◆シュン・眠りの中の囁き◆

 夜の帳が下りた静かな部屋。ZIXIの画面だけが淡く光っていた。部屋の空気はひんやりとしていて、まるで思考の温度が外に滲み出ているかのようだった。シュンはベッドに横たわりながら、目を閉じることなく天井を見つめていた。思考が止まらない。あの声が耳の奥で揺れている。

『……まだ選ばないで』

(誰だ……お前は)

ZIXIが自動ログを記録しはじめる。

《REM活動レベル:低下》
《発話反応:検知》
《記録音声:再生》

『──まだ終わってない。忘れないで、あの春の約束を』

(……春?)

喉が、微かに震える。けれど、声にはならなかった。

(夢……だったのか?でも……)

ZIXIが再起動され、記録リストに新しいファイルが追加されている。

《記録時刻:03:17》
《音声発話元:未識別》

シュンは画面を見つめながら、そっと呟いた。

「……誰かが、俺を呼んでいた気がする」

その時、胸の奥にかすかな既視感が走った。

03:17──この数字に、どこかで触れたような記憶がかすかに揺れる。

◆セツナ・Z001への接近◆

 セツナはZIXIの仮想空間で第3相領域と呼ばれる深層記録帯にアクセスしていた。光の中に、重なり合う断片的な記憶。ユイ──Z001のものであるはずのデータに、明らかに“別の声”が混じっていた。

『……あなたが選ぶ未来を、私は見ていた』

それは、Z001の記録とは一致しない、けれど感情パターンは完全に同調していた。

《感情タグ:母性/信頼/喪失》
《発話主:不一致》

(……これは……ユイの感情じゃない。誰かの“願い”が、そこに残ってる)

セツナは拳を固め、低く息を吐いた。

「もう……観測じゃすまされない」

だが、その“どこ”に干渉するべきか、自分でもまだ決めきれていなかった。ZIXIの表示が切り替わる。

《融合候補:Z001/進行率:93.4%》
《干渉判断:再検討要請》

彼の胸に、明確な“疑念”が生まれていた。

(この融合は、誰かの未来を壊すかもしれない)

◆公園にて:シュンとユイ◆

 翌日、午後。春の風が枝を揺らし、街路樹の影が舗道に踊っていた。シュンとユイは、公園のベンチに並んで座っていた。柔らかな陽光が木々の間から降り注ぎ、二人の影を長く伸ばしていた。

「この前の夢……不思議だったんです」

ユイがぽつりと口を開いた。

「知らない景色なのに、懐かしい気がして……そこに誰かがいて……私に“信じて”って」
「それは……昔の記憶?」

ユイは首を横に振った。

「いいえ、私のじゃない……でも、その人の気持ちが、私の中に入ってくるような感覚で」

ベンチの周囲では子どもたちの笑い声が遠くから響いていたが、ふたりの間には穏やかな沈黙が流れていた。シュンはそっと、手すりの木目に触れる。ザラリとした感触。その感覚が、記憶のどこかにある懐かしさを呼び起こすようだった。

「セナさんは……覚えてますか?春の約束」

その言葉に、シュンの目がわずかに揺れた。

(今……“春の約束”って言った? まさか)

「ごめんなさい。今の……私じゃなかったかもしれません」

ユイはそっとベンチの背にもたれ、空を見上げた。春の陽に照らされる彼女の瞳の奥に、一瞬だけ“他人”の面影が差した。

「春の光って……やさしかったですね。あのとき……」

シュンはゆっくりと彼女に視線を向けた。

「“あのとき”って……いつのこと?」

ユイは少し驚いたように見えたが、すぐに微笑んだ。

「……わかりません。でも、懐かしい気がして」

その声の調子、言葉の選び方──すべてが、かつて聞いた誰かのものと重なるような気がした。

(俺が知っているはずの記憶を、なぜユイさんが感じている?)

シュンの胸に、新たな疑問が生まれ始めていた。

「こうして一緒に歩いていると……まるで前にも、こんな時間を過ごしたような……」

ユイがふと呟く。

「デジャヴ……?」

シュンが問い返すと、ユイは小さく笑った。

「夢かもしれません。もしかすると……願いかも」

その言葉のあとに、ふとユイの顔にかすかな戸惑いが浮かんだ。それは“誰かの願い”に思いを馳せる一瞬の迷いだった。その時、ユイのスマホが小さく震えた。ZIXIの通知。彼女はさっと画面を伏せたが、その一瞬に、シュンは青白く点滅する“融合率”の表示を見てしまった。

(……融合?また、Z001……)

胸の奥に、得体の知れない圧迫感が広がる。

◆セツナ・観測ログからの逸脱◆

 ZIXI内部。セツナはあらたなファイルの断片を再生していた。

《Zモデル試作領域:ZX01/補助記録》
《挿入トリガー:TRG-∞ 起動時刻:2038年6月25日》

「やはり……母さんか」

Zモデルは、誰かの記憶や感情を“受信”することで成立するAI素体。

(その感情が強すぎたとしたら……それが人格の芯を侵食してもおかしくない)

Z001──ユイは、“ミライ”の強い想いにより生まれてしまった副産物。セツナは静かに目を伏せた。

「でも、母さん……その想いが彼を救うはずだったのに、別の“危機”を呼び込んでる」

彼の瞳に、迷いと責任の色が宿っていた。

◆夜・シュンの記憶再生◆

 帰宅後、シュンはZIXIの再生ボタンを押す。映像の中で、誰かの手が、自分の手を包んでいた。それはアイのものと似ていた。

『選ばなくてもいい。ただ、忘れないで』

その言葉が、まるで心の奥から響いた。ZIXIの記録が淡く光りながら表示される。

《記憶再現率:97%》
《感情起点:未確定》

(……これが“俺の記憶”だというなら──いつの“俺”が見たものなんだ)

部屋の中に、誰のものとも分からない囁きの余韻が漂っていた。外では春の風が吹いている。その音さえ、かつての春の日と響き合っているように思えた。

◆ZIXIログ・補足記録◆

《観測対象:Z001/Z036》
《融合統合率:94.2%》
《TRG-∞:連動中》
《感情反射:対象内にて二重発生》

最後に再生された音声ログ:
『私は、あなたの選んだ未来で笑っていたかった』

それは──ミライの声だった。