良い。
 女子の中に男らしさを垣間見た。

(僕のこと心配して、わざわざ声を掛けてくれたんだ)

 じわりと、胸が熱くなる。
 何だか、碧に会いたい気分だ。
 本を抱いて、僕は旧校舎の空き教室に走った。