◆ミライのアプローチ◆

 2011年、春。桜が舞う都内のレストラン。
ミライはワイングラスを片手に、向かいの席のシュンを見つめていた。

「今日、時間つくってくれてありがとう」
「まあな。たまには気分転換も悪くない」

その声に、どこか柔らかさが滲んでいる。

──こんな風に話せる時間が、ずっと続けばいいのに。

一年以上のプロデュース期間を経て、ミライのメジャーデビューは目前。数々の取材やステージを経験し、彼女は確実にスターへの道を歩んでいた。けれど、心はいつもひとつの問いに縛られていた。

「ねえ、シュン……もし、私が普通の女の子だったら──ただのファンだったら、どうしてた?」

不意打ちの質問に、シュンはグラスを置き、少し眉をひそめた。

「……どうしてそんなこと聞くんだ?」
「たまには答えてよ、真剣に」

ミライの瞳は、冗談ではなかった。

「……さあ。考えたこともない」

その曖昧な返事に、ミライはかすかに笑った。

「やっぱりね」

その笑顔の奥に、張り詰めたものが見える。

「あなたに出会ってから、ずっと考えてた。プロデューサーとアーティストの関係を壊したくないって。だから、気持ちは言わなかった。でも……」

言葉を切り、ミライはまっすぐシュンを見た。

「私、あなたが好き」

一瞬、時間が止まったようだった。

「……ミライ……」
「あなたの音楽が、あなたの言葉が、あなた自身が……私の中に、どんどん入り込んでくるの」
「でも……」
「わかってる。あなたの心には、まだ誰かがいる。それでも、私はここにいる。あなたの隣にいるのは──今は私でしょ?」

シュンは言葉を詰まらせたまま、視線を落とした。

「少しくらい、私にも希望を持たせてよ」

ミライの声には、かすかに震えがあった。彼女は笑顔を作りながらも、涙を堪えていた。

──この想いが、ただの片想いでも。それでも、伝えずにはいられなかった。

◆シュンの葛藤と交際への一歩◆

 数日後。事務所のスタジオに、ミライの声だけが響いていた。シュンはモニター越しにその様子を見ながら、無意識に拳を握っていた。

──アイのことを引きずってるのはわかってる。でも、ミライがそばにいてくれる時間は、確かに俺の心を救ってくれた。

レコーディングが終わり、ミライがブースから出てきた。

「……お疲れさま」
「ありがとう。今日は……どうだった?」
「よかったよ。歌声に、迷いがなくなった気がする」
「それ、褒め言葉として受け取っていいのかな?」
「もちろん」

ミライは嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、シュンの胸の奥が揺れる。夜、シュンは一人、帰り道のベンチに座っていた。桜の花びらが風に舞い、膝の上に落ちてくる。

(俺は……何を怖がってるんだ?)

「もし、アイと再会できたとしても……それが本当に“今”の幸せに繋がるのか?」

携帯を取り出し、以前届いたミライからのメッセージを見返す。

『私は、あなたの隣にいたい。過去じゃなく、今を一緒に生きたい。』

携帯を持つ指が震える。何回も見返しては、シュンは自問自答を繰り返した。

その夜、シュンはミライに電話をかけた。

「今、話せるか?」
「……うん。どうしたの?」
「少し、歩かないか?」

そして、夜の公園で再会した二人。ベンチに並んで座り、しばらく無言が続いた。

「この前は……気持ちをちゃんと伝えてくれて、ありがとう」
「うん……」
「俺も……君のことを考える時間が増えてる」
「うん」
「俺、君といると、自然体でいられるんだ。あらためてそう感じたよ」

ミライは静かにシュンを見つめた。

「ずっと過去に縛られてた。……でも、そろそろ前に進みたい」
「それって……?」
「俺と付き合ってほしい」

一瞬、ミライの目が潤んだ。そして、すぐに笑顔が花開く。

「……うん。よろしくね、シュン」

桜が、二人の頭上でふわりと舞った。

◆交差点ですれ違う奇跡◆

 同じ頃、羽田空港。
到着ロビーで深呼吸する女性の姿があった。アイだ。一時的な帰国。家族の事情とはいえ、数日だけでも日本に戻れることが、どこか心を弾ませていた。

──思い出すのは、あの“10時間”だった。

何年経っても、その記憶は色褪せなかった。ふと携帯を取り出す。そこには、昔シュンがくれた住所を写した画像が残っていた。

「……行ってみようかな。会えるかもしれないし」

そう呟いて、アイはタクシーに乗り込んだ。
春の東京。空には淡い雲が浮かび、桜がそっと風に揺れている。その街角。
アイがタクシーを降り、地図を頼りに歩き始めたその時だった。ふと前方、交差点の向こう側に見えたのは──シュンだった。

「シュン……!」

思わず名前を呼ぼうとした、その瞬間。反対側の歩道から一人の女性が駆け寄ってきた。

「シュン! 待った?」

──その声に、アイの足が止まる。

女性は、シュンの腕に飛びつき、自然な流れで手を繋いだ。見覚えがある。テレビで見た、あの女性──ミライ。二人の姿は、まるで恋人同士のようだった。アイは咄嗟に近くの街路樹の陰に身を隠す。心臓が痛いほどに脈打つ。

(……そっか、そうなんだね)

声は出なかった。そして、静かに携帯を取り出し、画面を見つめる。震える指先で、短くメッセージを打つ。

『彼女と別れたら、会ってね』

送信。

──返事は、なかった。アイはそっと携帯をしまい、近くのベンチに腰を下ろす。期待なんてしていなかった。それでも、再会を夢見ていた自分がいたことに、気づいてしまった。胸が締めつけられるような、でもどこか納得したような感情。それは嫉妬でも怒りでもなく、ただ──静かな「諦め」だった。

「……これで、よかったんだよね」

アイはそっと空を見上げた。桜の花びらが、ふわりと風に舞っていた。けれど──それは、アイにはただの紙切れのように見えた。儚く、美しいはずの景色が、胸に何ひとつ届かない。心にぽっかりと空いた空洞だけが、春の光の中に浮かんでいた。