◆公私の境界線が溶ける頃◆

 それは、あっけないほど静かな始まりだった。交際が始まって数日。春の柔らかな風が頬を撫でる午後、スタジオのラウンジには二人の笑い声が響いていた。

「ほら、シュン、これ。新しい歌詞のアイデア」

ミライが差し出したノートには、ぎこちない英語と繊細な日本語が並んでいた。

「“Reflections Requiem”か……いいタイトルだな」
「鏡の中の自分と向き合うような曲が作りたかったの。……ねえ、私、ちゃんと変われてるかな?」

シュンは、ゆっくりとその問いに頷いた。

「変わってるよ。けど……変わらない部分も、大事にしてくれ」

ミライは、ほんの少しだけ目を潤ませて微笑んだ。それは、誰かを救おうとする人の目だった。

──シュンには、その視線が時折、遠い誰かを重ねているようにも見えた。

◆消えたひと◆

 【彼女と別れたら、会ってね】

シュンは返せなかった。

──何て返せば良いんだ…
──なぜ、急にアイはあんなメールを。

シュンは、アイのことを口にしなくなった。それから、アイの連絡はぱったりと途絶えた。心の奥にそっと仕舞うようにして、ミライとの時間に集中した。けれど、夜ふと目を閉じたとき、耳に響く声があった。

──「彼女と別れたら、会ってね」

その言葉は、まるで夢の中にだけ現れる幻のように、シュンの中に何度も現れては消えた。春風が通りすぎたあとの空気が、やけに冷たく感じた。

──まるで、何かがすぐそばに“いた”証のように。

街には春が過ぎ、初夏の気配が漂い始めていた。

◆「Reflections Requiem」の誕生◆

 シュンのスタジオには、夜がよく似合った。ピアノの上に置かれたコーヒーカップ。譜面台に立てかけられた未完成のスコア。ミライは黙ってピアノの前に座る。

「“鏡の中の影”って、どんなふうに歌うべきだと思う?」
「影は……もうひとりの自分だ。だけど、もしかしたら、誰かの記憶かもしれない」
「記憶……?」
「忘れたくないけど、もう触れられないもの。……それでも、確かにそこに“いた”って信じたい」

ミライは、そっとペンを走らせた。

“誰かがそっと名前を呼ぶ──”

それは誰の声だったのか。夜の静寂が、音のない問いを包み込んでいた。

「この曲が完成したら、次のステージに行ける気がするの」

ミライの声に、シュンは静かにうなずいた。

「この曲には……君の“すべて”を込めてほしい」
「すべて?」
「そう、過去も未来も。たとえそれが、壊れてしまうものだとしても──」

その言葉に、ミライは何かを感じ取ったように、ほんの少し眉を寄せた。
──“壊れても、残るものがある”。まるで未来の誰かに語りかけるような、そんな言い方だった。

◆記憶の海に浮かぶもの◆

 深夜のモニター越し、シュンはひとり、古い録音データを聴いていた。それは、2007年の音声ファイル。

「……これ、東京駅の音……だよな」

改札を通る音、人波、誰かの笑い声。声の質が、ほんの少しだけ違って聞こえる気がした。かすかに、若い女性の声が重なる──

「じゃあ、またね!」

シュンは、そっと目を閉じた。思い出のはずなのに、どこかノイズのような違和感が混じっていた。記憶の断片が、曖昧に歪んでいく。

──本当に、あれは“あのときの彼女”だったのか?

わからない。けれど、忘れてはいけない何かがある気がした。心の奥の奥に、誰にも触れられたくない記憶の核。シュンは思いを巡らしていた。

「シュン」

ミライは、そっと背中越しに声をかけた。

「ねえ、何聴いてるの?」
「……ただのノイズ混じりのデータだ。気にしなくていい」
「ノイズって、何かを隠してる音じゃない?」

──ふと、ミライの何気ない言葉が胸に刺さった。

まるで、誰かが“真実”を覆い隠すために生んだ音のように。

◆公開リハーサルの夜に◆

 夏の始まり。
ミライの初披露ライブに向けて、公開リハーサルが行われる夜。「Reflections Requiem」は、彼女の魂そのものになっていた。曲が始まると、まるで時間が止まったような空気が会場を包む。“運命さえも超えてゆける──” その瞬間、シュンはステージに立つミライを見て、思った。

──俺は、過去ではなく“今”を選ぶ。

けれど、その選択の奥に、誰かの影が微かに揺れているようにも思えた。それは幻だったのか。それとも──未来の予感なのか。

◆新たなスタートライン◆

 2012年春。都内のライブハウス。
スポットライトの下で、ミライはマイクを握っていた。ステージの中央に立つ彼女の姿は、かつての不安定さを微塵も感じさせない。歌声は力強く、観客の心を一音ごとに震わせていた。その袖口。シュンは、黙ってその光景を見守っていた。

(……やっと、ここまで来たな)

彼の胸には、深い達成感と、そしてかすかな寂しさが同居していた。自分が背中を押してきたアーティストが、いま、確実に"自分の足で"歩き始めている。

──そんな誇らしさと、手を離すような切なさ。

終演後。楽屋で、ミライがタオルで汗を拭きながら、はにかむように笑った。

「ねえ、シュン。……私、ちゃんと輝けてた?」
「眩しいくらいだったよ」

ミライはその言葉に、胸の奥を温めるように目を細めた。

「……ありがとう。シュンがいなかったら、私はここに立てなかった」
「それは違う。君自身が、ちゃんと選んできた道だよ」
「……でも、一番最初に私の声を信じてくれたのは、あなただから」

──このやりとりは、何度目だろう。けれど、その日だけは、どこか"終わり"の気配がしていた。ミライがスターになっていくほどに、彼女と"プロデューサー・シュン"との関係は、少しずつ変わっていく。名前で呼ばれるたび、心が揺れた。まるで、その声が何かを確かめようとしているように──。

◆東京駅の風の記憶◆

 その夜、シュンはふと、東京駅に立ち寄った。ガラス張りのコンコースから見上げる夜空は、まるで水の底に沈んだ星のように、どこか歪んで揺れて見えた。

(……どうして、こんなところに来たんだろうな)

そう思いながらも、足は自然に"あの場所"へと向かっていた。

──2007年、あのホームで別れた女性(ヒト)。

名前を呼ぶたびに、胸が痛んだ。

"アイ"。

春の風が吹き抜ける。桜の花びらが、一枚だけ彼の肩に舞い降りた。シュンはそっとそれを指で払ったが、その花びらはなぜか──紙のように、乾いていた。

(……紙?)

妙な感触が残った。しかし、それ以上、深く考えることはなかった。それは、風の記憶。まだ名もなき違和感。

──あやふやな記憶だけが、そこに静かに横たわっていた。

◆ミライの想いと、シュンの心の隙間◆

 ミライの躍進は止まらなかった。メジャーデビューから半年で、タイアップが次々と決まり、各メディアで彼女を見かけることが当たり前になっていく。けれど、その成功の裏で、彼女の心には別の影が差していた。

(シュン……あの日から、名前で呼んでくれない)

確かに、恋人になったはずだった。けれど、それはまるで、完成しきらないメロディのようで──シュンの胸の中に、いまだに別の旋律が流れていることを、ミライは敏感に察していた。それでも、彼を責めることはできなかった。ミライ自身、望月来人の娘という影からようやく自由になり、自分の音楽を"歌い始めたばかり"だったからだ。

──きっと、私がもっと強くなれたら。

その想いだけが、彼女を突き動かしていた。

◆Reflections Requiem◆
 
【作詞:ミライ 作曲:シュン】

鏡の中の影が そっと囁く

「君は誰? 何を求めてる?」

冷たい夜の静寂に 埋もれた声がこだまする

Reflections calling my name, I can’t escape the fate

光と影 交差する 瞬間に今、生まれ変わる

Falling deep into the night, yet I still chase the light”

運命さえも超えてゆける

沈黙の奥に揺れる 微かな光

絡みつく記憶の糸 断ち切れるの?

何もかも壊しても まだ残る影

溶けてゆく時間の中で

誰かがそっと名前を呼ぶ

I’m still here, I’m still breathing

でも何を信じればいい?

呼びかける声 まだ遠くて

But I won’t fade away, not this time

胸の奥で燃える光が 導く場所へと

Can you hear me? Can you see me?

過去も未来も砕け散る

彷徨った時を超え 今、解き放たれる

No more chains, no more lies, I rise beyond the sky

この瞬間すべてが変わる

もう迷わない

I am free…

◆2025年 未来の気配◆

 夜の東京。2025年のシュン。
一人きりで東京駅のベンチに座っていた。空には、星がほとんど見えなかった。だが、その闇の中に、どこか既視感があるような気がした。

──あの春の日。

胸に浮かぶのは、笑うミライと、遠ざかるアイ。

そして──

彼の背後、少し離れた柱の陰から、ひとりの青年がその姿を見つめていた。青年の手には、古びたポラロイド。写っているのは、2007年の東京駅で、シュンとアイが並んで笑っている写真だった。

「──もうすぐだ。」

その青年が、小さく呟いた。


▶ 第9話のテーマソング『Reflections Requiem』はこちらから視聴できます。
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