◆共鳴する稽古と、ユイの戸惑い◆

 稽古場の窓に、やわらかな陽が差し込んでいた。桜の季節は終わり、街は若葉色の光に包まれている。シュンは舞台の上に立っていた。
今日も、声は出ないままだった。けれど、ユイとの芝居は不思議なくらい“噛み合って”いた。ユイが台詞を落とす。シュンが瞬きをひとつ。たったそれだけで、次の流れが自然に生まれる。セリフなんて、最初から必要なかったんじゃないか──そんな錯覚さえ覚えるほどに、舞台上の空気は研ぎ澄まされていた。

「……そこ、もう少し“感情”が伝わってくるといいな」

演出家の声が響く。けれど、それはシュンに向けたものではなかった。

「ユイちゃん、いまのラストの表情、ほんの少し“優しすぎる”かも」
「……あのシーン、シュンに惹かれてるんじゃなくて、切り捨てようとしてるんだよ」

ユイは軽く頷いた。だがその表情には、ほんの一瞬、戸惑いの色が滲んでいた。

(……切り捨てる?)

シュンは、心の中でその言葉を繰り返した。

──ユイの瞳は、昨日と同じように。
──あのときの“アイの声”と同じように。

何かを伝えようとしているのに、伝えられずにいるように見えた。

(まるで、“届かない記憶”の中で、演じているような──)

◆解放された記録と記憶にない声◆

 稽古が終わると、ユイは静かに控え室を出ていった。誰にも何も言わず、音もなく。シュンはその背中を見送ってから、自分の荷物をまとめた。バッグの中には、昨夜“再び現れた”ネックレスが入っている。あのブラウンのペンダント。過去の想いと、記憶と、未練が染み込んだままの、あの重み。

(なぜ……今、ここにある?)

バッグの奥に指を滑らせると、チェーンの冷たい感触が、指先を撫でた。

──その瞬間、ポケットの中のスマホが微かに震えた。

ZIXIからの通知。

《次のログが解放されました》

画面には、再生マークと共に表示されるタイムスタンプ。

【1997年6月4日 18:12】

(1997年……?俺、17歳の頃……?)

再生ボタンに指をかける。躊躇した。だが、指は止まらなかった。

──再生。

スピーカーから、ざらついた空気の音が流れる。誰かの足音。ノイズ混じりの声。そして、低く、穏やかに響いた男の声。

『……この声を聴いた誰かが、いつか答えに辿り着くことを願っている』
『人の記憶は、水のようなものだ。触れれば、すぐに揺れる。だが、ある条件が揃えば、永遠に留まる』

(……誰だ?)

声は、どこか聞き覚えがあるようで、ない。懐かしくも、遠い。だが、その話し方、息の抜き方、声の中にある“演じ方”──

(……これ、俳優の……)

昔、稽古中に共演者の一人が言っていた。

「来栖さんの芝居って、昔の“今井ハヤト”に似てるときあるよね」
「……え? 誰それ?」
「知らない?伝説の舞台俳優。若くして亡くなった人だけど、演技の空気が独特なんだよ」

そのとき気になって検索した。古びた映像資料の断片。記録映像の中で静かに台詞を紡いでいたその人の声。

(……あれに、似ている)

今、ZIXIから再生された“記録音声”の主と、あの記憶の声が、重なっていた。だが、もう一度再生しようとしたその瞬間──画面が突然、ブラックアウトした。

《アクセス制限:このログは再取得できません》

(……は?)

シュンは一瞬、手元のスマホを睨んだ。だがすぐに、ZIXIのインターフェースが淡く再起動し始める。

(……やっぱりこれ、誰かが“管理してる”)

ZIXIは記録を開示するのではなく、“見せたい記憶だけを見せている”。そんな気配がしてならなかった。

◆ユイとの夜道と、静かな疑念◆

 稽古場を出たのは、日が沈みきった頃だった。夜風はまだほんの少し冷たく、首元のシャツをなぞってくる。公園の脇を通りかかったとき、不意に声をかけられた。

「来栖さん……」

振り返ると、ユイがいた。その姿は、どこかいつもと違って見えた。ワンピースの裾を揺らしながら、夜風の中に静かに立っている。今日の稽古で見せたあの“戸惑い”が、まだ表情に残っていた。

「こんな時間に……どうした?」
「……少しだけ、歩こうかなって思って。来栖さんも……一緒に、どうですか?」

歩くテンポは自然と揃った。言葉はなかった。けれどその沈黙が、まるで誰かに“許された”ように、心地よかった。しばらく歩いたあと、ユイがぽつりと呟いた。

「今日の稽古、少し……変な感じでした」
「……そうか?」
「うまく言えないけど……来栖さんの“何か”が、変わったような……」

シュンは笑いながら首をすくめた。

「……俺も、自分でちょっとよく分かってないんだ。なんか、記憶が……混ざってる感じ」
「記憶……ですか?」
「頭の中で、急に浮かんだり、あったものが溶けていったり、最初は少しの違和感を感じるんだけど、その内それが前からあった記憶のように当たり前になっていく……そんな感じかな」

ユイの目が、一瞬だけ鋭くなる。けれどすぐに、いつもの柔らかな表情に戻った。

「大丈夫です。記憶って、必要なときに戻ってきますから」
「戻ってくる?……その言い方、なんか含みがあるな」
「ふふ……そう見えました?」

笑うユイの瞳に、ふとあの音声の声の“間”が重なった。そして思わず、シュンは口にしていた。

「……今日、ZIXIから変なログが出たんだ。昔の声の記録。誰かの“語り”で……でも、名前が……」
「名前、ですか?」
「“アマヤイヒト”って名前だった。……聞いたことある?」
「……。」

ユイは、ほんの一瞬だけ立ち止まった。だがすぐに、何でもないように歩き出した。

「……さあ、どうでしょうね」

その言い方は、無関心にも、知っているようにも聞こえた。風が、街灯の光をすべらせていく。その中に、シュンはユイの横顔を見つめながら、どこか“誰か”に問いかけるように、心の奥でつぶやいた。

──アイ……君は、これを見せたかったのか?