どれくらい蹲っていただろう。
断片的に工藤の顔を、声を思い出し続けていた俺の耳に引っ掛かったのは声。
――今度の日曜日一緒に行こうか。カレー、食べに。
思い出のひとつでしかない言葉だ。なのに、どうにも気になった。
――昼集合なんだからジャージ着てくんなよ。
だって、さっきあいつは言った。面白いから調子合わせてただけと。だとしたらおかしくないか?
俺を笑いたいだけならわざわざ昼にまで会う必要なんてない。そもそもあの面倒臭がりやがそこまでするというのもおかしい。それに。
――やっぱガキ。
あいつはそう言って、俺の髪を撫でさえしたのだ。俺の傷となった話を聞いた直後に。
工藤にとっては俺を信頼させるための演技だったのかもしれない。その可能性だってもちろんある。けど……やっぱり変だ。
全部嘘なんて、やっぱり。
強すぎる違和感によって硬直が解ける。森を見回すが、当然姿はもう見えない。工藤がいたという痕跡さえ、ない。
木々の間から射し込む月の光にかどわかされ、夜に溶けてしまったみたいに。
……この世界からいなくなっちゃったみたいだ。
そう考えたら怖くてたまらなくなった。急き立てられるようにして俺は立ち上がる。
心当たりなんてどれほどもなくて、工藤が案内してくれた社へと足を向けるが、格子戸を乱暴に押し開けた先には工藤はおらず、シャベルと寝袋が無造作に放り出されているだけだった。
「どこ行ったんだよ……」
――あの子、夜に繁華街徘徊しては神待ちしてるの。
脳裏に母親の声が蘇り、俺はかぶりを振る。家に帰ったのかもしれない。けど俺のせいで工藤の父親は興奮しているだろう。そんなところに帰ろうとするだろうか。
だとしたら。
思いついてスマホを引っ張り出す。検索し、ヒットした電話番号をタップする。もう日付が変わろうとしている時間だし出ないかもと思ったが、その矢先、ぷつり、と回線が繋がった。
『はい、ターラです。本日の営業は終了してますけどー』
「あの、紺さん、ですか」
のんびりとした声にすがりつくように言う。電話の向こうは一瞬黙ってから、誰? と不信感いっぱいの声を返してきた。
「俺、この間工藤とカレー食べに行った丹羽です。あの」
『あー、あの。なに、どしたの、こんな時間に』
穏やかな口調に俺は密かにがっかりした。この言い方だと工藤はこの人のところにいない。でも訊いておかねば。
「紺さんは工藤の神様なんですよね。今日はそっちに工藤、いますか」
質問に対して戻ってきたのは沈黙だった。なにかを思い悩むような息遣いが回線の向こうから感じられる。根競べするみたいに黙った後、ふっと溜め息が耳の中に落ちてきた。
『いない。僕にはパートナーいるし、凪も遠慮するんじゃないの?』
「パートナーいるのに、高校生拾ったんですか」
つい声が尖ってしまう。紺さんはまた黙ってから、あのさ、とだるそうに続けた。
『なんか勘違いしてるみたいだけど、僕は凪に後ろ暗いことはしてない。子どもが困ってたから寝る場所貸しただけ。まあ、僕みたいなのばっかりじゃないだろうから、ああいうのやめろって凪には言ったけどね。って、なに? もしかして凪、また家帰ってないの』
「……多分」
諭されたみたいでひどくむかつく。でも手がかりはこの人だけだ。
「あの、工藤がどこ行ったか、なにか知りませんか。探したいんだけど、全然わかんなくて」
『探すって……。君も高校生でしょ。夜中にふらふらしちゃだめだよ。親御さんが心配……』
「親なんてどうでもいいんだよ!」
怒鳴ると電話口で紺さんが絶句した。そうされて反省する。
この人に当たり散らしても仕方ないのに。
「すみません。でも工藤、ひとりにしたくなくて。だから……」
だから、と言いかけて俺は言葉を探す。本当に無謀なことしてるな、と自分でも思ったから。
でもこのままになんてしておきたくない。だから。
『そっか、よかった』
そのとき、ふっと安堵に緩んだ吐息がスマホの向こうから聞こえ、俺は瞬きをする。
よかった?
え、と漏らした声と、劇場前、と言う声が重なった。
『凪が神待ちしてた場所。今日もいるかはわかんないけど、もしかしたらいるかも。あと、泊めてくれる人いないかって投稿をフォトスタでしてたみたいだから見てみな』
「あり、がとうございます!」
頭を下げ、通話を終えようとする。その俺を、あのさ、と言う声が止めた。
『凪見つかったらさ、店においで』
「え、なんで……」
『カレーならたんまりあるからさ』
じゃあね、と言って通話は向こうから切れた。
紺さんのこの対応は普通の大人らしくはないかもしれないけど、べたつかず淡泊なこの空気が心地よかったから工藤もあのカレー屋に通っていたのかもしれない。
後押しされた気持ちになりながら、まだ熱を持つスマホを握り締め走る。けど、信号待ちの間にフォトスタで「家泊めて」で検索してみて一気に血の気が下がった。
思った以上に投稿数が多いのだ。ざっとみて二十以上はある。慌てて菊塚市を検索ワードに入れる。さすがに件数は減ったけど、まだある。そろそろとタイムラインを辿っていて息が止まった。
深海のような暗い水底に一筋の光が落ちて来る、ダークトーンのアイコン。そして。
――今夜、泊めてくれる人、いませんか。十七歳 男 #家出
――いいよー。DM送ってくれる? 待ち合わせしよ。
「あの馬鹿……」
投稿された時間は今から十五分前。すでにリプもついている。
落ち合う場所まではさすがにオープンになっていない。俺の予想もつかない場所だったら捕まえられない。
それでも、どうかいてくれ! と願いながら紺さんに教わった劇場前へと急ぐと、終電前だからかまだ街には活気があり、酔っ払いやら客引きやらでごった返していた。
それだけじゃない。劇場前の階段に座る人々の中には、家出中としか思えない大きな鞄を抱えた学生風のやつらの姿もある。
工藤もこの中にいるのかも。そわそわしながら辺りを見回して十五分ほど経ったろうか。いきなり肩がくん、と引かれた。
ぎょっとして振り返る。
俺の腕を掴んでいたのは、母さんより少し年上と思しき、濃い化粧とごわついた肩までの髪の見知らぬ女だった。
「ナギくんだよね? その金髪、すぐわかったよ」
「え……?」
「あー、ごめんね、ちゃんと名乗ってなかった。私、さよぽん。ほら」
言いながら女はスマホの画面をつい、と俺の目の前にかざす。
表示されていたのはDM画面だった。菊塚劇場前で、と書かれた文字が見える。
「家、それほど遠くないけど車で来たから。駐車場あっちなんで、行こ」
女の手に力が籠る。ねっとりと熱いその手の温度にぞっとした。
工藤は本気でこの女の家に行くつもりなんだろうか? いや、紺さんみたいな人もいるから一概に悪人とは言えないかもだけど、こっちに向けられる視線は粘ついていて、ただの善意だけとは思えない。
もし善意じゃないとしたら。
「あんたさあ!」
「すみません」
声が投げ込まれ、俺と女は同時にそちらを見る。
「ナギは俺です。さよぽんさんですか?」
そこには工藤がいた。見慣れたスポーツバッグを肩に負って女に向かって微笑んでいた。
「あ、あー! そうなの! じゃあ、い、行こか」
俺の腕から女の手が解ける。そのままその手は工藤の細い二の腕に絡みつく。工藤はこっちを見もしない。冷水にじんわりと熱を足したような薄い笑みを浮かべて去っていこうとする。
温度なんて目で見えるわけない。なのに、俺の腕を掴んだときの女のじっとりとした体温が、工藤の腕にじりっと沁み込むのがはっきり見えて、たまらなくなった。
「だめ」
手を伸ばし、工藤が肩から下げているスポーツバッグの肩紐をぐいっと掴む。頼りない手ごたえに胸がくっと痛んだが、そのまま引くと工藤はよろめいて俺の腕の中へ落ちてきた。
「なんだよ」
工藤の目はやっぱりこっちを見ない。ただ氷結王子のときの声だけが俺を拒絶する。
「邪魔すんなよ。チャラ王子」
「うっさい! いいから来い!」
怒鳴って肘を掴んで走り出す。おいこら! と工藤が叫んで腕を引き抜こうとしたけど、それを越える力で俺は工藤の腕を引き続けた。
めちゃくちゃに走り、近くの路地に入り込む。それでも手を離さずにいると、なんなの、と工藤がやっとこっちを見た。
「なんでこんなとこにいんの? ストーカー? お前のせいで今夜の宿なくなったんだけど。どうしてくれんの? 次探さないと」
「だめ」
「意味わかんない。戻る。放して」
「やだ」
「やだじゃねえよ! なんの権利があって……」
「権利ないことくらいわかってんだよ! けどしょうがねえだろ!」
かっかしながら俺は足を踏み鳴らす。
ほんとガキみたいだ。空気読めるチャラ王子はどこ行ったって感じ。でももう抑えられない。
だって、俺、俺は。
「俺、お前のこと好きなんだから!」
俺の手から逃れようと暴れていた工藤が硬直する。呆然と見上げてくる工藤の目から俺は慌てて目を逸らす。
ああもう、俺はなんてことを言っているんだろう。でももう、だめだ。
もう、引き返せない。
「好きだからお前がよくわかんない人の家に泊まんのやなの! 触られんのもめっちゃくちゃやだし、ひとりで悩んでんのもすっごくつらいの! わかれよくそが!」
「……なに、言ってんの」
呼吸を思い出したみたいに工藤が肩で息をする。鋭い目が俺をぎっと睨んだ。
「大体さ、俺のこと好きってなんで? 顔? まあ、俺のことよく見てたもんね。でもさあ、丹羽、顔で嫌な思いしてきたくせに俺の顔見て好きになってんの? それちょっと……」
「でもお前は俺と違うじゃん」
「なにが」
「誰にでも笑ったりしない。だから余計に思っちゃったんだよ。笑った顔、見たいって」
言っているうちに恥ずかしくなってきた。でもちゃんと言わないと工藤はどこかへ行ってしまう。
それは、嫌だ。
「お前が笑ってくれるなら、俺、殺せるよ」
俺の手の中で工藤の腕が震える。握っておかないと消えてしまいそうな工藤の体温を逃さないように、俺は手に力を込める。
「手伝う。なんでも。工藤が一緒にいてくれるなら」
「馬鹿じゃないの」
薄い唇がわななく。ゆらっと首を振り、工藤は反対の手に持っていたバッグを地面に投げ捨てた。その手で拳を作り、俺の胸を叩く。
「お前、やっぱおかしいわ。そんなこと簡単に言うなよ」
「簡単じゃない。工藤が真剣に願ってることだし」
「俺はお前が地底行きたいって言ったの、笑ったのに?」
確かにその通りだ。地底なんてないなんて台詞、工藤にだけは言われたくなかった。
でも今、俺は地底世界への憧れ以上に思っちゃっている。
「しょうがないじゃん。地底でひとりになるより、工藤と一緒にいたいって思っちゃったんだから」
さすがに照れ臭い。顔を伏せ、前髪を引っ張ったとき、あのさ、と声がした。そろそろと窺うと、垂れ下がった白金色の前髪の向こうから声は響いていた。
「腕、放せよ」
「放したらどっか行くだろ」
「当然だろ。今夜の宿探さなきゃ」
「うち来ればいい」
「お前の母親に取っ掴まって強制送還されるのはごめんだ」
工藤の言う通り、俺の家へ工藤を連れていったって解決なんてしない。子どもの俺達にできることなんてどれほどもない。わかっている。ああ、嫌ってくらい。
でも今夜、こいつが見知らぬ誰かの欲にさらされるなんて俺には我慢できない。
無力なくせに俺はなんて欲深いんだろう。
手の中にある工藤の腕を俺は確かめるようにもう一度握る。
「どこにも居場所ねえな。俺達」
「お前にはあるだろ」
「あったとしても、工藤が笑ってないならそこは俺の場所じゃない」
言い切った俺を工藤がはっと見上げる。なんで、と声が滲んだ。
「お前さ、わかってんの? 殺すとか手伝うとか。俺達ただ一緒に穴掘ってただけだろ。それなのになんでそこまで言うの」
「考えてみろよ。夜中に一緒に穴掘ってくれるやつなんてお前以外いねえよ。それだけでも十分な理由じゃねえの」
苦笑いすると、工藤は虚を突かれたように目を見張る。
「おめでたすぎる。さすがチャラ王子……」
「だーかーら! チャラ王子って言うなって。大体、俺こんなことお前にしか言わね……」
「ああもう、わかってる、わかってるよ。俺も、俺だって」
また馬鹿にしてくるのだろうか。顔をしかめながら言いかけた俺が見たのは泣き笑いみたいな工藤の笑顔だった。
「お前しかいらないよ」
瞬間、周囲に漂っていたざわめきが巻き取られるみたいに消えた。
「丹羽」
だめだ、脳が全然働いてくれない。朦朧とする俺の服の胸辺りがくっと掴まれる。見下ろすと、骨ばった手が俺のシャツを握り込み、きゅっと拳を作っていた。
俺を見上げる工藤の目にたゆたうのは、涙の膜。
「俺と地底行ってくんない?」
断片的に工藤の顔を、声を思い出し続けていた俺の耳に引っ掛かったのは声。
――今度の日曜日一緒に行こうか。カレー、食べに。
思い出のひとつでしかない言葉だ。なのに、どうにも気になった。
――昼集合なんだからジャージ着てくんなよ。
だって、さっきあいつは言った。面白いから調子合わせてただけと。だとしたらおかしくないか?
俺を笑いたいだけならわざわざ昼にまで会う必要なんてない。そもそもあの面倒臭がりやがそこまでするというのもおかしい。それに。
――やっぱガキ。
あいつはそう言って、俺の髪を撫でさえしたのだ。俺の傷となった話を聞いた直後に。
工藤にとっては俺を信頼させるための演技だったのかもしれない。その可能性だってもちろんある。けど……やっぱり変だ。
全部嘘なんて、やっぱり。
強すぎる違和感によって硬直が解ける。森を見回すが、当然姿はもう見えない。工藤がいたという痕跡さえ、ない。
木々の間から射し込む月の光にかどわかされ、夜に溶けてしまったみたいに。
……この世界からいなくなっちゃったみたいだ。
そう考えたら怖くてたまらなくなった。急き立てられるようにして俺は立ち上がる。
心当たりなんてどれほどもなくて、工藤が案内してくれた社へと足を向けるが、格子戸を乱暴に押し開けた先には工藤はおらず、シャベルと寝袋が無造作に放り出されているだけだった。
「どこ行ったんだよ……」
――あの子、夜に繁華街徘徊しては神待ちしてるの。
脳裏に母親の声が蘇り、俺はかぶりを振る。家に帰ったのかもしれない。けど俺のせいで工藤の父親は興奮しているだろう。そんなところに帰ろうとするだろうか。
だとしたら。
思いついてスマホを引っ張り出す。検索し、ヒットした電話番号をタップする。もう日付が変わろうとしている時間だし出ないかもと思ったが、その矢先、ぷつり、と回線が繋がった。
『はい、ターラです。本日の営業は終了してますけどー』
「あの、紺さん、ですか」
のんびりとした声にすがりつくように言う。電話の向こうは一瞬黙ってから、誰? と不信感いっぱいの声を返してきた。
「俺、この間工藤とカレー食べに行った丹羽です。あの」
『あー、あの。なに、どしたの、こんな時間に』
穏やかな口調に俺は密かにがっかりした。この言い方だと工藤はこの人のところにいない。でも訊いておかねば。
「紺さんは工藤の神様なんですよね。今日はそっちに工藤、いますか」
質問に対して戻ってきたのは沈黙だった。なにかを思い悩むような息遣いが回線の向こうから感じられる。根競べするみたいに黙った後、ふっと溜め息が耳の中に落ちてきた。
『いない。僕にはパートナーいるし、凪も遠慮するんじゃないの?』
「パートナーいるのに、高校生拾ったんですか」
つい声が尖ってしまう。紺さんはまた黙ってから、あのさ、とだるそうに続けた。
『なんか勘違いしてるみたいだけど、僕は凪に後ろ暗いことはしてない。子どもが困ってたから寝る場所貸しただけ。まあ、僕みたいなのばっかりじゃないだろうから、ああいうのやめろって凪には言ったけどね。って、なに? もしかして凪、また家帰ってないの』
「……多分」
諭されたみたいでひどくむかつく。でも手がかりはこの人だけだ。
「あの、工藤がどこ行ったか、なにか知りませんか。探したいんだけど、全然わかんなくて」
『探すって……。君も高校生でしょ。夜中にふらふらしちゃだめだよ。親御さんが心配……』
「親なんてどうでもいいんだよ!」
怒鳴ると電話口で紺さんが絶句した。そうされて反省する。
この人に当たり散らしても仕方ないのに。
「すみません。でも工藤、ひとりにしたくなくて。だから……」
だから、と言いかけて俺は言葉を探す。本当に無謀なことしてるな、と自分でも思ったから。
でもこのままになんてしておきたくない。だから。
『そっか、よかった』
そのとき、ふっと安堵に緩んだ吐息がスマホの向こうから聞こえ、俺は瞬きをする。
よかった?
え、と漏らした声と、劇場前、と言う声が重なった。
『凪が神待ちしてた場所。今日もいるかはわかんないけど、もしかしたらいるかも。あと、泊めてくれる人いないかって投稿をフォトスタでしてたみたいだから見てみな』
「あり、がとうございます!」
頭を下げ、通話を終えようとする。その俺を、あのさ、と言う声が止めた。
『凪見つかったらさ、店においで』
「え、なんで……」
『カレーならたんまりあるからさ』
じゃあね、と言って通話は向こうから切れた。
紺さんのこの対応は普通の大人らしくはないかもしれないけど、べたつかず淡泊なこの空気が心地よかったから工藤もあのカレー屋に通っていたのかもしれない。
後押しされた気持ちになりながら、まだ熱を持つスマホを握り締め走る。けど、信号待ちの間にフォトスタで「家泊めて」で検索してみて一気に血の気が下がった。
思った以上に投稿数が多いのだ。ざっとみて二十以上はある。慌てて菊塚市を検索ワードに入れる。さすがに件数は減ったけど、まだある。そろそろとタイムラインを辿っていて息が止まった。
深海のような暗い水底に一筋の光が落ちて来る、ダークトーンのアイコン。そして。
――今夜、泊めてくれる人、いませんか。十七歳 男 #家出
――いいよー。DM送ってくれる? 待ち合わせしよ。
「あの馬鹿……」
投稿された時間は今から十五分前。すでにリプもついている。
落ち合う場所まではさすがにオープンになっていない。俺の予想もつかない場所だったら捕まえられない。
それでも、どうかいてくれ! と願いながら紺さんに教わった劇場前へと急ぐと、終電前だからかまだ街には活気があり、酔っ払いやら客引きやらでごった返していた。
それだけじゃない。劇場前の階段に座る人々の中には、家出中としか思えない大きな鞄を抱えた学生風のやつらの姿もある。
工藤もこの中にいるのかも。そわそわしながら辺りを見回して十五分ほど経ったろうか。いきなり肩がくん、と引かれた。
ぎょっとして振り返る。
俺の腕を掴んでいたのは、母さんより少し年上と思しき、濃い化粧とごわついた肩までの髪の見知らぬ女だった。
「ナギくんだよね? その金髪、すぐわかったよ」
「え……?」
「あー、ごめんね、ちゃんと名乗ってなかった。私、さよぽん。ほら」
言いながら女はスマホの画面をつい、と俺の目の前にかざす。
表示されていたのはDM画面だった。菊塚劇場前で、と書かれた文字が見える。
「家、それほど遠くないけど車で来たから。駐車場あっちなんで、行こ」
女の手に力が籠る。ねっとりと熱いその手の温度にぞっとした。
工藤は本気でこの女の家に行くつもりなんだろうか? いや、紺さんみたいな人もいるから一概に悪人とは言えないかもだけど、こっちに向けられる視線は粘ついていて、ただの善意だけとは思えない。
もし善意じゃないとしたら。
「あんたさあ!」
「すみません」
声が投げ込まれ、俺と女は同時にそちらを見る。
「ナギは俺です。さよぽんさんですか?」
そこには工藤がいた。見慣れたスポーツバッグを肩に負って女に向かって微笑んでいた。
「あ、あー! そうなの! じゃあ、い、行こか」
俺の腕から女の手が解ける。そのままその手は工藤の細い二の腕に絡みつく。工藤はこっちを見もしない。冷水にじんわりと熱を足したような薄い笑みを浮かべて去っていこうとする。
温度なんて目で見えるわけない。なのに、俺の腕を掴んだときの女のじっとりとした体温が、工藤の腕にじりっと沁み込むのがはっきり見えて、たまらなくなった。
「だめ」
手を伸ばし、工藤が肩から下げているスポーツバッグの肩紐をぐいっと掴む。頼りない手ごたえに胸がくっと痛んだが、そのまま引くと工藤はよろめいて俺の腕の中へ落ちてきた。
「なんだよ」
工藤の目はやっぱりこっちを見ない。ただ氷結王子のときの声だけが俺を拒絶する。
「邪魔すんなよ。チャラ王子」
「うっさい! いいから来い!」
怒鳴って肘を掴んで走り出す。おいこら! と工藤が叫んで腕を引き抜こうとしたけど、それを越える力で俺は工藤の腕を引き続けた。
めちゃくちゃに走り、近くの路地に入り込む。それでも手を離さずにいると、なんなの、と工藤がやっとこっちを見た。
「なんでこんなとこにいんの? ストーカー? お前のせいで今夜の宿なくなったんだけど。どうしてくれんの? 次探さないと」
「だめ」
「意味わかんない。戻る。放して」
「やだ」
「やだじゃねえよ! なんの権利があって……」
「権利ないことくらいわかってんだよ! けどしょうがねえだろ!」
かっかしながら俺は足を踏み鳴らす。
ほんとガキみたいだ。空気読めるチャラ王子はどこ行ったって感じ。でももう抑えられない。
だって、俺、俺は。
「俺、お前のこと好きなんだから!」
俺の手から逃れようと暴れていた工藤が硬直する。呆然と見上げてくる工藤の目から俺は慌てて目を逸らす。
ああもう、俺はなんてことを言っているんだろう。でももう、だめだ。
もう、引き返せない。
「好きだからお前がよくわかんない人の家に泊まんのやなの! 触られんのもめっちゃくちゃやだし、ひとりで悩んでんのもすっごくつらいの! わかれよくそが!」
「……なに、言ってんの」
呼吸を思い出したみたいに工藤が肩で息をする。鋭い目が俺をぎっと睨んだ。
「大体さ、俺のこと好きってなんで? 顔? まあ、俺のことよく見てたもんね。でもさあ、丹羽、顔で嫌な思いしてきたくせに俺の顔見て好きになってんの? それちょっと……」
「でもお前は俺と違うじゃん」
「なにが」
「誰にでも笑ったりしない。だから余計に思っちゃったんだよ。笑った顔、見たいって」
言っているうちに恥ずかしくなってきた。でもちゃんと言わないと工藤はどこかへ行ってしまう。
それは、嫌だ。
「お前が笑ってくれるなら、俺、殺せるよ」
俺の手の中で工藤の腕が震える。握っておかないと消えてしまいそうな工藤の体温を逃さないように、俺は手に力を込める。
「手伝う。なんでも。工藤が一緒にいてくれるなら」
「馬鹿じゃないの」
薄い唇がわななく。ゆらっと首を振り、工藤は反対の手に持っていたバッグを地面に投げ捨てた。その手で拳を作り、俺の胸を叩く。
「お前、やっぱおかしいわ。そんなこと簡単に言うなよ」
「簡単じゃない。工藤が真剣に願ってることだし」
「俺はお前が地底行きたいって言ったの、笑ったのに?」
確かにその通りだ。地底なんてないなんて台詞、工藤にだけは言われたくなかった。
でも今、俺は地底世界への憧れ以上に思っちゃっている。
「しょうがないじゃん。地底でひとりになるより、工藤と一緒にいたいって思っちゃったんだから」
さすがに照れ臭い。顔を伏せ、前髪を引っ張ったとき、あのさ、と声がした。そろそろと窺うと、垂れ下がった白金色の前髪の向こうから声は響いていた。
「腕、放せよ」
「放したらどっか行くだろ」
「当然だろ。今夜の宿探さなきゃ」
「うち来ればいい」
「お前の母親に取っ掴まって強制送還されるのはごめんだ」
工藤の言う通り、俺の家へ工藤を連れていったって解決なんてしない。子どもの俺達にできることなんてどれほどもない。わかっている。ああ、嫌ってくらい。
でも今夜、こいつが見知らぬ誰かの欲にさらされるなんて俺には我慢できない。
無力なくせに俺はなんて欲深いんだろう。
手の中にある工藤の腕を俺は確かめるようにもう一度握る。
「どこにも居場所ねえな。俺達」
「お前にはあるだろ」
「あったとしても、工藤が笑ってないならそこは俺の場所じゃない」
言い切った俺を工藤がはっと見上げる。なんで、と声が滲んだ。
「お前さ、わかってんの? 殺すとか手伝うとか。俺達ただ一緒に穴掘ってただけだろ。それなのになんでそこまで言うの」
「考えてみろよ。夜中に一緒に穴掘ってくれるやつなんてお前以外いねえよ。それだけでも十分な理由じゃねえの」
苦笑いすると、工藤は虚を突かれたように目を見張る。
「おめでたすぎる。さすがチャラ王子……」
「だーかーら! チャラ王子って言うなって。大体、俺こんなことお前にしか言わね……」
「ああもう、わかってる、わかってるよ。俺も、俺だって」
また馬鹿にしてくるのだろうか。顔をしかめながら言いかけた俺が見たのは泣き笑いみたいな工藤の笑顔だった。
「お前しかいらないよ」
瞬間、周囲に漂っていたざわめきが巻き取られるみたいに消えた。
「丹羽」
だめだ、脳が全然働いてくれない。朦朧とする俺の服の胸辺りがくっと掴まれる。見下ろすと、骨ばった手が俺のシャツを握り込み、きゅっと拳を作っていた。
俺を見上げる工藤の目にたゆたうのは、涙の膜。
「俺と地底行ってくんない?」



