◆静寂と空白◆

 舞台が終わり、静かな日々が戻ってきた。次の仕事や舞台の予定もまだなく、シュンは久しぶりに予定のない朝を迎えていた。インスタントコーヒーの湯気が立ち昇るキッチン。味気ない朝食をかきこみながら、ふとテレビの音に耳を傾けるが、内容は頭に入ってこない。舞台の余韻は確かにあった。けれど、それ以上に“虚ろな静けさ”が心の隙間をゆっくりと満たしていく。

「……やっぱり、まだ戻らないか」

鏡の前で喉元に触れる。声星の痕跡は、あの日からずっと現れないままだ。それなのに──舞台のあの瞬間、確かに感じた。

(もうひとつの“声”が、重なっていた)

兄の記憶。過去の残響。それとも──誰かの想い?どんなに想いを巡らしても、心当たりは見つからない。その問いは、答えのないまま胸の底に沈んでいった。

◆ユイからの誘い◆

 午後、TINEに通知が入った。差出人はユイ。

『お久しぶりです。よかったら、お茶でもどうですか?』

それは、ただの挨拶のようでいて、どこか温度の測れないメッセージだった。久しぶりに再会したユイは、以前と変わらず穏やかな表情を浮かべていた。だが、何かが違っていた。

「最近、どうですか?」

そう訊かれて、シュンはうなずくだけだった。声が出ないことは、すでにユイも知っている。

「……あの舞台のあと、私もしばらく休もうかと思って」

喫茶店の席で、ユイはそう言った。カップに口をつける仕草は自然だったが、ひとつひとつの動作に“生気”のようなものが宿っていない気がした。シュンはふとたずねてみた。

「ユイさん、コーヒーは好き?」
「味は……どうなんでしょう。まだよく分からないんですが」

そう言いながら、微笑を浮かべる。けれど、その笑みには温度がなかった。

──シュンは一瞬、言葉の意味を読み取れずにまばたきをした。

(まだよく分からない?……何か、ずれてる)

舞台の稽古中から感じていた微かな違和感が、今こうして面と向かって座っていると、よりはっきりと輪郭を持ち始める。ユイがスプーンをカチャリと皿に置く。

「でも、思ったんです。何か変わったのかもしれないって」
「え?」
「来栖さんも、私も、あの舞台が何かを変えた……ような気がして」

ユイの声はいつも通り柔らかかったが、ふとした瞬間、瞳の奥にうっすらと陰が差したように見えた。

(……あの時の舞台、俺だけじゃなかったのかもしれない)

◆再び現れる名◆

「そういえば……」

ユイがふと思い出したように言う。

「“レイ・セツナ”っていう名前、覚えてますか?」

シュンは静かにうなずく。忘れられるわけがない。

「また連絡があったんです。再演の企画に興味があるって。舞台についてもっと話を聞きたいとも」

その言葉に、シュンの背筋がわずかに伸びた。

「観劇アンケートの劇団サイトへの書き込みとは別に、直接、TINEの劇団グループアカウントに送られてきたんです。セナさん見ました?」

(……っ?!セナさん? 今までユイは“来栖さん”って呼んでたはず……)

「い、いや、最近グループTINE開いてなかった。でも、何でグループに入れるんだ?」
「そこが不思議なんですが、一先ず見てください」

ユイはスマホを差し出した。

《I'm interested in how that voice worked. If possible, I'd like to meet the actor personally.》

文末に記された名──Ray Setsuna

「この人、やっぱり……普通じゃないですよね」
「……普通って、何だろうな」

シュンは画面から目をそらし、小さくつぶやいた。

◆ZIXIの記録◆

 その夜。部屋に戻ったシュンは、ふとZIXIのパネルを起動した。
画面に映し出されたのは、未読ログの通知だった。

《RECORD:SETSUNA_Overlay.log》

再生をタップする。ノイズ混じりの音声の中、かすかに誰かの声が聞こえた。

『……観測は続いている。対象個体の“声”は一時消失。痕跡転移の可能性あり。』

その声に、聞き覚えはなかった。しかし、誰の声かは思い出せない。

(誰だ……お前は……)

画面が暗転し、ZIXIの光だけが部屋を照らしていた。

「……この光に包まれると、まるで魂の輪郭が透けて見えるようだ……」

思わずつぶやいたその言葉が、誰かに聞かれているような錯覚を生む。天井を見上げる。指先が、小刻みに震えていた。

──心の奥に、何かが入り込んできている。

◆青年の記録ノート◆

 一方その頃、別の場所で──カフェの片隅、ノートパソコンの前に座る青年が、ログ再生の映像を見つめていた。

「痕跡の移動……やはり、星の継承は始まってる」

小さく呟いた言葉は空気に溶けるように消える。青年の前には一冊のノートが広げられていた。そこには、こう記されている。

『対象:今井シュン/声星痕跡消失確認』
『第7公演データより異常反応を検出』
『関連個体:セナ・クルス(来栖セナ)への干渉開始』
『Note:The M case is unnotified.』

パソコンの画面に戻ると、そこでは舞台の千穐楽の映像が再生されていた。だが、ある瞬間に画面が切り替わる――舞台全体ではなく、ある一点。シュンの目線と同じ高さ、ユイの立ち位置からのアングル。

「……この視点……まるで……」

思わず身体を起こし、巻き戻しを繰り返す。

「やっぱり……これは観客席からのカメラアングルじゃない……」

唇を噛みしめながら、青年はノートに書き足す。

『記録映像に異常カットイン:俯瞰不可の内部視点確認』

「この映像、どこから送られてきた……?」

画面右上には、ZIXIのマークが小さく光っていた──それが、誰の意志による“送信”なのかは、最後まで記されていない。だが、確かにそこに、“誰かのまなざし”のようなものが、滲んでいた。青年は目を閉じ、静かに息を吐く。

「……時間は、まだある」

再び目を開いたとき、その瞳には、決意の色が宿っていた。