十月も半ばともなると夜は冷え込む。厚みも考えず適当にその辺にあった服を着てきたせいで、ひんやりとした夜気が体にこたえる。それでも帰って着替える気にはなれなくて、俺はポイントDのせっせと工藤と掘り進めていた穴の脇に座った。
工藤は俺と違って装備に余念がないから、土木用のしっかりとしたシャベルで作業する。その必死さは穴の深さに表れていて、俺がひとりで探索していたときよりもずっと深い穴が地面には穿たれている。
それくらいあいつは地底世界に焦がれている。俺なんかよりずっと。
三角座りをし、膝頭に額を押し当てる。そうしながら俺は硬く目を瞑る。
会ってなにを言ったらいいかなんてわからない。でも、会わなきゃと思った。会って……それから……。
約束の時間は二十三時。まだ一時間近くある、と思っていた俺の耳に、森の中を分け入ってくる足音が聞こえてきて、俺はとっさに息を殺す。もたれていた大樹にぐっと背中を押し付けながら俺はふと気付く。ここはあそこだ。人に見つかる、と樹に押し付けられ、工藤から抱きしめられたあの。
――大人しくしてな。いい子だから。
掠れた独特の声が記憶の中から囁きかけてきて、俺は小さく息を呑む。
「早くない?」
俺の耳の中に蘇ったのと同じ声が投げられる。弾かれたように顔を上げると、木々の間から姿を現した工藤が手にした懐中電灯で俺の顔を照らしてきた。
「まだいつもの時間じゃないよ?」
「工藤、こそ」
眩しくて片手で目を庇い、やっとのことで声を絞り出す。工藤はいつも通りのやる気のない仕草でゆらっと首を傾げた。
「俺はいつもこれくらいだし」
……ああ、家にいたくないから。
ぼんやりと思ってしまってから俺は首をふるふると振る。その俺を工藤は探るような目でじっと見つめてくる。
「俺の家で、誰かに会った?」
低い声。学校で話すときの声に近いけど少し違う……これは、警戒している声だ。
「……ん、会った」
「なんか言われた?」
ぱしゃりといきなり視界を覆った黒。荒い息遣い。はっきりとした敵意が浮かんだ、目。
思い出したそれらに俺は身をすくめる。その俺を工藤は立ったまま見下ろす。
「まあ、大体想像はつく。で? なに。なんか用あってうち来たんだろ」
「用っていうか……工藤急に学校来なくなったじゃん。だから」
「だから? 俺達、ちょっと休んだからって見舞いに来るほど仲良かったっけ?」
なんだ、これ。
まるっきり氷結王子だ。地底探索を共にしようと誓い合った仲間にする話し方じゃない。
「キスの話、したかったから」
弱気を見せたら負けだ。必死に顔を作りながら俺は工藤を睨み上げる。
「なにそれ。もしかして、マジで初めてだったとか?」
工藤の顔に浮かんだのは皮肉げな笑みだった。そんな顔を見たら、落ち着いて話そうと思っていたのに頬が熱を持ってしまう。
「違うっての。でもそれこそ仲良しでもねえのにあんなことすんのおかしいだろうが」
「そうかな。メリットさえあれば俺は誰とでもするけど」
「はっ……?」
メリット。
その一言を聞いた瞬間、すっと背筋に寒気が走った。顔を強張らせる俺の頭の上で工藤がふっと息を吐いた。軽薄な息の吐き方だった。
「で? 丹羽くんはなに? キスされて怒り狂って俺と話したかったと」
「ちげーよ! ってかくん付けすんな! むかつくから!」
かっとなって立ち上がる。立ってしまえば俺よりこいつは小さく見える。でも凍り付いた表情には脆さも弱さも感じられない。それが悔しい。苦しいしすごく、寂しい。
「工藤は……アガルタ一緒に行こうって言ってくれたじゃん」
工藤は無言のまま俺を見上げてくる。波ひとつ立たない凍った瞳で。そんな目で見ないで、と言って肩を揺さぶってしまいたい気持ちを俺は必死に押し殺す。
「俺だってそうだよ。お前と行こうって思ってる。だから地底へ行きたい理由、お前に話したんだよ」
彫像に話しかけている気分になりながら、俺は息を整えて声を吐き続ける。
「俺、今日お前の家行って思った。お前もやっぱりテストが嫌だからって理由で地底に行きたいわけじゃないんだって。だって、さ、お前……」
「丹羽って、ほんっとおめでたいわ」
吐き捨てられ、言葉が口の中で消える。俺を見る工藤の顔には嘲るような笑みが浮かんでいた。
「アガルタとか本気であると思ってんの?」
「……は?」
一瞬、言われた意味がわからなかった。瞬きを繰り返しやっとのことで声を絞り出す。
「だって、お前、ずっと探してた……よな。ほら地質図とか」
「地質図ねえ」
工藤の形のいい唇が歪にひん曲げられるのを俺は呆然と見つめる。
そんなの見たくないのに、視線が釘付けになって離れない。
「あれはさ、それっぽいの引っ張り出してみせただけ」
「え、ちょ、は? どういう意味?」
「いやいや、わかるだろ」
くすくすと細い肩を揺らし、工藤が笑う。こっちを見た目には学校で見るのと同じ、冷たい光があった。
「だってあのチャラ王子がだよ? 地底世界信じて夜な夜な地面掘り返してるなんて面白すぎだろ。どうせなら特等席で眺めたいじゃん。だから話合わせただけ。資料あるほうがお仲間だって信じてもらえるし」
さっぱり意味がわからなくて、俺はゆるゆると首を振る。
「じゃあシャベルは? あんなのなんで持ってんの? ロープだって、ランタンだって! そもそもお前だって穴掘ってたよな! 手、マメだらけで、汗だくで! あんなのさあっ」
上がっていた工藤の口角がすっと下がる。ほらやっぱり、と続けようとした俺の胸を工藤の掌がどん、と突いた。
「ってかさ、丹羽、会ったんじゃないの? うちの父親」
なにすんだ、と言いかけた俺を、くっと顎を上げるようにして工藤が見る。威圧感のある眼光に俺は僅かに怯む。
「会った、けど」
「じゃあわかんない? 俺の家がどんな状態か」
声を飲み込んでしまった俺を工藤は鋭い目で見上げてから、すっと身を引き、ぶらぶらと歩き出す。進む先にあるのは、工藤が熱心に掘っていた穴。
「あの人と俺さ、血繋がってないんだよ。実は」
穴の縁に膝を突き、中を見下ろしながら工藤が囁く。穴の奥の誰かに聞かせるみたいに。
「あの人は母さんが再婚した人。俺からしたら二人目の父親ってやつ。でも俺が小学校六年のとき、母さんがほかの男と不倫して出てった」
細い背中をこっちに向けたまま、工藤は言葉を紡ぎ続ける。揺れも掠れもない、淡々とした声で。
「本当ならさ、あの人俺を放り出したってよかったんだよ。でもあの人は俺を育ててくれた。俺もあの人に懐いてたし、一緒にいられてうれしかった。でもさ、そんなの最初だけだったんだよ。だって俺の顔、母親似なんだもん」
工藤が自分のことを話してくれている。望んでいた状況のはずなのに漂う空気が冷たすぎて震えが止まらない。
「どんどん母親に似てくる俺を見て、あの人がなにしたと思う?」
聞きたくない。なのに明るささえ纏った工藤の声は夜気の中に吐き出され続ける。
ぴしりと心が軋む音とともに。
「まず俺が友達と遊ぶの禁止した。特に男はだめ。それだけじゃない。酔って母さんの名前で俺を呼んだ。キスされたこともある。俺と母さんは違うって言いたくて髪色変えてみたりピアス開けてみたりもしたけど効果なくて。だから」
まだまだ続きそうだったけどこれ以上語らせちゃいけない気がした。背中を向けてしゃがんでいた工藤の肩を引っ掴むと、冴え冴えした色の目がこっちを睨んだ。
「なに、同情してんの?」
「違う! 違うけど! だから地底行こうって話なんじゃねえの? そうじゃなきゃこんな穴掘らないだろ! 手、そんなにしてまでさあ!」
「だーかーら! 頭湧いてるお前と一緒にすんなって!」
乱暴な手つきで俺の手を払い、工藤が立ち上がる。ぎらぎらした目でこっちを見つめながら工藤はまくしたてた。
「中二病。地底になんか最初から行きたくないっての。何度言えばわかんの」
「いやいやいや! 行きたくないくせにここまでやるか?」
「やるよ」
低い声がびしりと俺の頬を打つ。その声に引きずられたようにざわりざわり、と頭上で木々が揺れた。葉陰の間から落ちてきたのは、光。
青白い月光に照らされ、工藤がゆっくりと笑んだ。
「だって俺、埋めたいもん。親のこと」
滑らかな頬が寒々しく光る。その頬を引きつらせるようにして工藤は唇の端をなおも吊り上げた。
「最初にお前見たときは驚いた。まさか俺みたいに穴掘りまくるやつがいるなんて思わなかったし。しかも理由が地底に行きたいからって。面白すぎだろ。目的忘れてつい楽しんじゃったよ」
丹羽、とほのかに憐れみを纏った声が俺を呼ぶ。
「お前は自由に息したくて地底に行きたいんだろうけどさ、俺はただ邪魔なものを穴の中に片付けたかっただけ。お前と俺はね、最初から違ったんだよ」
「それ……」
――何の用だ! 汚らわしい!
血走った目。憎悪によって相好さえ変わってしまったあの人の顔。浴びせられた粘ついた液体。なにもかもが俺より遠い。
でも遠いと思ってしまうその世界の真ん中にこいつはずっとい続けている。ずっと。
そのことに俺はなにも気付いていなかった。
「工藤は……殺そうとしてんの? お父さんのこと」
「まさか」
くっと工藤の肩が揺れる。ポケットから引っ張り出されたのはスマホだった。それをするすると操作し、工藤はついと画面をこっちに向けて掲げる。
そこに写っていたのは、どこかの家族の画像。工藤も写っているのかと探してみたけど、夫婦の間にいる五歳ほどの子どもは工藤には見えない。どう見ても女の子だ。
「これは?」
「母親の新しい家族。俺ね、こいつら全員この穴に叩き込みたいんだよね」
気怠く言う声は学校での声に似ていた。分厚い壁の向こうで呟くみたいに工藤は続ける。
「フォトスタでこの写真見つけたときは震えたなあ。父さんと俺がそれこそ地の底みたいなとこにいるってのに、こいつら笑ってんだもん。ふざけんなって感じじゃん。そう思わない?」
言葉で同意を求めながらも本当の意味で答えなんていらないっていう顔で工藤は画面をそっとなぞる。
「殺したいって、こと?」
「だったらどうする? お前の母親に言う?」
ふっと工藤の顔から笑みが剥がれ落ちる。スマホを元通りポケットに押し込み、顎を上げて俺を見る。
「びっくりしたわー。お前の家行ったら、俺のこと補導してきた警官がいるんだもん。マジでビビった。ってかさ、あんな母親いんのに夜中に出歩いちゃだめじゃん。警官の息子が夜遊びなんてしゃれになんないだろ」
――あの子、夜に繁華街徘徊しては神待ちしてるの。
俺だって馬鹿じゃない。神待ちがどんなものかくらい知っている。でも母さんは俺がその言葉を知らないと思ったらしくて、神待ちってのはね、とわざわざ説明してくれようとした。
それが……猛烈にむかついた。
俺があんたから引き継いだこの顔のせいでどれだけ苦労してきたかも知らないで、
武装するみたいに一個ずつピアスの穴を刻んだその理由も考えないで。
母さんの中で俺は純真無垢な子どものままなのだと思ったら……目の前がちかちかするくらい苛立った。
工藤もそうだ。俺を綺麗な人間だと思っている。それが悔しくて、たまらない。
「母親は関係ねえだろ。俺はただ、お前が心配で、だから」
「心配、か。じゃあさ」
すっと工藤が一歩こっちに近づく。伸びあがった工藤の吐息がさらっと俺の耳を撫でた。
「殺すの、手伝ってよ」
俺の顔は今、どうなっているんだろう。呆然としているのか。それとも恐怖にひきつっているのか。
どんな顔を工藤にさらしてしまっているのか。
答え合わせはしたくない。だから目を伏せた。その俺の顔のすぐそばで、ふっと工藤が息を吐いた。
「中途半端なのは笑顔だけにしなよ。チャラ王子」
するりと身を引いた工藤が軽やかに言う。怒りも悲しみもない、けどどうしようもなく空虚な声を俺に投げつけ、俺の脇を抜けていく。
待って、と叫ぼうとした。なのに、声は喉に張り付いて出なかった。
――神待ちってのはね、家に帰りたくない子が家に泊めてくれる大人を探すこと。工藤くんはそれしてたの。家庭環境ってのはあると思う。でも多分、そういうことをする子と七音じゃ価値観が違う。だから。
うっせーよ、とあしらうことも、わかってるって、と邪険に扱うこともこれまでしてきた。でもここまで母親に対して憎しみに似た苛立ちを覚えたのは初めてだったかもしれない。それくらい俺はこの話を聞いたとき、母親を邪魔だと思った。
けど、わかってもいた。母さんが親として俺を案じているだろうことが。
幼いころに父親がいなくなって、母さんとふたりになって。家族は母さんだけで。だからこそ母さんが俺を心配するその気持ちだってわかるようになってしまっていたから。
でもその、わかる、こそが俺と工藤を隔ててしまう。
だって工藤には、俺にはいる親ってやつがいない。いても、いない。
工藤からしたら、そんな俺からの言葉なんて憐れみにしか思えない。
そんな相手になにが言えるってんだ。
「なんも言えるわけ、ねえ……」
だから……膝に額を押し付けた。
ただただ自分が情けなかった。
工藤は俺と違って装備に余念がないから、土木用のしっかりとしたシャベルで作業する。その必死さは穴の深さに表れていて、俺がひとりで探索していたときよりもずっと深い穴が地面には穿たれている。
それくらいあいつは地底世界に焦がれている。俺なんかよりずっと。
三角座りをし、膝頭に額を押し当てる。そうしながら俺は硬く目を瞑る。
会ってなにを言ったらいいかなんてわからない。でも、会わなきゃと思った。会って……それから……。
約束の時間は二十三時。まだ一時間近くある、と思っていた俺の耳に、森の中を分け入ってくる足音が聞こえてきて、俺はとっさに息を殺す。もたれていた大樹にぐっと背中を押し付けながら俺はふと気付く。ここはあそこだ。人に見つかる、と樹に押し付けられ、工藤から抱きしめられたあの。
――大人しくしてな。いい子だから。
掠れた独特の声が記憶の中から囁きかけてきて、俺は小さく息を呑む。
「早くない?」
俺の耳の中に蘇ったのと同じ声が投げられる。弾かれたように顔を上げると、木々の間から姿を現した工藤が手にした懐中電灯で俺の顔を照らしてきた。
「まだいつもの時間じゃないよ?」
「工藤、こそ」
眩しくて片手で目を庇い、やっとのことで声を絞り出す。工藤はいつも通りのやる気のない仕草でゆらっと首を傾げた。
「俺はいつもこれくらいだし」
……ああ、家にいたくないから。
ぼんやりと思ってしまってから俺は首をふるふると振る。その俺を工藤は探るような目でじっと見つめてくる。
「俺の家で、誰かに会った?」
低い声。学校で話すときの声に近いけど少し違う……これは、警戒している声だ。
「……ん、会った」
「なんか言われた?」
ぱしゃりといきなり視界を覆った黒。荒い息遣い。はっきりとした敵意が浮かんだ、目。
思い出したそれらに俺は身をすくめる。その俺を工藤は立ったまま見下ろす。
「まあ、大体想像はつく。で? なに。なんか用あってうち来たんだろ」
「用っていうか……工藤急に学校来なくなったじゃん。だから」
「だから? 俺達、ちょっと休んだからって見舞いに来るほど仲良かったっけ?」
なんだ、これ。
まるっきり氷結王子だ。地底探索を共にしようと誓い合った仲間にする話し方じゃない。
「キスの話、したかったから」
弱気を見せたら負けだ。必死に顔を作りながら俺は工藤を睨み上げる。
「なにそれ。もしかして、マジで初めてだったとか?」
工藤の顔に浮かんだのは皮肉げな笑みだった。そんな顔を見たら、落ち着いて話そうと思っていたのに頬が熱を持ってしまう。
「違うっての。でもそれこそ仲良しでもねえのにあんなことすんのおかしいだろうが」
「そうかな。メリットさえあれば俺は誰とでもするけど」
「はっ……?」
メリット。
その一言を聞いた瞬間、すっと背筋に寒気が走った。顔を強張らせる俺の頭の上で工藤がふっと息を吐いた。軽薄な息の吐き方だった。
「で? 丹羽くんはなに? キスされて怒り狂って俺と話したかったと」
「ちげーよ! ってかくん付けすんな! むかつくから!」
かっとなって立ち上がる。立ってしまえば俺よりこいつは小さく見える。でも凍り付いた表情には脆さも弱さも感じられない。それが悔しい。苦しいしすごく、寂しい。
「工藤は……アガルタ一緒に行こうって言ってくれたじゃん」
工藤は無言のまま俺を見上げてくる。波ひとつ立たない凍った瞳で。そんな目で見ないで、と言って肩を揺さぶってしまいたい気持ちを俺は必死に押し殺す。
「俺だってそうだよ。お前と行こうって思ってる。だから地底へ行きたい理由、お前に話したんだよ」
彫像に話しかけている気分になりながら、俺は息を整えて声を吐き続ける。
「俺、今日お前の家行って思った。お前もやっぱりテストが嫌だからって理由で地底に行きたいわけじゃないんだって。だって、さ、お前……」
「丹羽って、ほんっとおめでたいわ」
吐き捨てられ、言葉が口の中で消える。俺を見る工藤の顔には嘲るような笑みが浮かんでいた。
「アガルタとか本気であると思ってんの?」
「……は?」
一瞬、言われた意味がわからなかった。瞬きを繰り返しやっとのことで声を絞り出す。
「だって、お前、ずっと探してた……よな。ほら地質図とか」
「地質図ねえ」
工藤の形のいい唇が歪にひん曲げられるのを俺は呆然と見つめる。
そんなの見たくないのに、視線が釘付けになって離れない。
「あれはさ、それっぽいの引っ張り出してみせただけ」
「え、ちょ、は? どういう意味?」
「いやいや、わかるだろ」
くすくすと細い肩を揺らし、工藤が笑う。こっちを見た目には学校で見るのと同じ、冷たい光があった。
「だってあのチャラ王子がだよ? 地底世界信じて夜な夜な地面掘り返してるなんて面白すぎだろ。どうせなら特等席で眺めたいじゃん。だから話合わせただけ。資料あるほうがお仲間だって信じてもらえるし」
さっぱり意味がわからなくて、俺はゆるゆると首を振る。
「じゃあシャベルは? あんなのなんで持ってんの? ロープだって、ランタンだって! そもそもお前だって穴掘ってたよな! 手、マメだらけで、汗だくで! あんなのさあっ」
上がっていた工藤の口角がすっと下がる。ほらやっぱり、と続けようとした俺の胸を工藤の掌がどん、と突いた。
「ってかさ、丹羽、会ったんじゃないの? うちの父親」
なにすんだ、と言いかけた俺を、くっと顎を上げるようにして工藤が見る。威圧感のある眼光に俺は僅かに怯む。
「会った、けど」
「じゃあわかんない? 俺の家がどんな状態か」
声を飲み込んでしまった俺を工藤は鋭い目で見上げてから、すっと身を引き、ぶらぶらと歩き出す。進む先にあるのは、工藤が熱心に掘っていた穴。
「あの人と俺さ、血繋がってないんだよ。実は」
穴の縁に膝を突き、中を見下ろしながら工藤が囁く。穴の奥の誰かに聞かせるみたいに。
「あの人は母さんが再婚した人。俺からしたら二人目の父親ってやつ。でも俺が小学校六年のとき、母さんがほかの男と不倫して出てった」
細い背中をこっちに向けたまま、工藤は言葉を紡ぎ続ける。揺れも掠れもない、淡々とした声で。
「本当ならさ、あの人俺を放り出したってよかったんだよ。でもあの人は俺を育ててくれた。俺もあの人に懐いてたし、一緒にいられてうれしかった。でもさ、そんなの最初だけだったんだよ。だって俺の顔、母親似なんだもん」
工藤が自分のことを話してくれている。望んでいた状況のはずなのに漂う空気が冷たすぎて震えが止まらない。
「どんどん母親に似てくる俺を見て、あの人がなにしたと思う?」
聞きたくない。なのに明るささえ纏った工藤の声は夜気の中に吐き出され続ける。
ぴしりと心が軋む音とともに。
「まず俺が友達と遊ぶの禁止した。特に男はだめ。それだけじゃない。酔って母さんの名前で俺を呼んだ。キスされたこともある。俺と母さんは違うって言いたくて髪色変えてみたりピアス開けてみたりもしたけど効果なくて。だから」
まだまだ続きそうだったけどこれ以上語らせちゃいけない気がした。背中を向けてしゃがんでいた工藤の肩を引っ掴むと、冴え冴えした色の目がこっちを睨んだ。
「なに、同情してんの?」
「違う! 違うけど! だから地底行こうって話なんじゃねえの? そうじゃなきゃこんな穴掘らないだろ! 手、そんなにしてまでさあ!」
「だーかーら! 頭湧いてるお前と一緒にすんなって!」
乱暴な手つきで俺の手を払い、工藤が立ち上がる。ぎらぎらした目でこっちを見つめながら工藤はまくしたてた。
「中二病。地底になんか最初から行きたくないっての。何度言えばわかんの」
「いやいやいや! 行きたくないくせにここまでやるか?」
「やるよ」
低い声がびしりと俺の頬を打つ。その声に引きずられたようにざわりざわり、と頭上で木々が揺れた。葉陰の間から落ちてきたのは、光。
青白い月光に照らされ、工藤がゆっくりと笑んだ。
「だって俺、埋めたいもん。親のこと」
滑らかな頬が寒々しく光る。その頬を引きつらせるようにして工藤は唇の端をなおも吊り上げた。
「最初にお前見たときは驚いた。まさか俺みたいに穴掘りまくるやつがいるなんて思わなかったし。しかも理由が地底に行きたいからって。面白すぎだろ。目的忘れてつい楽しんじゃったよ」
丹羽、とほのかに憐れみを纏った声が俺を呼ぶ。
「お前は自由に息したくて地底に行きたいんだろうけどさ、俺はただ邪魔なものを穴の中に片付けたかっただけ。お前と俺はね、最初から違ったんだよ」
「それ……」
――何の用だ! 汚らわしい!
血走った目。憎悪によって相好さえ変わってしまったあの人の顔。浴びせられた粘ついた液体。なにもかもが俺より遠い。
でも遠いと思ってしまうその世界の真ん中にこいつはずっとい続けている。ずっと。
そのことに俺はなにも気付いていなかった。
「工藤は……殺そうとしてんの? お父さんのこと」
「まさか」
くっと工藤の肩が揺れる。ポケットから引っ張り出されたのはスマホだった。それをするすると操作し、工藤はついと画面をこっちに向けて掲げる。
そこに写っていたのは、どこかの家族の画像。工藤も写っているのかと探してみたけど、夫婦の間にいる五歳ほどの子どもは工藤には見えない。どう見ても女の子だ。
「これは?」
「母親の新しい家族。俺ね、こいつら全員この穴に叩き込みたいんだよね」
気怠く言う声は学校での声に似ていた。分厚い壁の向こうで呟くみたいに工藤は続ける。
「フォトスタでこの写真見つけたときは震えたなあ。父さんと俺がそれこそ地の底みたいなとこにいるってのに、こいつら笑ってんだもん。ふざけんなって感じじゃん。そう思わない?」
言葉で同意を求めながらも本当の意味で答えなんていらないっていう顔で工藤は画面をそっとなぞる。
「殺したいって、こと?」
「だったらどうする? お前の母親に言う?」
ふっと工藤の顔から笑みが剥がれ落ちる。スマホを元通りポケットに押し込み、顎を上げて俺を見る。
「びっくりしたわー。お前の家行ったら、俺のこと補導してきた警官がいるんだもん。マジでビビった。ってかさ、あんな母親いんのに夜中に出歩いちゃだめじゃん。警官の息子が夜遊びなんてしゃれになんないだろ」
――あの子、夜に繁華街徘徊しては神待ちしてるの。
俺だって馬鹿じゃない。神待ちがどんなものかくらい知っている。でも母さんは俺がその言葉を知らないと思ったらしくて、神待ちってのはね、とわざわざ説明してくれようとした。
それが……猛烈にむかついた。
俺があんたから引き継いだこの顔のせいでどれだけ苦労してきたかも知らないで、
武装するみたいに一個ずつピアスの穴を刻んだその理由も考えないで。
母さんの中で俺は純真無垢な子どものままなのだと思ったら……目の前がちかちかするくらい苛立った。
工藤もそうだ。俺を綺麗な人間だと思っている。それが悔しくて、たまらない。
「母親は関係ねえだろ。俺はただ、お前が心配で、だから」
「心配、か。じゃあさ」
すっと工藤が一歩こっちに近づく。伸びあがった工藤の吐息がさらっと俺の耳を撫でた。
「殺すの、手伝ってよ」
俺の顔は今、どうなっているんだろう。呆然としているのか。それとも恐怖にひきつっているのか。
どんな顔を工藤にさらしてしまっているのか。
答え合わせはしたくない。だから目を伏せた。その俺の顔のすぐそばで、ふっと工藤が息を吐いた。
「中途半端なのは笑顔だけにしなよ。チャラ王子」
するりと身を引いた工藤が軽やかに言う。怒りも悲しみもない、けどどうしようもなく空虚な声を俺に投げつけ、俺の脇を抜けていく。
待って、と叫ぼうとした。なのに、声は喉に張り付いて出なかった。
――神待ちってのはね、家に帰りたくない子が家に泊めてくれる大人を探すこと。工藤くんはそれしてたの。家庭環境ってのはあると思う。でも多分、そういうことをする子と七音じゃ価値観が違う。だから。
うっせーよ、とあしらうことも、わかってるって、と邪険に扱うこともこれまでしてきた。でもここまで母親に対して憎しみに似た苛立ちを覚えたのは初めてだったかもしれない。それくらい俺はこの話を聞いたとき、母親を邪魔だと思った。
けど、わかってもいた。母さんが親として俺を案じているだろうことが。
幼いころに父親がいなくなって、母さんとふたりになって。家族は母さんだけで。だからこそ母さんが俺を心配するその気持ちだってわかるようになってしまっていたから。
でもその、わかる、こそが俺と工藤を隔ててしまう。
だって工藤には、俺にはいる親ってやつがいない。いても、いない。
工藤からしたら、そんな俺からの言葉なんて憐れみにしか思えない。
そんな相手になにが言えるってんだ。
「なんも言えるわけ、ねえ……」
だから……膝に額を押し付けた。
ただただ自分が情けなかった。



