◆本番前夜、小屋入り◆

 本番前日、朝8時。劇場入り。“仕込み”が始まる。
舞台セットを搬入し、スタッフたちが手際よく組み上げていく。照明チームは天井に吊るされたバトンから灯体を吊り下げ、各シーンごとの光を仕込んでいく。俳優の立ち位置には細かな“バミリ”が貼られた。音響のラインチェック。モニターから返ってくる音の響き方を確認し、スタッフが「サウンドチェック、オーケー」とうなずく。舞台袖では黒衣のスタッフが忙しなく動き、舞台監督が進行スケジュールを読み上げていた。
午後には“場当たり”。
俳優たちが実際の舞台上で動き、照明や音のタイミングを合わせる。シュンも照明のキッカケに合わせて立ち位置を調整しながら、稽古場とは違う緊張感を感じていた。

そして夜──通しのゲネプロ(総合リハーサル)。

本番と同じタイムスケジュールで進行されるこの“リハーサル”は、舞台人にとって一つの“本番”とも言える。観客席には誰もいない。けれど空間の“重み”は確かにあった。ゲネ終了後、演出家は一人ひとりに丁寧なダメ出しを行った。

「ラストシーン、シュンの視線、もっと空間の“奥”を意識して」
「ユイちゃんの声、少し優しすぎる。もう少し突き放して」

役者たちはノートを取りながら真剣に耳を傾けていた。演出家はゲネを終えると静かに言った。

「……セナくん、声の揺らぎがいいね。あえて抑える芝居、そのまま活かして」

シュンは頷いた。あの“ありがとう”が届いた翌日。まだ声は完全ではないが、確かに感覚は変わっていた。

◆本番の幕開け◆

 そして迎えた初日。
午前中、劇場入りと同時に演出家は軽く確認だけの一言。

「昨日の修正通りで大丈夫。あとは、楽しんで」

俳優たちは穏やかな緊張の中、それぞれの最終調整に入っていた。開演十五分前。楽屋に緊張と沈黙が充満する。シュンは鏡の前で衣装を整えていた。ユイがそっと現れる。

「来栖さん、調子どうですか?」
「……まだ不安定だけど、昨日よりはマシかも」

ユイは微笑む。

「大丈夫。今日のあなたは、ちゃんと舞台の“中心”にいます」

(……中心?)

その言葉が、なぜか胸に引っかかった。

◆クライマックスでの異変◆

 照明が落ち、静寂が訪れる。開演。
前半は問題なく進んだ。共演者たちも、台詞と動きを完璧にこなしていく。ユイとシュンの初めての対峙シーン。彼女の台詞のトーンが、稽古のときと微妙に違う。

「……もう、過去には戻れない。だからこそ、ここにいる」

(……ん?)

その台詞、脚本にはなかった。少なくとも、シュンの記憶には──
舞台の照明が強くなる。彼は一瞬、戸惑った。だが、次の瞬間──

「それでも……俺は、信じていたんだ。君が、ここに来てくれるって」

口が勝手に動いた。

(え? 今のセリフ……)

それもまた、台本にはない台詞。けれど、ユイは一瞬も止まらず、見事に受けた。

「信じることは、あなたが生きていた証になる。私は……忘れたりしない」

観客のざわめき。空気が、震えていた。

──そして、幕が降りた。

◆本番後のざわめき◆

 拍手。カーテンコール。だが、舞台袖のスタッフは慌ただしかった。

「おい、今のセリフ……どこだ? 台本にあったか?」

舞台監督がタブレットを開く。 PDFの台本データをスクロールする。

「……あるな。“君が、ここに来てくれるって”ってセリフ、ちゃんと印刷されてる」
「でも、俺の保存してた台本にはない。昨日のにはなかったはずだ」

演出家が静かに言った。

「書き換わってる……いや、最初からこうだったのか……?」
「そうだ、手書きの台本はどうだ?」
「書き換わっています……」

演出助手が言った。シュンはただ、呆然としていた。

◆誰が脚本を書いたのか◆

 舞台関係者が集まる反省会の中、演出家がぽつりと呟いた。

「……あのセリフ、俺、書いた覚え、ないんだよね」

シュンは何も言えなかった。帰り道、劇場の近くで簡単な初日打ち上げが開かれた。キャストとスタッフが揃い、乾杯の声が響く。

「ユイちゃん、飲める?」
「すみません、私……お酒、苦手なんです」

彼女はにこやかにそう言って、早めに席を立った。

「お疲れ様でした。今日は、忘れられない日になりました」

──その言葉の余韻が、どこか胸に残った。まるで、それが“終わり”のようにも、“始まり”のようにも聞こえた。

ユイは丁寧に頭を下げると、夜の街へと消えていった。その後、帰り道でシュンは彼女の姿を一瞬だけ見かけた。

(ユイ……)

何かを考え込むような、静かな横顔。その笑顔の奥に、何かを知っているような影があった。

……

帰宅後、自室で台本を開いた。

(……誰が、脚本を書き換えた?)

ZIXIか?それとも“誰か”が──俺たちの人生さえ、演じさせているのか?そこには、確かに“昨日はなかった”はずのセリフが、印刷されていた。紙の感触。印刷のインクの匂い。だが、シュンの記憶は、違う台詞を覚えていた。
彼はページの隅に指を滑らせ、呟いた。

「……これは、誰の台本だ?」

◆ZIXIと“見えない台本”◆

 就寝前、シュンはZIXIを開いた。

《ログ通知:本日19:41の記録に一致する音声を検出》

そこにあったのは、まさにあの舞台上で発したセリフの録音。だが、日付は3日前になっていた。

(……は?)

録音データの保存日時は、舞台前ではなく、3日前の稽古時刻と一致。しかもそのログには、ユイの台詞まで正確に再現されていた。

(じゃあ……あのセリフ、俺たちは“すでに”話してた?それはあり得ない)

──台本にないセリフを、どちらも自然に話し、録音まで残っている?

ZIXIの画面に、文字が浮かんだ。

《同期完了。脚本一致率:100%》

(……これは何だ?)

目を閉じたその瞬間、シュンの心に浮かんだのは、ユイの言葉だった。

「今日のあなたは、ちゃんと舞台の“中心”にいます」

──あの言葉は、予感ではなかったのかもしれない。