あの日を境に、朝陽さんは俺をいろんなところに連れ出してくれるようになった。
大学生らしいお洒落な服屋に、行列のできるカフェ。かと思えば、路地裏の古びたラーメン屋を二軒続けてはしごした日もある。
朝陽さんと一緒なら、どこへ行っても楽しかった。
上京したばかりのころは、夜になると実家のことばかり思い出しとったのに、いつの間にかホームシックになっとる暇もなくなっとった。
そして、ついに待ちに待ったテニスの活動日がやってきた。時すでに六月……。
この日のためにガットも張り替えた。ウェアもシューズも、高校時代に使っていたものを実家から送ってもらった。ラケットバッグを背負い、準備万端でコートへ向かった俺は、集合したメンバーを見て足を止めた。
――え、スカートにヒール?
半分くらい、ウェアを着てへん。呆然としていると、隣に立った朝陽さんが俺の視線を追った。
「ああ、女の子はだいたいマネージャー枠。見る専だから」
「見る専……?」
「ボール拾いもしないよ。本当に見るだけ」
「そんな枠があるんすか……」
「あるんだよ、都会のテニサーには」
まだまだ知らない都会の作法があるらしい。
それでも、久しぶりに握ったラケットの感触に、自然と胸が弾んだ。
――朝陽さんと初めてテニスができる!
それが楽しみで仕方なかった。飛んでくるボールなら、何を返せばいいか迷わへん。久しぶりの感触が楽しくて朝陽さんとのラリーにも自然と熱が入る。練習試合が始まるころには、緊張なんてすっかり消えとった。
朝陽さんはテニスは中学で辞めたと聞いていたのに、驚くほど強かった。それでも最後はライン際へ打ち込んだ一球を返しきれず、ぎりぎりで俺が勝った。
「っしゃ!」
俺はその場に仰向けに倒れ込んだ。
「負けたぁ。悔しい」
「朝陽さん、中学で引退したって、嘘やないですか?」
「嘘じゃ、ないよ……」
「いや、絶対嘘っす。ブランクある人の、強さやないですもん」
ベンチで寝ころんでいた先輩が、体を起こしながら笑った。朝陽さんと同じ三年で、いつも一緒にいる唯人さんだ。
「虎太郎くん、引退したのは本当だよ。ただ、こいつ中学のとき軟式で全国行ってるから」
「全国って、バケモンやないですか。なんで教えてくれへんかったんですか!」
「だって、油断させて勝ちたかったんだもん」
「ずるっ!」
「でも負けちゃった」
朝陽さんがラケットを片手にこっちへ歩いてくる。息はまだ整いきってないのに、口元は笑ったまま。目の前まで来ると、俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「こた、上手いね。めちゃくちゃ格好よかった」
「か、格好いい……?」
「うん。普段はあんなにおどおどしてるのに、コートに入ったら別人みたい」
「おどおどは余計っす……」
せっかく勝ったのに、最後にはまた朝陽さんの一言で調子を狂わされた。
一通り対戦が終わって、俺は新入生の輪から少し離れたところに、そっと腰を下ろした。同じ一年のはずやのに、もうみんな仲良くなってる。
すぐ近くでは、朝陽さんたち三年生が休憩しとった。そっちはそっちで、なんかもう、みんなキラキラしとって普通に直視できひん。それに、同級生たちといる朝陽さんは自然体で、楽しそうで。俺といるときとは違う、肩の力が抜けたような笑顔やった。
それを見ていると、なんでか胸の奥がざらっとした。俺は手元のペットボトルを意味もなく回す。
ふと視線を感じて顔を上げたら、唯人さんと目が合った。唯人さんは、俺と朝陽さんを交互に見てくる。
「朝陽、最近虎太郎くんと異様に仲良くない?この前も二人で帰ってたよね」
「えっ」
思わず背筋が跳ねる。
やっぱり、俺が朝陽さんにくっついてばっかおんのは目立っとったらしい。
「す、すいません。俺が朝陽さんに頼ってばっかりで――」
「そうなの。俺こたのこと、まじお気に入りだから」
朝陽さんは、まるで今日の天気でも話すみたいにさらりと言うた。
「うわ、堂々と言った。朝陽、言い方が思わせぶりなんだって」
「えっ、何がですか?」
唯人さんはブッと吹き出して笑った。
何がおかしいのか分からず見回していると、朝陽さんの腕が俺の肩に回った。
「こたはね、サークル勧誘の時に俺が声かけたの。もう両手いっぱいにチラシを抱えてたのに、俺らのも受け取ってくれて」
「そ、それはもう忘れてください……」
「ひと言目に、『活動不定期ってありますけど、月何回くらいテニスしますか』って聞かれたの。あまりの真剣さに、目が離せなくなったよね」
二カ月前の自分に、頼むから黙っとってくれと叫びたかった。
「でもさ、言うだけあってテニスめっちゃうまいね」
「そうそう。こた、カッコよかったよ」
――カッコいいって、俺が?ついこの間まで、幼馴染にこのままではボッチになると心配されていた男やで?
「あ、でもその反応は可愛い」
「虎太郎くん、顔真っ赤じゃん」
「いや、これは、その……」
次々と言葉を浴びせられ、何をどう否定すればええんか分からん。
ふと、居酒屋でだし巻きを断られた先輩と目が合った。笑ってはいるけれど、その目だけが少しも笑っていない。
――俺、またなんかやらかしたんやろか。
助けを求めて朝陽さんを見上げた、そのときだった。
「はい、もう終わり」
朝陽さんが、俺の肩を抱く腕に少しだけ力を込めた。
「ほぉら。こた、びっくりしてるでしょ。これ以上いじらないであげて」
「なにそれ。朝陽、保護者?」
「違うよ」
朝陽さんはにっこり笑うと、俺の肩を抱いたまま歩き出した。俺もされるがまま、その隣を歩く。
――俺のお気に入り。
さっきの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
お気に入りって、なんやろう。
可愛がっている後輩、という意味やろうか。きっとそうや。朝陽さんは面倒見がええし、上京したばっかで何も分かってへん俺を放っておけへんだけ。
そう考えた瞬間、喉に小さな骨が引っかかったような違和感が残った。
その正体は、自分でも分からん。
「朝陽さん」
「ん?」
肩を抱いていた腕が解かれ、朝陽さんがこっちを見る。
「さっきの、お気に入りって……」
「あぁ、うん。それがどうしたの?」
「どうしたのって……俺が勝手に朝陽さんに懐いとるだけで、朝陽さんからしたら、全然そんなこともないのに、なんか、その……」
「うん」
「ええっと、うまく言えんのやけど、田舎もんの俺が浮かへんように、優しさで言うてくれたんかなって……」
「違うよ」
朝陽さんはすぐに足を止めた。
数歩先まで進んでしまった俺も慌てて立ち止まり、振り返る。
「え?」
「そんなんじゃないよ」
「え、えぇ……そうなんですか」
逃げ場のない視線に射抜かれて、心臓が変な音を立てた。
その言葉が何を意味しているのか。俺の中で、自分に都合のいい事ばかりが思い浮かぶ。
けれど、ふと幼馴染みの忠告が頭をよぎり、俺は思わず黙った。
――お前、ほんまイモっぽいで。
朝陽さんみたいな人が、俺をそんな意味で特別に思うわけがない。
「こた」
思わず肩を縮めると、朝陽さんはしばらく俺を見つめたあと、堪えきれないように吹き出した。
「こたには、はっきり言わないと伝わらないか」
「え、あの……?」
「……まあ、今日はいいや」
なぜか朝陽さんは楽しそうに笑うと、俺の手を取った。
「さぁ帰ろっか。腹減ったでしょ?」
「え、あ……」
繋がれた手が熱い。全神経が手のひらに集中してしまう。
「あれ、減ってない?」
「いや、あの、ペコペコです!ラーメンですか?」
「ふふ、今日はこたの好きなお好み焼き」
「まじっすか!」
また食い気味に答えると、繋がれた手に少しだけ力がこもった。
「こた」
「はい?」
「これから、もっと仲良くなろうね。俺、こたの一番になりたい」
「そ、それって……」
――先輩と後輩じゃなくて、親友でもないやつ……?俺の一番も、朝陽さんがいいって言ったら、変……かな。
そんなことを考えた自分に胸の奥がふわりと浮き上がる。
俺は多分、朝陽さんみたいに誰からも愛される人にはなれへん。
でも、朝陽さんがこのままの俺でいいって言ってくれるなら……
「朝陽さん」
「なにー?こたはすぐ迷子になりそうだから手は離しませんよ」
朝陽さんは嬉しそうに笑っていて、本当に店に着くまで手を離さなかった。
――都会の人って、こんなにも距離が近いんや……
これは都会の作法なのか。それとも、朝陽さんだけなのか。
答えは分からないまま、それでも繋がれた手を離したいとは思わなかった。



