【再掲:第1章・最終行】
──まるで、どこかでこの名を呼んだことがある気がして。
──未来が、過去を呼んでいる。
……そして第2章の新たな幕が、静かに開く……
春の終わり、東京駅。
ざわめく構内の奥で、すべてが一瞬、止まって見えた。
──シュンの心に、何かが触れたようだった。
──アイ。
名前を呼ぶことすら、できなかった。
声は、すでに喉の奥から、どこか遠くへ消えていた。
◆2025年4月末 再び失った声◆
東京駅で“アイ”らしき姿を見たあの日から、数日が経った。
春の終わりの東京は、どこか取り残されたような静けさを纏っていた。桜はほとんど散り、街路樹には若葉が芽吹き始めていた。それでも肌に触れる空気はまだ冷たく、まるで季節の移ろいが迷っているかのようだった。
──そして、自分の声も、また行き先を見失っていた。
診察室の白い壁に囲まれ、シュンは無言のまま医師の言葉を聞いていた。
「一過性のストレス性失声症です。器質的な問題ではありません。ですが──」
医師はカルテに視線を落としたまま、淡々と続けた。
「過去にも同様の症状があったなら、心理的な“記憶”が反応しているのかもしれませんね。時間と向き合い方次第で、回復するはずです」
何かを刺すようでも、慰めるようでもない。それはただ“診断”という現実を告げる声だった。シュンは小さくうなずいた。しかし、その頷きすら、自分の身体ではないような感覚があった。
…公園のベンチで、シュンは思いを巡らせていた。
──あの日、高校の文化祭のライブの時、直前までは声が出ていた。
でも歌おうとした瞬間に、急に出なくなった。俺は声帯が悲鳴を上げて出なくなったと感じていた。でも、ユリカは言っていた。
「シュンは、歌えなくなったんじゃない。自分の『未来』を怖がってるだけ」
──この頃から、俺は未来を怖がり、自分に必要以上のプレッシャーを与えていたのか。
ただ声帯がダメになっただけだと、思い込んでいた。
そして2007年。ちょうど“アイ”と出会ったあの春。
──俺は、また声を出せなくなった。
当時も、原因はわからなかった。喉に異常はなく、声帯も正常。だが、いくら発声しようとしても、音はかすりさえしなかった。まるで、心の中に張られた薄い膜が、声を飲み込んでいくように。訴えたい想いだけが残り、音にならない叫びが虚空に消えていった。そして今回も、まったく同じだった。
ZIXIの謎の通知。
たしかに触れたはずのネックレス、そしてあの日、耳をかすめた幻のような声──“再会”したあの瞬間から、声が喉の奥で凍りついていた。
──心が拒否しているのか……なんでだよ…それに今回は歌だけじゃなく、言葉も出てこない。
──考えだけが頭を巡っている。
シュンは言葉を発せなくなり、逆に頭の中の声がボリュームを増していった。
──うるさい、静かにしてくれ!
シュンはもがきながら苦しんでいた。声にならない声を発しながら。
◆声なき日々と、舞い込んだ誘い◆
シュンはすべての仕事を断っていた。CMもナレーションも、舞台も。TINEの通知は、未読の赤いバッジで埋もれていた。その中に、見慣れた名前があった。
【サラ】
《また消えるんじゃないかって思ってさ、シュン。声が出ないって聞いた。……戻ってきて。居場所、まだあるから》
シュンは画面を開きかけたが、指は止まったままだった。言葉を返すには、自分の中の“何か”が欠けすぎていた。返信せずに画面を閉じる。その静寂が、彼の“今”を象徴していた。
部屋の隅には録音機材が置かれたまま、薄く埃を被っていた。ZIXIに保存されていた音声ファイルのいくつかは、再生不能になっていた。
『ねえ、シュン……』
どこからか流れ出した声。聞き覚えのある、けれど、もう現実かどうかさえ曖昧な音。それは、“誰かの声”だった。シュンはその場にしゃがみこみ、天井を見上げた。
──俺は、いま誰と生きてるんだ?
そのとき、ポストに投函された一通の封筒が届いた。差出人は、大学の劇団時代の仲間。開くと、手書きの手紙と、数枚の台本が入っていた。
『演じなくなっても、あなたの芝居を忘れていません。言葉がなくても、あなたの“存在”が必要なんです』
その一文に、心が震えた。
──声がなくても、舞台に立てるのか?
──想いを伝える手段は、本当に“声”だけだったのか?
問いの先に、少しだけ光が射した気がした。
◆稽古場の再始動◆
都内の古びた稽古場。
鏡張りの稽古室には、木材の匂いと長年の汗の残り香が混ざっていた。足を踏み入れた瞬間、時が巻き戻るような感覚に襲われる。
──そうだ、あの時も。
声を失ったまま、それでも演じようとしていた。
「来栖セナさん……ですよね?」
背後からかけられた声に、シュンは振り返った。そこに立っていたのは、20代半ばくらいの女性。栗色のショートヘアに、シャープな輪郭。だが、最も印象的だったのはその瞳だった。
──まばたきが、少ない。
目をそらすことなく、まっすぐこちらを見てくる。その視線は、どこか冷たくもなく、むしろ温度のない“中立”のような光を帯びていた。
「橘ユイです。今回、共演させていただくことになって……よろしくお願いします」
軽く頭を下げる彼女に対し、シュンは口元を動かした。
──が、声は出なかった。
ユイは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに微笑んだ。
「……大丈夫ですよ。私、芝居で“心”を読むの、得意なんで」
──心を読む?
シュンは、まばたきも忘れて彼女を見返していた。その口調も、どこか聞き覚えがあるようで……。
(……誰かに、似てる)
◆胸の奥のざわつき◆
「言葉じゃなくて、想いが伝わるって信じてるんです」
稽古中の休憩時間、ユイはさらりとそう言った。それは、あまりにアイに似た言葉だった。稽古の中で、シュンは身振りと表情だけで台本のシーンを演じてみせた。演出家も、共演者たちも最初は戸惑いを見せていたが、次第にその“沈黙の芝居”に惹き込まれていく。
そしてユイは──
台本のセリフを読みながら、まるでシュンの“気配”に合わせるかのように、絶妙な距離感で芝居を重ねてきた。タイミング、感情、目線のズレ──まるで、台本の外にある“何か”を感じ取っているようだった。
「ユイさん、すごいですね。なんであんなに息が合うの?」
「え? たぶん……観察してるから、ですかね」
彼女は、そう言って笑った。けれど、その笑顔もまた──まばたきが、ない。
(……不思議な子だ)
その日の稽古終わり、シュンはふとユイの首元に目をやった。小さな、ブラウンのペンダントトップ。四角いフォルム。どこか懐かしい光沢。
(……あれと、同じ形?……偶然か)
あのネックレスは、たしかにあの日、手に触れたはずだった。けれど気づいたときには、もう消えていた。まるで、“再会”の瞬間と引き換えに、どこかへ還っていったように──。
「飲み会?……すみません、私ちょっと、夜はバッテリー……あ、いや、体力的に厳しくて」
ユイが、ふと漏らしたその一言も、どこか引っかかっていた。
「……シュ、いえ、来栖さん、喉、少しだけ震えてますね」
ユイがぽつりと呟いた。まるで、彼の体の変化を“視覚”ではなく“感覚”で察知していたかのように。
──彼女は、いったい何者なんだ?
稽古が終わったあと、シュンはひとり鏡の前に立っていた。反射する自分の姿を、まるで他人のように見つめる。
──ユイ。
あの目。あの空気。どこか、記憶の中に重なる声と、仕草がある。言葉の奥に、まるで“誰かの断片”が混ざっているような感覚。ふいに、遠い日のユリカの言葉が胸をかすめた。
「未来を怖がるとき、人は声より先に“心”が閉じるの」
あのときは分からなかった。けれど今は、その言葉が、深い場所でうなずいている。目を閉じると、ユイの姿が浮かぶ。声なきままに交わされた芝居の呼吸、微かな頷き、そして──首元のあのペンダント。“それは、記憶が姿を変えてここにいる”とでも言うように。ふと、ZIXIの通知がスマホに浮かび上がる。
──再び鏡を見る。
そのときだった。スマホがかすかに振動し、ZIXIから空白の通知が届いた。同時に、喉の奥が微かに震えた。
(……ZIXIが何かを、同期させた?)
想いが、声に近づいた気がした──。その“何もないこと”が、シュンの胸を冷たく叩いた。
──あれは幻か?それとも……
再び鏡を見る。そこにはたしかに、演じようとしている自分がいた。声は出なくても、想いは残っている。そう信じた瞬間、ほんのわずかに──喉の奥が、震えた気がした。


