◆ミライ、突然の直談判◆

 2009年、夏。
蒸し暑さが残る都内の小さなレコードレーベルの事務所。プロデューサーの今井シュンは、デスクに山積みになったCDや音源データをぼんやりと眺めていた。

(今日もまた、無名のシンガーから大量のデモが届いてるな……)

新人発掘も仕事の一環ではあるが、最近は心を動かされるものに出会えていなかった。音楽業界の競争は激しく、耳の肥えたシュンを唸らせるような才能は、そう簡単には現れない。そんな中、事務所のドアが勢いよく開いた。

「失礼します!」

入ってきたのは、黒のライダースジャケットにダメージデニムを身にまとった若い女性。少しウェーブのかかったロングヘアに、鋭さのある目元。その姿からはただ者ではないオーラが漂っていた。

「……誰?」
「望月ミライです。私のデモテープ、聴いてもらえました?」

その名前に、シュンはピンとこなかった。

「ああ……ちょっと待って。今、探すから」
「探さなくていいです。まだ聴いてないんでしょ?」
「は?」
「私のデモテープ、送ったんです。でも、連絡がないから直接来ました。ちゃんと聴いてほしいんです」
「いや、こういうのは順番があるんだよ。いちいち全員に返事なんか……」
「で、聴いたんですか?」
「……まだ」
「ほら、やっぱり!」

ミライはため息をつくと、デスクにずかずかと近づき、真っ直ぐに言った。

「最近のシュンさんの曲、ちょっと守りに入ってる気がして。もっとエッジ効かせてたじゃないですか、前は」
「は?」
「プロデューサーの今井シュンって、もっと攻めた音楽やってる人だと思ってたんですけど、最近の曲、どれも無難すぎる」

シュンはムッとした。

「君、何様?」
「リスナー様ですよ。っていうか、未来のコラボ相手!」
「……ふざけるなよ」
「ふざけてません!」

ミライはポケットから小さな録音機を取り出し、机の上に置いた。

「これ、私の声。今すぐ聴いてください」
「今ここで?」
「はい。少しでも響かなかったら、私は二度とここには来ません」

半ば呆れながらも、シュンは録音機の再生ボタンを押した。流れ出したのは、荒削りながらも強烈なエネルギーを持った歌声。感情の波がそのまま音に乗っていて、胸を揺さぶる何かがあった。最初の一音で、空気が変わった。粗さや未熟さは確かにある。けれど、そのすべてが“いま”という瞬間に賭けているような──。

(なに、この声……誰かに似てる? ……違う、でも……)

ユリカでも、アイでもない。ただ、確かにシュンの中で眠っていた“熱”が呼び覚まされるような、そんな感覚。声の奥にあるものが、直接、感情の芯を揺さぶってくる。かつて、自分がそう在りたいと願っていた“音の姿”が、そこにはあった。無意識のうちに、最後まで聴き入ってしまっていた。

「……どうですか?」

ミライが挑戦的な視線を向ける。シュンは少し考えた後、小さく笑った。

「……面白いじゃん」

◆プロデューサーとしての決断◆
 
 その場で改めて、シュンはミライと話をすることにした。

「どこで歌の勉強を?」
「アメリカです。向こうで音楽を学んでました。でも、帰国しました」
「なんで?」
「……家の事情です」

ミライの表情が一瞬曇ったが、すぐに元の勝気な顔に戻る。

「で、私のことプロデュースしてくれますか?」
「……俺の曲にケチつけたやつを?」
「だって、もっといいの作れるはずでしょ?」

シュンは思わず苦笑した。

「言うね。でも、嫌いじゃない」
「じゃあ、決まり?」
「まだだよ。こっちから連絡する」

ミライは少し不満げだったが、「ちゃんと約束ですよ」と念を押して帰っていった。

◆ミライの父の影◆

 2008年——1年前。
アメリカからの緊急帰国。病院の冷たい空気が、ミライの胸を締め付ける。扉を開けると、静けさが広がっていた。ベッドに横たわる父の姿を目にした瞬間、ミライは足がすくんで動けなくなった。彼女はただ、静かにその部屋に立ち尽くす。

「……お父さん?」

返事はない。
彼の呼吸の音すらも、もう耳に届かない。目の前で、たった今まで生きていたはずの父が、永遠の沈黙の中にいることが信じられなかった。その瞬間、ミライは頭が真っ白になり、足元がふわりと浮くような錯覚を覚えた。

「お父さん……」

震える声が小さく響くも、返事はない。
母がそっと部屋に入ってきて、手のひらに封筒を握りしめて差し出した。

「お父さんからよ」

ミライはその封筒を見つめ、じっと黙っていた。
封筒には、父の名前が記されていた。受け取った瞬間、ミライの手がわずかに震える。

「……今さら、何を言う事があるんだろうね」

その言葉には、怒りとも寂しさともつかない複雑な感情がにじんでいた。それでも、封筒を両手で抱えるようにして、カバンにそっとしまい込む。
ふと、指先が封筒の端をなぞった。そこに込められた想いの重さを、皮膚越しに感じた気がした。
開ければ、きっと何かが変わる。けれど、今の自分ではまだ向き合えない。そんな気持ちが、ミライを静かに制止させた。そんな彼女の姿を、母は何も言わず、静かに見守っていた。

◆シュンの決断◆

 翌日、シュンはミライに連絡を入れた。

「……他にも、プロデューサーに声かけてたんだよな?」
「え? なんで知ってるんですか?」
「そんなの、言わなくても分かる」
「……」
「そっちが本気なら、俺も本気でプロデュースする。どうする?」

ミライは一瞬驚いたが、すぐに笑った。

「……よろしくお願いします、シュンさん!」

──ミライは、音楽を諦めなかった。父の死を経て、何かを残すために歌うのではなく、“今この瞬間の自分”を生きるように、音にすべてを乗せていた。シュンの中で、それは確かに響いた。
こうして、シュンとミライの物語が始まった──。