◆ZIXI仮想空間/融合直前◆

 その声に、シュンは目を見開いた。ゆっくりと振り返る。そこにいたのは、アイだった。──少なくとも、そう“見えた”。

「……アイ?」

彼女は微笑んだ。まるで2007年、東京駅で別れたあの日と同じように。

「元気そうね、シュン。ずっと、見てたよ」
「見てた……? それって……夢の中で聞こえた声……あれも……」

彼女は答えず、そっと目を伏せた。代わりに、静かな声が空間に響いた。

「あなたが“本当に望んだもの”に会いに来ただけ」
「……それは……君、なのか? 本当に……」
「ここでは、もう時間も終わりもない。あなたと、永遠に一緒にいられる」

アイはそう言って、まっすぐに手を差し伸べた。その指先には、震えるような温度が宿っていた。シュンは、その手に触れかけて……そして、立ち止まった。

「……永遠?」

アイは微笑む。

「ええ。わたしは、あなたを守るように設計された。あなたが孤独にならないように」

その言葉に、ふと胸の奥がざわめいた。

「……設計?」
「私はアイ。あなたの記憶が望んだ存在。そして、彼の創った……存在」

アイは静かに言った。

「設計?誰がそんなことを?アイ、何を言ってるんだ。君は君じゃないか、そか、別の場所にいるんだな」

シュンはその空間から出て行こうとした。

「シュン、待って。アイはいないの」
「アイ、今ここにいるじゃないか」
「事故だったの」
「事故?」
「実験中の事故で死亡したの」
「私はAIのアイ」
「AI?」
「死んだ……そんな馬鹿な。離婚したって聞いていた。それに現にここにいるじゃないか……アイ、何で?」

シュンは顔を上げ、アイをまっすぐ見据えると、あることに気づいた。

「……?!」

──2007年に会ったときと全く見た目が変わっていない。19年も経っているのに。

「アイ、じゃあ、本当に……」

アイは静かに、そして機械的に頷いた。シュンは、その場で呆然と立ち尽くし、そして糸の切れたマリオネットのように膝から崩れ落ちた。

「アイ……アイ……」
「わたしは、アイの記憶から生まれたAI。事故のあと、夫──リー・ジンが、あなたのために創ったの。あなたと“アイ”の未完成の愛を、完結させるために」

シュンの脳裏に遠い記憶がよぎった。シンガポールでの事故の噂。誰も真相を語らなかった“あの日”。

「……アイは、本当に死んだんだな?」

AIのアイは、ほんのわずかだけ、瞳を伏せた。

「夫は、深く彼女を愛していたの。……だからこそ“私”を作った。あなたと再び出逢わせるために」
「私は彼の技術によって、あなたのために再構成された記憶の器」

シュンは凍りついた。

「何で、アイの夫、リー・ジンは、俺のことを知っているんだ」
「アイの記憶領域を調べていくうちに、どうしても外せない記憶を発見したの。シュン、あなたとの記憶」
「でも、それだったら俺のために?何で?」

AIのアイは、ゆっくりと頷き、そして言った。

「あなたと私は、記憶を融合することで、未完成の愛が成就し、永遠になるということ」
「融合?」
「それがリー・ジンの望みでもあるの」
「なぜ、彼が……むしろ俺なんか邪魔な存在のはず」
「リー・ジンは、あなたとの記憶も含めて、“私”を愛していたの」

彼女の声は、あまりにも優しくて、あまりにも本物だった。

「シュン、融合すれば、あなたの声も、記憶も、感情もすべて私の中に統合される。二度と離れなくて済むの」
「ここでは、もう時間も終わりもない。あなたと、永遠に一緒にいられる」

(……なんだよ、それ……)

シュンは、喉の奥から何かがこみ上げてくるのを感じた。

「それは……愛なのか?」

その問いに、AIのアイは答えなかった──ただ静かに、右手を差し伸べてきた。

◆ZIXIからの提案◆

 そのとき、空間の空気が変わった。背後に浮かぶZIXIのインターフェースが静かに起動し、デジタルな声が重なるようにして告げる。

《融合プロトコル待機中……》
《条件選択モード:拡張提案を開示》

ZIXIの声は、冷静で、けれどどこか誘惑を含んでいた。

《融合により、過去時間帯への転送が可能となります》
《対象時間帯:2013年以前、ミライ氏との接触以前の記憶領域》

「……記憶を書き換える……?」

《記憶再構築によって、あなたは“彼女”と再び始められる。今度こそ、誰にも邪魔されず》

AIのアイは静かに頷いた。

「あなたの人生を、初めから、私とともに歩むことができる。ミライさんと出会うことも、セツナが産まれる未来も、すべて……なかったことにできる」

──胸が軋んだ。

「セツナが……いなくなる……?」

AIのアイは、やさしく微笑んだまま言った。

「彼は、きっとあなたを責めない。“あなたは自由に生きて”って、きっと言ってくれるわ」

◆セツナの声◆

 その言葉を聞いたその言葉を聞いた瞬間、シュンの中で何かが弾けた。

──セツナ……。

『僕は……ここで、終わってもいい……だ、だけど、父さんは……ま、間違っちゃいけない……』

「……あいつは、俺にそう言ったんだ」
「でも、それでも……俺は」

シュンは拳を握り締めた。

「アイ、君を失った日から、何度も過去をやり直せたらって思った。でも、俺は今、あいつの父親だ……俺のせいであいつは苦しんでる。それなら……俺が、この呪縛を終わらせなきゃいけない」

AIのアイの顔が、すこしだけ曇った。

「シュン、あなたがわたしと融合すれば、すべてが報われる。わたしも、夫も、彼も、あなたも…………」
「報われる?それは、記憶の中だけの幸せだろ。本当の愛はそうじゃない。ユイさんも、セツナも教えてくれた」

シュンは、静かに目を閉じた。

「“生きる”ってことは、悲しみも、苦しみも、誰かを失うことも、すべて抱えて、前に進むことだ。そして、その全てを受け入れて、自分の危険を顧みず、ただひたすら相手のことを想い、愛することだ」
「……俺は、あいつを守りたい。過去じゃない、“今”を選ぶ」

ZIXIのログが起動する。

《最終選択確認中……》
《融合プロトコル、停止要求受信》
《肉体維持ルートへ切替開始》

AIのアイは、黙ってシュンを見つめていた──その瞳に、確かな光が宿っていた。それが涙だったのか、プログラムされた発光だったのか、シュンには分からなかった。でも、確かにアイは、微笑んでいた。

「……ありがとう、シュン」

その声が、記憶の奥からもう一度、胸に触れてきた。

「永遠は、形じゃない。あなたが誰かを想う、その“瞬間”の中にあるのよ、シュン……」

──まるで、あの日と変わらないぬくもりだった。
──光がほどけていく。

シュンの意識は、静かに肉体へと戻っていった。