「ああ、やっぱり似合うー! よかった、お化け屋敷にして!」
「なー! やっぱ文化祭っていえばお化け屋敷だよな、俺の功績でかいよな!」
「うん! うん! 野村! あんたの功績エベレスト級! おかげでイケメンふたりに驚かされるなんて夢のシチュが実現する!」
「ほんとありがたすぎる……。むしろ客として永遠に中にいたい……」
お化け屋敷ねえ。衣装係の女子グループプラス、お化け屋敷発案者の野村のテンションに密やかに引きながら、俺はへらりと笑う。
「なあ、お化け屋敷ってうらめしやーとかじゃないの? これってなんのコス?」
「吸血鬼!」
女子三人にハモられて失笑するしかない。
だってお化け屋敷に吸血鬼って。いや別にだめってわけじゃない。わけじゃないけど、せっせと作られている大道具が茅葺屋根だったり、敗れた障子戸だったりするのを見ていたら、白いシャツに燕尾服、その上に黒マントを羽織った自分が滑稽に思えて仕方ない。俺の感覚がおかしいんだろうか。
「なあ、ほかのお化けも洋ものだよな? 俺だけこれってこと、ないよな」
「ないない! 安心して! 工藤くんにも吸血鬼頼んであるから!」
「……ちょっと待って。なんで吸血鬼ふたりもいんの? 普通、ひとりじゃね?」
「吸血鬼の兄弟によって日本の農村が襲われ、村民皆が異形に墜ちるって設定なの。だから大丈夫!」
……おい、誰だ、その設定考えたやつ。頭大丈夫か。
「ほんとに工藤もこれ、着るの?」
「の、予定! でも全然捕まらなくて。どーしよ、本番明後日なのに」
眉を下げる女子に、そうだよねえ、と作り笑顔で頷きながら、俺は気付かれないように息を吐く。
あの日、慌ただしく森で別れてから一週間が経っていた。その間、俺は夜の探索に出かけていない。工藤からはまったく気にしていないふうの「ポイントDで待ってる」といった誘いが普通にあったが、それを、
――母親に感づかれたっぽくて。しばらく家から出るの無理っぽい。
なんて理由をつけて俺は断っていた。
もともと誰にも知られてはならないというルールがあるから、工藤の返事は実にあっさりしていて、
――どんくさ。抜けられるようになったらまた連絡して。
くらいだ。俺が嘘をついているなんてかけらも思っていない。
そう、工藤はなにも感じていない。あの夜、俺と交わしたすべての会話についてもただの世間話と思っている。その証拠に学校での工藤の態度には一切の変化が見られない。目が合っても道端で犬のふんでも見たみたいなしかめ面をよこす。
でも俺はそんなふうにはできない。
――やっぱいいわ。夜見る丹羽の顔。
あんなこと言われて、しかも、身を隠すためとはいえ、急に抱きしめ、られて。
――大人しくしてな。いい子だから。
シャツ越しに感じた滲むみたいな体温。重なった心臓の音。頭を撫でてきた細い手。立ち込める土の匂いにほのかに混じった甘い香り。
匂いってのは記憶に残りやすいっていうけど、その通りだった。もう一週間も経つのに俺の鼻はあの香りを忘れてくれない。
本当ならあいつの顔を通常通り眺め崇めたい。でもあいつの顔をちらとでも見ると、あの夜の香りだとか体温だとか思い出しちゃってどうにもならない。
だからこの一週間、俺はできるだけ工藤を見ないようにしていた。幸いにもというべきか、文化祭の準備が始まって慌ただしくて、ぼんやりばかりもしていられなかったから、いいといえばいいんだけど、それでもやっぱりあいつをちょっとでも視界に入れると緊張してしまう。
いや。
……どきどき、してしまう。
「なあ、工藤と俺、絡み少なくなんない? 俺、あいつと反り合わなくてさー」
「あ、うん、だよねえ。わかるんだけど……今回のコンセプト、ふたり吸血鬼だから」
だからそのコンセプト、どうにかなんないのかよ……。
肩を落とす俺をよそに女子達はまだきゃあきゃあ言っている。
「うちのクラス最強でしょ。二大イケメンがそろってるんだもん。グランプリ、もらったようなもんだよね」
「ねー!」
「問題は工藤くんがこれ着てくれるかどうか」
「そこよ。最大の難関は」
あいつは着ないだろうよ、と呆れながらマントだけ脱ごうとホックを外した、そのときだった。
「ってかさ、私、一昨日の夜、工藤くん見ちゃった!」
女子のひとりが声を潜めて言う。夜、というワードに俺は凍り付く。
「そうなの? え、どこで?」
あいつ、まさか探索の途中で目撃されたのか? 見つからないようにって俺には口を酸っぱくして言うくせに。なにやってんだあの馬鹿、とひやひやしながら俺は耳をそばだてる。
「それがさー、ほら、菊塚自然の森あるじゃん。あそこの近くのバス停にいた」
「え、なんであんなとこ? ひとりで?」
「いや、背、高い男と一緒。こう、腰に手、回されて話してたの」
「うそー!」
……そこって。
一瞬、くらっとした。だって。
……ポイントDじゃん……。
別にあいつが誰といようと関係ない。でも、ふたりで決めた場所のそばに別のやつといるってどういう状況なんだろう。
もしかして。いや、まさか。でも。
……俺以外にも地底探索を一緒にする仲間がいるって、こと?
慌ただしく教室の中を見回す。当然ながら工藤の姿はない。あいつは協調性ってやつを完全に地の底に落っことしているからいなくて当然かもしれないが、それにしたって協力しなさすぎだ。
いらいらしながら俺は教室を出る。トイレとは逆方向、昇降口へと足早に歩く。その俺を通りすがりのやつらがやたら振り返る。いつもならそれに笑顔を返すけど、今日はそんな気になれない。
くっそ、と舌打ちしながら下駄箱を確認すると、工藤の靴はまだあった。
校内にはいるらしい。
「あいつ……」
「丹羽?」
あまりにも突然すぎて体が跳ねてしまった。ぎこぎこと首を巡らせ、目を見開く。
探していた相手がいつもながらのだるそうな立ち姿で佇んでいた。
「なに。俺の靴にナメクジでも仕込もうとしてんの?」
最近の俺達にとって嫌味も悪口も挨拶みたいなものだ。誰にも気付かれないように、という約束に則っての行動だから、工藤のこの発言に間違いはない。むしろめっちゃ正しい。
でも……今は、無理だ。
今だけは。
「お前さ」
「なに」
「裏切ったよな」
「はあ?」
蜂蜜色の瞳が面倒臭そうに眇められる。その工藤に向かって俺は一歩歩を詰めた。
「俺以外とポイントD行ったんだろ!」
俺がそう言うや否や、工藤の手がむんずと腕を掴んできた。乱暴に揺さぶられて我に返る。と同時に耳に周囲の人声が戻ってきた。
「王子達、今日も喧嘩?」
「ポイントがどうとか聞こえたけど。なに?」
「どっちが輝いてるかポイント競ってるとか?」
「なにそれ。喧嘩の仕方まで眩しい~」
ヤバい、まだ人結構、いた……。
「ちょっと来い」
どすの利いた声で工藤が言う。ぐん、と引っ張られてよろめきながら俺は足を動かす。
探索のときにも思ったけど、こいつは力が強い。軽くめくったシャツの袖から覗く腕は俺より細いのに、大型のシャベルでぐいぐい穴を掘ってみせる。今もそうだ。俺のほうが身長だって体重だってあるのに、引きずられている。
されるがままになってしまう。
「お前、ふざけてんの?」
工藤が俺を連れてきたのは、人気の絶えた視聴覚室だった。ドアに穿たれた窓以外、すべての窓に暗幕が下ろされた室内は暗く、夜みたいなねっとりとした闇が室内にわだかまっている。その暗いままの室内で工藤は癇癪を起こしたみたいに俺の腕をぐっと握り締めてきた。
「言ったよな。俺達の探索のこと、知られたらそいつ始末するって。あの場にいた全員、俺に殺させたいの」
「違っ……だ、って」
だってお前が悪いのに。そもそもお前が裏切ったくせに。俺は苛立って工藤に掴まれた腕を振り回す。でも工藤の手は離れてくれない。
「もう! 放せってば!」
「嫌だ。下手に放すとまたアホなことしそうだから」
「アホなことしてんのは工藤だろ! 俺以外と探索行ったくせに!」
「さっきからなに言ってんの」
ダンゴムシでも見るみたいなその顔。その顔がすごく、すごく苛つく。
「だって工藤、俺以外と、ポイントD、行った……」
工藤がふっと薄い唇を開く。なんだよほんとに行ってたのかよ、と思ったらめちゃくちゃ悲しくなってきた。いや、悲しいとは少し、違う。
「俺だけじゃなかったの?」
……凍りそうなくらい、寂しい。
「もしかして、俺が勘違いしてんの? 俺達ってのは工藤と俺だけじゃなかった? パーティー、実は何人組だったの?」
口を動かせば動かすほど胸が苦しくなってくる。肺に空気を入れるように肩で息をする。でも息苦しさは全然解消されない。
「なあ、工藤、なんで……」
「行ってない」
硬い声に思わず顔を上げる。
だるさの一切ない、こっちだけに全神経を集中したみたいな顔に一瞬、言葉が詰まった。でもやっぱり納得できなくて俺は首を打ち振る。
「だって、中村が言ってた! 一昨日その辺にいたって! 男と!」
腰に手回されて。
その一言は言えなかった。くっと唇を噛む俺を仰ぎ見るようにして綺麗な顔が見上げてくる。強い光を目に宿したまま、工藤は言葉を紡ぐ。
「そんなことしてない。変な言いがかりつけんな、くそが」
「はあ?! んだよ、それ! 目撃したやついんのに?!」
「一昨日は家にいた! 俺の家、親、夜いないし、証明はできないけど嘘はついてない! ほんともう……」
一気に声を荒らげた工藤が一歩俺に向かって歩を進める。
なんだよ、また罵る気か? こっちの気も知らないで。きっと鋭く工藤を睨み返したときだった。
工藤が細い肩を軽く上下させた。
「丹羽としか行かないよ……」
声に俺は硬直する。怒鳴り声ともいつものだるそうなものとも違う、すごく途方に暮れたみたいな声だったから。
しかもこいつなんか、顔、赤い……?
でも、なんでこいつがそんな顔をしているのか俺には全然わからない。わからなすぎて、つい反発してしまう。
「条件が合えば俺じゃなくたっていいくせに……!」
言葉を咎めるように工藤が顔を上げる。あ、と思った俺の隙を突いて手が伸ばされた。殴られるのか、と防御姿勢を取ろうとしたが、そうじゃ、なかった。
「なんでそんな泣きそうな顔で言ってくんの、丹羽は」
俺の肩を抱き寄せた工藤のささやかな声によって、耳たぶのリングピアスがさらっと撫でられる。数秒呆然としてから感じたのは、燃えるような頬の熱さ。
「な、なに言ってんの……俺がそんな……」
「してるでしょうが。そんなんされたら、学校用の顔なんてしてらんないっての、まったく……なあ」
工藤の声が鼓膜と体に伝わる振動と両方から沁みこむ。
「なにしたら俺の無実、信じんの?」
「え……」
「丹羽に疑われたままなのは嫌だし。なにしたら信じてくれるか、教えてよ」
固まる俺の肩に腕を回したまま、工藤が軽く爪先立って俺の耳に唇を寄せてくる。
「信じてくれるならなんでも一個、頼み聞いてやる」
「は?! たの、み……って」
……なにがどうなっているんだろう。なんでこんなことになった?
だめだ、全然理解が追いつかない。耳に差しこまれる少し掠れた声、左耳で輝くピアスの赤。俺を包むのは、甘い花みたいな香り。それらが正常な思考の邪魔をする。
しかも……食らいつかれそうな距離にある艶めいた赤い唇に気が付くと目がいってしまって、これなんかもう……。
……キス、しちゃいたい、かも。
「キ……っ」
って、キスってなんだ俺! なに口走ろうとした俺! ええと、ええと……。
「き、き、吸血鬼!」
「は?」
驚いたように瞬かれて、こっちも金縛りが解けた。
「吸血鬼やって。俺と」
「なに言ってんの?」
「いや、あの、だから、頼まれただろ。お化け屋敷。吸血鬼やってって」
「あー。なんかこれ着てって変な衣装着させられそうにはなった。え、あれって吸血鬼だったの」
……おい、衣装係、断られる云々の前に話が全然通じてないぞ、どういう説明したんだよアホが。
きゃあきゃあ騒いでいたあいつらを脳内で叱り飛ばしながら、俺は苦い息を吐く。
「俺も吸血鬼やれって言われてんの。純和風のセットの中で俺だけ吸血鬼はきついから、お前もやって。そしたら信じてやる」
唖然としたように工藤は俺を見返す。俺の首に腕を絡めたままで。
真っ白だった頭に血が巡ってくると同時に頬が赤くなってきた。ええと、と言ったところで俺は固まった。
工藤がいきなり吹き出したために。
「ちょ! なに! なんで笑うの!」
「いや、だって。一個だけのお願いが吸血鬼って。なんだよ、なんでだよ。ほかになんかないの」
「ほか?! い、いや、ってか大体、ずるいんだよ! なんで俺だけ吸血鬼させられないといけねえんだっての!」
「断ればいいのにできない。そこが八方美人の馬鹿チャラ男」
さらさらっと暴言が吐かれる。なんだと、と目を尖らせるが、工藤はどこ吹く風だ。何事もなかったみたいに首からするっと腕を解く。
「あー。くそだるい」
その腕で工藤が大きく伸びをする。猫みたいな仕草で。
「けど、丹羽の頼みだし仕方ないか」
……丹羽の頼みだしって。なんだよ、ほんと。
反応に困って目を伏せるが、いきなり顔を覗き込まれて軽く跳ねてしまった。
「な、なに」
「それ、吸血鬼のコス?」
つん、と細い指にひらひらしたシャツの胸元を突かれ、俺は赤面する。
吸血鬼コスのままだった……。かっかしてたとはいえこのまま来ちゃうとか、周りが見えてないにも程がある。
「ハズ……」
「ほんと。ハズいな。まあ、でも」
くっくっと工藤が笑う。誰のせいだと思ってんだこの、と拳を握る俺を声が止めた。
「めっちゃ似合う。俺ですらちょっとくらっときたわ」
さあて、面倒だけど行くか、と呟きながら工藤がドアをからっと開ける。陽光に似た色の髪がきらっと輝くのを俺は呆然と見つめる。そうしながらそろそろと手を伸ばして胸に手を置く。
掌の下、突かれた胸が痛んでいた。物理的にってことじゃない。
俺の内側にいるなにかを工藤の指が起こして、そのなにかが俺の心臓を加減なくぎゅうっと握ったみたいな、そんな痛みだった。
「丹羽、さっさとしろよ」
やっとのことで足を床から引き剥がしながら俺は片手で口元を覆う。
廊下にいる工藤はもう笑っていない。なのに、俺の網膜はあいつの笑顔をしっかりと記録してしまっていて、仏頂面のあいつの顔にエフェクトをかけてしまう。
さっき俺に見せた笑顔を勝手に再生してしまう。
……これ、なに。
もう工藤はこっちを振り返らない。多分、教室に着くまでこのままだろう。学校ではいつも通りの距離で。それが俺達の約束だから。
でも俺はそんなのもう嫌だって思い始めちゃっている。共犯者の眼差しじゃ足りない。学校でだって笑顔を向けてほしいし、隣に座りたい。それからあの独特の掠れ具合をするあいつの声で、丹羽、って呼んでほしい。
いや、それだけじゃ、なくて。
脳裏に、さっき間近で見た工藤の唇が浮かんで、俺は立ちすくんだ。
テレビや絵画の中の人を愛でるみたいに眺めていたはずだった。多分、鑑賞するってのに近い感情だったと思う。でも今、俺の中にあるのは鑑賞なんて生易しい感情じゃなかった。
廊下を遠ざかっていく細い背中を見送りながら必死に口を押さえる。そうしないと胸の中から湧き出した気持ちのままにとんでもないことを言ってしまいそうで、怖くて。
……ああ。もう。
こんなの、もういいやって思ってたのに。絶対だめだって思ってたのに。
自分で自分が嫌になる。ぐったりしながら、俺は口元に当てていた手を滑らせ、両目を覆った。
だけど、いくら目を塞いだとしてももう心の奥に刻まれた本心からは目を逸らせない。
俺を釘付けにする心の壁に刻まれた言葉。それは、
……工藤のこと、好きだ。
と読めた。
「なー! やっぱ文化祭っていえばお化け屋敷だよな、俺の功績でかいよな!」
「うん! うん! 野村! あんたの功績エベレスト級! おかげでイケメンふたりに驚かされるなんて夢のシチュが実現する!」
「ほんとありがたすぎる……。むしろ客として永遠に中にいたい……」
お化け屋敷ねえ。衣装係の女子グループプラス、お化け屋敷発案者の野村のテンションに密やかに引きながら、俺はへらりと笑う。
「なあ、お化け屋敷ってうらめしやーとかじゃないの? これってなんのコス?」
「吸血鬼!」
女子三人にハモられて失笑するしかない。
だってお化け屋敷に吸血鬼って。いや別にだめってわけじゃない。わけじゃないけど、せっせと作られている大道具が茅葺屋根だったり、敗れた障子戸だったりするのを見ていたら、白いシャツに燕尾服、その上に黒マントを羽織った自分が滑稽に思えて仕方ない。俺の感覚がおかしいんだろうか。
「なあ、ほかのお化けも洋ものだよな? 俺だけこれってこと、ないよな」
「ないない! 安心して! 工藤くんにも吸血鬼頼んであるから!」
「……ちょっと待って。なんで吸血鬼ふたりもいんの? 普通、ひとりじゃね?」
「吸血鬼の兄弟によって日本の農村が襲われ、村民皆が異形に墜ちるって設定なの。だから大丈夫!」
……おい、誰だ、その設定考えたやつ。頭大丈夫か。
「ほんとに工藤もこれ、着るの?」
「の、予定! でも全然捕まらなくて。どーしよ、本番明後日なのに」
眉を下げる女子に、そうだよねえ、と作り笑顔で頷きながら、俺は気付かれないように息を吐く。
あの日、慌ただしく森で別れてから一週間が経っていた。その間、俺は夜の探索に出かけていない。工藤からはまったく気にしていないふうの「ポイントDで待ってる」といった誘いが普通にあったが、それを、
――母親に感づかれたっぽくて。しばらく家から出るの無理っぽい。
なんて理由をつけて俺は断っていた。
もともと誰にも知られてはならないというルールがあるから、工藤の返事は実にあっさりしていて、
――どんくさ。抜けられるようになったらまた連絡して。
くらいだ。俺が嘘をついているなんてかけらも思っていない。
そう、工藤はなにも感じていない。あの夜、俺と交わしたすべての会話についてもただの世間話と思っている。その証拠に学校での工藤の態度には一切の変化が見られない。目が合っても道端で犬のふんでも見たみたいなしかめ面をよこす。
でも俺はそんなふうにはできない。
――やっぱいいわ。夜見る丹羽の顔。
あんなこと言われて、しかも、身を隠すためとはいえ、急に抱きしめ、られて。
――大人しくしてな。いい子だから。
シャツ越しに感じた滲むみたいな体温。重なった心臓の音。頭を撫でてきた細い手。立ち込める土の匂いにほのかに混じった甘い香り。
匂いってのは記憶に残りやすいっていうけど、その通りだった。もう一週間も経つのに俺の鼻はあの香りを忘れてくれない。
本当ならあいつの顔を通常通り眺め崇めたい。でもあいつの顔をちらとでも見ると、あの夜の香りだとか体温だとか思い出しちゃってどうにもならない。
だからこの一週間、俺はできるだけ工藤を見ないようにしていた。幸いにもというべきか、文化祭の準備が始まって慌ただしくて、ぼんやりばかりもしていられなかったから、いいといえばいいんだけど、それでもやっぱりあいつをちょっとでも視界に入れると緊張してしまう。
いや。
……どきどき、してしまう。
「なあ、工藤と俺、絡み少なくなんない? 俺、あいつと反り合わなくてさー」
「あ、うん、だよねえ。わかるんだけど……今回のコンセプト、ふたり吸血鬼だから」
だからそのコンセプト、どうにかなんないのかよ……。
肩を落とす俺をよそに女子達はまだきゃあきゃあ言っている。
「うちのクラス最強でしょ。二大イケメンがそろってるんだもん。グランプリ、もらったようなもんだよね」
「ねー!」
「問題は工藤くんがこれ着てくれるかどうか」
「そこよ。最大の難関は」
あいつは着ないだろうよ、と呆れながらマントだけ脱ごうとホックを外した、そのときだった。
「ってかさ、私、一昨日の夜、工藤くん見ちゃった!」
女子のひとりが声を潜めて言う。夜、というワードに俺は凍り付く。
「そうなの? え、どこで?」
あいつ、まさか探索の途中で目撃されたのか? 見つからないようにって俺には口を酸っぱくして言うくせに。なにやってんだあの馬鹿、とひやひやしながら俺は耳をそばだてる。
「それがさー、ほら、菊塚自然の森あるじゃん。あそこの近くのバス停にいた」
「え、なんであんなとこ? ひとりで?」
「いや、背、高い男と一緒。こう、腰に手、回されて話してたの」
「うそー!」
……そこって。
一瞬、くらっとした。だって。
……ポイントDじゃん……。
別にあいつが誰といようと関係ない。でも、ふたりで決めた場所のそばに別のやつといるってどういう状況なんだろう。
もしかして。いや、まさか。でも。
……俺以外にも地底探索を一緒にする仲間がいるって、こと?
慌ただしく教室の中を見回す。当然ながら工藤の姿はない。あいつは協調性ってやつを完全に地の底に落っことしているからいなくて当然かもしれないが、それにしたって協力しなさすぎだ。
いらいらしながら俺は教室を出る。トイレとは逆方向、昇降口へと足早に歩く。その俺を通りすがりのやつらがやたら振り返る。いつもならそれに笑顔を返すけど、今日はそんな気になれない。
くっそ、と舌打ちしながら下駄箱を確認すると、工藤の靴はまだあった。
校内にはいるらしい。
「あいつ……」
「丹羽?」
あまりにも突然すぎて体が跳ねてしまった。ぎこぎこと首を巡らせ、目を見開く。
探していた相手がいつもながらのだるそうな立ち姿で佇んでいた。
「なに。俺の靴にナメクジでも仕込もうとしてんの?」
最近の俺達にとって嫌味も悪口も挨拶みたいなものだ。誰にも気付かれないように、という約束に則っての行動だから、工藤のこの発言に間違いはない。むしろめっちゃ正しい。
でも……今は、無理だ。
今だけは。
「お前さ」
「なに」
「裏切ったよな」
「はあ?」
蜂蜜色の瞳が面倒臭そうに眇められる。その工藤に向かって俺は一歩歩を詰めた。
「俺以外とポイントD行ったんだろ!」
俺がそう言うや否や、工藤の手がむんずと腕を掴んできた。乱暴に揺さぶられて我に返る。と同時に耳に周囲の人声が戻ってきた。
「王子達、今日も喧嘩?」
「ポイントがどうとか聞こえたけど。なに?」
「どっちが輝いてるかポイント競ってるとか?」
「なにそれ。喧嘩の仕方まで眩しい~」
ヤバい、まだ人結構、いた……。
「ちょっと来い」
どすの利いた声で工藤が言う。ぐん、と引っ張られてよろめきながら俺は足を動かす。
探索のときにも思ったけど、こいつは力が強い。軽くめくったシャツの袖から覗く腕は俺より細いのに、大型のシャベルでぐいぐい穴を掘ってみせる。今もそうだ。俺のほうが身長だって体重だってあるのに、引きずられている。
されるがままになってしまう。
「お前、ふざけてんの?」
工藤が俺を連れてきたのは、人気の絶えた視聴覚室だった。ドアに穿たれた窓以外、すべての窓に暗幕が下ろされた室内は暗く、夜みたいなねっとりとした闇が室内にわだかまっている。その暗いままの室内で工藤は癇癪を起こしたみたいに俺の腕をぐっと握り締めてきた。
「言ったよな。俺達の探索のこと、知られたらそいつ始末するって。あの場にいた全員、俺に殺させたいの」
「違っ……だ、って」
だってお前が悪いのに。そもそもお前が裏切ったくせに。俺は苛立って工藤に掴まれた腕を振り回す。でも工藤の手は離れてくれない。
「もう! 放せってば!」
「嫌だ。下手に放すとまたアホなことしそうだから」
「アホなことしてんのは工藤だろ! 俺以外と探索行ったくせに!」
「さっきからなに言ってんの」
ダンゴムシでも見るみたいなその顔。その顔がすごく、すごく苛つく。
「だって工藤、俺以外と、ポイントD、行った……」
工藤がふっと薄い唇を開く。なんだよほんとに行ってたのかよ、と思ったらめちゃくちゃ悲しくなってきた。いや、悲しいとは少し、違う。
「俺だけじゃなかったの?」
……凍りそうなくらい、寂しい。
「もしかして、俺が勘違いしてんの? 俺達ってのは工藤と俺だけじゃなかった? パーティー、実は何人組だったの?」
口を動かせば動かすほど胸が苦しくなってくる。肺に空気を入れるように肩で息をする。でも息苦しさは全然解消されない。
「なあ、工藤、なんで……」
「行ってない」
硬い声に思わず顔を上げる。
だるさの一切ない、こっちだけに全神経を集中したみたいな顔に一瞬、言葉が詰まった。でもやっぱり納得できなくて俺は首を打ち振る。
「だって、中村が言ってた! 一昨日その辺にいたって! 男と!」
腰に手回されて。
その一言は言えなかった。くっと唇を噛む俺を仰ぎ見るようにして綺麗な顔が見上げてくる。強い光を目に宿したまま、工藤は言葉を紡ぐ。
「そんなことしてない。変な言いがかりつけんな、くそが」
「はあ?! んだよ、それ! 目撃したやついんのに?!」
「一昨日は家にいた! 俺の家、親、夜いないし、証明はできないけど嘘はついてない! ほんともう……」
一気に声を荒らげた工藤が一歩俺に向かって歩を進める。
なんだよ、また罵る気か? こっちの気も知らないで。きっと鋭く工藤を睨み返したときだった。
工藤が細い肩を軽く上下させた。
「丹羽としか行かないよ……」
声に俺は硬直する。怒鳴り声ともいつものだるそうなものとも違う、すごく途方に暮れたみたいな声だったから。
しかもこいつなんか、顔、赤い……?
でも、なんでこいつがそんな顔をしているのか俺には全然わからない。わからなすぎて、つい反発してしまう。
「条件が合えば俺じゃなくたっていいくせに……!」
言葉を咎めるように工藤が顔を上げる。あ、と思った俺の隙を突いて手が伸ばされた。殴られるのか、と防御姿勢を取ろうとしたが、そうじゃ、なかった。
「なんでそんな泣きそうな顔で言ってくんの、丹羽は」
俺の肩を抱き寄せた工藤のささやかな声によって、耳たぶのリングピアスがさらっと撫でられる。数秒呆然としてから感じたのは、燃えるような頬の熱さ。
「な、なに言ってんの……俺がそんな……」
「してるでしょうが。そんなんされたら、学校用の顔なんてしてらんないっての、まったく……なあ」
工藤の声が鼓膜と体に伝わる振動と両方から沁みこむ。
「なにしたら俺の無実、信じんの?」
「え……」
「丹羽に疑われたままなのは嫌だし。なにしたら信じてくれるか、教えてよ」
固まる俺の肩に腕を回したまま、工藤が軽く爪先立って俺の耳に唇を寄せてくる。
「信じてくれるならなんでも一個、頼み聞いてやる」
「は?! たの、み……って」
……なにがどうなっているんだろう。なんでこんなことになった?
だめだ、全然理解が追いつかない。耳に差しこまれる少し掠れた声、左耳で輝くピアスの赤。俺を包むのは、甘い花みたいな香り。それらが正常な思考の邪魔をする。
しかも……食らいつかれそうな距離にある艶めいた赤い唇に気が付くと目がいってしまって、これなんかもう……。
……キス、しちゃいたい、かも。
「キ……っ」
って、キスってなんだ俺! なに口走ろうとした俺! ええと、ええと……。
「き、き、吸血鬼!」
「は?」
驚いたように瞬かれて、こっちも金縛りが解けた。
「吸血鬼やって。俺と」
「なに言ってんの?」
「いや、あの、だから、頼まれただろ。お化け屋敷。吸血鬼やってって」
「あー。なんかこれ着てって変な衣装着させられそうにはなった。え、あれって吸血鬼だったの」
……おい、衣装係、断られる云々の前に話が全然通じてないぞ、どういう説明したんだよアホが。
きゃあきゃあ騒いでいたあいつらを脳内で叱り飛ばしながら、俺は苦い息を吐く。
「俺も吸血鬼やれって言われてんの。純和風のセットの中で俺だけ吸血鬼はきついから、お前もやって。そしたら信じてやる」
唖然としたように工藤は俺を見返す。俺の首に腕を絡めたままで。
真っ白だった頭に血が巡ってくると同時に頬が赤くなってきた。ええと、と言ったところで俺は固まった。
工藤がいきなり吹き出したために。
「ちょ! なに! なんで笑うの!」
「いや、だって。一個だけのお願いが吸血鬼って。なんだよ、なんでだよ。ほかになんかないの」
「ほか?! い、いや、ってか大体、ずるいんだよ! なんで俺だけ吸血鬼させられないといけねえんだっての!」
「断ればいいのにできない。そこが八方美人の馬鹿チャラ男」
さらさらっと暴言が吐かれる。なんだと、と目を尖らせるが、工藤はどこ吹く風だ。何事もなかったみたいに首からするっと腕を解く。
「あー。くそだるい」
その腕で工藤が大きく伸びをする。猫みたいな仕草で。
「けど、丹羽の頼みだし仕方ないか」
……丹羽の頼みだしって。なんだよ、ほんと。
反応に困って目を伏せるが、いきなり顔を覗き込まれて軽く跳ねてしまった。
「な、なに」
「それ、吸血鬼のコス?」
つん、と細い指にひらひらしたシャツの胸元を突かれ、俺は赤面する。
吸血鬼コスのままだった……。かっかしてたとはいえこのまま来ちゃうとか、周りが見えてないにも程がある。
「ハズ……」
「ほんと。ハズいな。まあ、でも」
くっくっと工藤が笑う。誰のせいだと思ってんだこの、と拳を握る俺を声が止めた。
「めっちゃ似合う。俺ですらちょっとくらっときたわ」
さあて、面倒だけど行くか、と呟きながら工藤がドアをからっと開ける。陽光に似た色の髪がきらっと輝くのを俺は呆然と見つめる。そうしながらそろそろと手を伸ばして胸に手を置く。
掌の下、突かれた胸が痛んでいた。物理的にってことじゃない。
俺の内側にいるなにかを工藤の指が起こして、そのなにかが俺の心臓を加減なくぎゅうっと握ったみたいな、そんな痛みだった。
「丹羽、さっさとしろよ」
やっとのことで足を床から引き剥がしながら俺は片手で口元を覆う。
廊下にいる工藤はもう笑っていない。なのに、俺の網膜はあいつの笑顔をしっかりと記録してしまっていて、仏頂面のあいつの顔にエフェクトをかけてしまう。
さっき俺に見せた笑顔を勝手に再生してしまう。
……これ、なに。
もう工藤はこっちを振り返らない。多分、教室に着くまでこのままだろう。学校ではいつも通りの距離で。それが俺達の約束だから。
でも俺はそんなのもう嫌だって思い始めちゃっている。共犯者の眼差しじゃ足りない。学校でだって笑顔を向けてほしいし、隣に座りたい。それからあの独特の掠れ具合をするあいつの声で、丹羽、って呼んでほしい。
いや、それだけじゃ、なくて。
脳裏に、さっき間近で見た工藤の唇が浮かんで、俺は立ちすくんだ。
テレビや絵画の中の人を愛でるみたいに眺めていたはずだった。多分、鑑賞するってのに近い感情だったと思う。でも今、俺の中にあるのは鑑賞なんて生易しい感情じゃなかった。
廊下を遠ざかっていく細い背中を見送りながら必死に口を押さえる。そうしないと胸の中から湧き出した気持ちのままにとんでもないことを言ってしまいそうで、怖くて。
……ああ。もう。
こんなの、もういいやって思ってたのに。絶対だめだって思ってたのに。
自分で自分が嫌になる。ぐったりしながら、俺は口元に当てていた手を滑らせ、両目を覆った。
だけど、いくら目を塞いだとしてももう心の奥に刻まれた本心からは目を逸らせない。
俺を釘付けにする心の壁に刻まれた言葉。それは、
……工藤のこと、好きだ。
と読めた。



