初田ハートクリニックの法度

 礼美は支度を整え、ボストンバッグとコウキの上着を抱えて戻ってきた。

「ありがとうございます、先生。あとでデータをお願いできますか」

「頼まれました。次からは通院になりますね。落ち着いたら予約の電話をしてください」

「はい。コウキ、行きましょう」

 コウキはゴルフクラブを投げ捨て、礼美から受け取った紺色のダッフルコートに袖を通す。

「ま、まて、出ていくなんて許さ……」

 礼美の足を掴もうとした手を、コウキが踏みつけた。

 虫けらを見るような目で秀樹を見やる。

 もうコウキにとって、秀樹は虫以下の存在だった。


 ふたりの姿が見えなくなってから、初田も立ち去る。

 秀樹は初田を嘉神平也ではないかと疑っているから、追いかけられない。

 夜道を歩きながら、初田は写真に写る兄に小言をいう。

「まったく。兄さんがさっさと捕まってくれないと、わたしはいつまでも帽子屋でいないといけないじゃないか」

 殺人犯と間違われるのが嫌なら、マスクをかぶるのでなく整形すればいいじゃないかと言われることが多い。

 初田としては、何も悪いことをしていないのに、顔を変えなければならない理由がわからない。

 かと言って素顔を晒して歩くと平也と間違われて通報される。

 迷惑なことこの上ない。

 兄が逮捕されるその日まで、初田はウサギマスクをかぶって生きる他なかった。