◆舞台が終わった日常◆

 千穐楽から数日。劇場の余韻もようやく落ち着きを見せた頃、シュンは静かに日常へと戻っていた。劇場はすでに撤収を終えていた。冷たい床と静寂だけが残された空間には、あの熱狂の残像が微かに漂っているようだった。舞台袖の片隅にわずかに落ちたテープの切れ端すら、誰かの想い出の断片に見えた。
あの夜、打ち上げの乾杯の音が響く頃には、スタッフたちの手によって舞台装置も楽屋も片づけられていた。

「……終わったんだな」

そう呟きながら、シュンは閉じられたカーテンのあった場所を見つめた。そこには、もう誰の手も触れることのない静けさだけが残っていた。その手に、少しだけ熱が残っていた気がした。指先の奥で、まだあの夜の鼓動が続いているようだった。

──声はまだ、戻っていない。

けれど、あの夜の舞台で何かが変わった。「声にならない叫び」が、確かに誰かに届いていたような、そんな感覚があった。思えば、声を失ってからというもの、演じることでしか心を伝えられなかった。けれど、だからこそ届いた言葉もあるのかもしれない。鏡の前で、自分の喉元をさりげなく確認する。星の痕跡は、やはり見当たらなかった。まるで、何もなかったかのように滑らかな肌がそこにあるだけだった。けれど、その“何もない”という事実が、逆に胸の奥にぽっかりと穴を空ける。

(……あれは、誰かに渡されたのかもしれない)

まるで、何か大切なものが静かに役目を終え、そっと旅立っていったような──そんな余韻だけが残っていた。そんな言葉が、ふと心の中を通り過ぎていった。

◆シュンの小さな日常◆

 稽古場も劇場もない日々。静かすぎる朝が、シュンにはどこか不自然に思えた。ベランダに干した洗濯物が風に揺れている。インスタントコーヒーの香りが部屋に立ちこめる中で、ふとした音にだけ、舞台の記憶が蘇ってくる。

──カツン、と靴音。

それは、舞台袖で誰かが立つ音に似ていた。

「……幻聴かよ」

自嘲気味に笑いながら、ソファに身を沈めた。テーブルの上には、舞台の台本と、まだ捨てられないバラの花。その横に置かれたTINEの通知ライトが、小さく光った。

◆TINEの通知◆

 スマホが震える。TINEに1件のメッセージが届いていた。

差出人:不明
本文:「あの舞台、観させてもらいました。とても、印象的でした」

それだけだった。だが、どこか言葉の端に、熱のようなものを感じた。

(この文体……妙に落ち着いている)

返信しようとしたが、ユーザーはすでにアカウントを削除していた。

(誰だ……?)

数分後、再び通知が来た。同じような文章。少しだけ表現が違っていたが、全体の構成や口調はほとんど変わらない。

──そしてまた、返信しようとしたその瞬間、アカウントは消えていた。

三度目も、同様だった。まるで誰かが意図的に痕跡を残し、すぐに消しているような──

(これは……試されている?)

胸の奥に、じんわりと冷たい予感が差し込んできた。四度目の通知が鳴ったとき、シュンはため息まじりにスマホを手に取った。

(またか……)

いつものように“差出人:不明”を予想しながら画面を覗き込んだ──しかし、そこに新たな通知はなかった。それ以降、TINEは静かなままだった。

◆ユイとの会話◆

 舞台後、久々にユイからTINEで連絡が来た。次のプロジェクトの話かと思いきや、「しばらくゆっくりしてください。私もそうするつもりです」とだけ、シンプルな文字が続いていた。いつもの柔らかな口調の中に、どこか距離を保とうとする響きが混じっている気がした。続けて、ユイからメッセージが届いた。

《そういえば……ちょっと変わったアンケートがあったんです》
《英語で書かれていて、“I watched with interest. Especially, I was impressed by Sena Kurusu's amazing acting ability in the way her vocalization sounded like a double voice.”って……》
《でも、なぜか下に日本語訳も添えてあって、“興味深く拝見しました。特に来栖セナさんの、二重に聞こえる発声の仕方には、驚異的な演技力を感じました。レイ・セツナより”って書かれてたんです》

その言葉を耳にした瞬間、シュンは一瞬、動きを止めた。レイ・セツナ──どこかで聞いたような、けれどはっきりとは思い出せない。名前の響きが、喉の奥に引っかかったまま、消えてくれない。まるで、その名前が自分の過去に刻まれた“何か”を、呼び起こそうとしているかのように。シュンは思わず顔を上げた。

《レイ・セツナ、っていう名前……なんだか妙に気になってしまって。苗字が“レイ”ってちょっと珍しくないですか?》

その名前を聞いた瞬間、シュンの心にざらりとした感覚が走った。聞き覚えのない名前。けれど、どこかで視線を交わしたような、そんな気がした。ユイがスマホの写真を送ってくる。後方席から写された公演当日のスナップ写真。そこに写っていた青年は、黒いコートを着て、舞台をまっすぐに見つめていた。

(……こいつ)

あの目、あの姿に見覚えがある……気がする。いつもこの目に監視されていたような……

──だが、思い出せない。

《名前の読み、珍しいよね。“セツナ”って》
《ええ。そう言えば、本人が“セツナって呼んでください”って言ってたみたいです》

その響きが、シュンの胸の奥で何かを揺らした。“セツナ” ──刹那、切な、節名……意味を持つその音が、妙に引っかかる。なぜか、ただの名乗り以上の何かを込めているような気がした。それが単なる偶然の名か、それとも彼の存在そのものを象徴する意図なのか、答えは見つからなかった。けれど、どこかで「その名前は、かつて自分が何かを強く願った時に、心のどこかで呼んだことがあるような気がする」──そんな感覚が一瞬だけよぎる。その言葉に、胸の奥が微かに疼いた。

◆青年の独白◆

 その夜。オンライン配信で公開されていた舞台映像を、ひとりの青年が静かに見つめていた。再生リストには、初日公演と千穐楽の両方が記録されている。彼はヘッドホンを装着し、ノートパソコンの画面に目を凝らしていた。画面の中のユイの演技。その一挙手一投足を、彼は微かに眉をひそめながら繰り返し確認する。

「……やっぱり、ここにいたんだ」

目は千穐楽のシュンに向けられている。台詞を発したあの瞬間、画面越しでも“何か”が重なったように聴こえる。

「二重に……聞こえた。やっぱり」

初日の演技ではなかった現象。それは、彼にとって偶然では済ませられない違和感だった。

「違う……」

声に出すと、思っていたより少しだけ震えていた。彼の手元には、一冊のノート。びっしりと何かが書き込まれている。その一ページ目には、こう記されていた。

『目的:過去を修正することはできない。だが、未来は変えられる。』

視線を落とすと、次のページにはこう続いていた。

『観測:第7回公演にて“二重音”確認。千穐楽で顕著。』
『対象:声の重なり──遺伝的継承の可能性あり』
『備考:重なり方は音響現象ではなく、まるで“もうひとりの声”が重なるように聴こえた。響きに体温があった』

そのつぶやきが、画面の奥へと消えていった。