琵琶のほとりのクリスティ

 母が夜勤だということもあって、今日はこのまま上の自宅スペースにお泊りする運びとなった。
 珠子さんは朝早い仕込みがある為、お風呂を済ませた後はすぐに床に就いてしまった。
 クリスさんも同じだ。
 私は何だか眠れなくて、静かに喫茶店の方へと降りて来ていた。
 カウンター席に腰かけ、腕を枕にしてうつ伏せる。
 そのまま横の方に顔を向けてみれば、すっかり見慣れた仕事中とは違った景色が見えた。
 月明かりに照らされた家具や小物が創り出す影が、不思議と面白く見える。

「いい香り……」

 いつもの珈琲豆と、木の香り。
 私は目を閉じた。
 壁掛けの振り子時計が、時を刻む音だけが聞こえる。
 と、少し遠くの方から、小さな足音が聞こえて来た。
 何となく分かる。クリスさんだ。

「眠れないんですか?」

 ホールに顔を出したクリスさんが尋ねてきた。

「ちょっとだけ、ドキドキしてて……眠れない、と言うか、眠りたくないなって」

「あらあら。素敵ですね、それ」

 そう言うと、クリスさんは私の横の席に腰を降ろした。
 それと同時に、机上には礼のお酒の瓶が置かれた。

「お手隙でしたら、お酌をお願いしてもよろしいでしょうか?」

 静かな店内に、お猪口が机上を滑る音が響いた。
 クリスさんはそう言うけれど、本心ではそれを待っているような、そんな表情をしていた。

「ぜひ。お酒、お借りしますね」

 私はクリスさんの傍らからそれを取り上げると、蓋を開け、お猪口の真ん中辺りまで注いだ。

「ありがとうございます。せっかくですから、月を見ながら飲みましょう」

 クリスさんの言葉に従い、私たちは月明かり射す窓際の席へ、机を挟んで座り直した。
 良い香りがしますね。そう言って微笑むと、クリスさんは控えめに一口。
 小さく動く口元は、中で転がして楽しんでいるのだろう。
 やがて喉へ送ると「ふぅ」と息を吐いて窓の外へと視線を送った。

「月並みですが、美味しいものですね。さほど疲れているという訳ではない身体にも、染みわたるようです」

「それは良かったです。どうぞ、私は忘れて楽しんでください」

 そう言うと、クリスさんは少し迷っているように眉根を下げた。
 何も言わずに続く言葉を待っていると、やがて「実は」と口を開いた。

「――私ね。本当は、外部から人を雇うつもりはなかったんですよ。私は祖母から、祖母はその母から、といった具合に、このお店は代々続いて来たお店でして。一子相伝、という訳ではありませんが、創業当初より、身内以外の店員を雇ったこともないそうなんです」

「そう、だったんですね……」

「ええ。私はこのお店が、そしてこのお店を守って来た祖母が大好きで、その伝統のようなものを崩したくなくて。家族だけで続けていくんだって、そういう気持ちで働いて来ました」

 なぜだろう……なぜか、言葉が出せない。
 歓迎会で、私はクリスさんに激励の言葉を掛けて貰った。それは確かに嬉しかった筈なのに、なんでこんな……。

「でも――」

 俯く私に、クリスさんは続ける。

「祖母の身体が、実は以前から少し良くなくて……だから、祖母の負担を少しでも減らせるよう、一人だけ外部から雇うことに決めたんです。でも、意外にも応募は集まらなくて……ほっとしたり残念に思ったり、忙しい心持ちでした」

「クリスさん……」

「でもね。妹尾雫さん。私、貴女に出会えて良かった。こんなに素敵な優しい子が働いてくれるのなら、意固地になる必要もなかったなって、今になると思えるんです。先ほどの歓迎会で言った言葉は、偽りない本当の気持ちなんですよ。まだ出会ってひと月ばかりしか経っていませんが、貴女はもう、うちにいなくてはならない存在になってしまっているんです」

「そ、そんな――」

 思わず顔を上げて捉えたその表情に――



「ほんまおおきにね、雫さん」



 私は、言葉を失ってしまった。
 月明かりに照らされた、頬杖をつくクリスさんの顔は、言い表せないくらいに優しく、また温かく、そしてあまりに美しいものだったから。