◆2025年 東京駅◆

 2025年、東京駅のベンチに腰掛けながら、まるで走馬灯のように過去を見つめていたシュン。人波の向こうに、”あの日”の光景が重なって見えた。

──その視線の先、静かに揺れるように、2015年の春へと、時は静かに遡る。

◆2015年春 誘いの記憶◆

 シュンは、暗い部屋でスマートフォンの画面を見つめていた。画面に表示されたメッセージは、数ヶ月前に届いたものだ。

【俳優、やってみない?あんたの声と表現、舞台で映えると思う】

送り主の名前は──サラ。大学時代の同級生であり、かつての恋人。そして今は、小劇場を中心に注目を集める新進気鋭の演出家。このメッセージを受け取ったとき、シュンの中に眠っていた何かが、微かに動いた。
ミライと離婚して数ヶ月。音楽業界からも少しずつ距離を置き始め、かつての情熱がどこへ向かえばいいのか分からなかった日々。その沈黙を破ったのは、かつて舞台に立った記憶。声を失っても、舞台で“何かを伝える”ことはできた。

“来栖セナ”。

封印していたその名前と、あの時の情熱が、ふたたび彼の心に浮かび上がってきた。

──やってみるか……。

◆小劇場での再始動◆

 そして今。都内の稽古場には、サラの声が響いていた。

「はいOK!……セナ、今のトーン、悪くなかった。でも、もう少し間を意識して。あなたの“間”って、観客の感情の余白なの。」
「感情の余白?……」
「そう、感情の余白。あなたはただ言葉を羅列しているだけ。何かに追い立てられるように」
「そんなつもりは」
「私には、いや、観客にもそう伝わるわ。役が焦っているなら良いけど、演者自身が焦っているように感じるの」

──追い立てられる……。

シュンは無自覚で何かに追い立てられていたのだ。

「わかった。少し時間をくれないか?」

観客の感情の余白。

シュン──いや、“来栖セナ”は、その言葉を胸に刻みながら、再び台本を見つめた。

──感情の余白……そうか、おれは無意識に恐れていたんだ。何かを待つことに。

稽古は過酷だった。筋肉痛と喉の枯れ。感情をさらけ出すことへの恐れ。だが、そこには確かな手応えがあった。夜、ひとりきりの舞台に立ち、リハーサルの灯りの下、空席の観客席を見渡す。

──この静けさの中に、誰かの心を残せるだろうか……

そんな想いが、彼を突き動かしていた。

◆初舞台の幕が上がる◆

 2015年秋。初舞台『月下ノ檻』が開幕した。
会場は100席にも満たない小劇場。だが、演出と演技の力により、密度の高い作品として口コミで広まり、千穐楽前には満席が続いた。ある日の舞台本番前、控室の壁に貼られたキャスト表。

“主演:来栖セナ”

その名前を見て、会場整理のスタッフが指差してつぶやく。

「セナ……誰だろう?新人かな」

さらに、開演前のざわめきの中、観客のひとりが、公演のパンフレットにあるキャスト表を見て囁くのがモニターを通して聞こえた。

「……この人の名前、初めて聞いたな。来栖セナって……誰?」

その声が、シュンにはどこか心地よかった。舞台上でのセナは、まるで過去の痛みを抱えたまま、それでも前に進もうとする男の役が、憑依したようだった。観客の心を揺さぶり、感動の渦を巻き起こした。

……

千穐楽のカーテンコールの拍手の中、舞台上に招かれたサラがそっとシュンに囁いた。

「……本物になったわね、セナ」

その言葉は、シュンの心に深く沈んでいった。

──これで、良いんだよな……。

◆表舞台への足音◆

 千穐楽終演後の楽屋にて、思わぬところから声がかかる。

「今回の演技、拝見しました。……MV出演、お願いできませんか?」

ある人気アーティストのプロモーションビデオで、俳優としての“来栖セナ”が求められたのだ。

「え?MVですか?」
「ずっと探してて。」
「何を?」
「出演俳優をです。実は、サラさんの紹介で今日舞台を観に来たんです。良い俳優いるからって言われて。」
「はぁ」
「あなたのどこか陰のある演技が、イメージにぴったりなんです。とても引き込まれました。良かったら出てもらえませんか?」
「でも、俺なんかでいいんですか?撮影経験ないし」
「そこがまた良いんです。サラさんにも許可頂いているし!」

──あいつ、勝手に……。でも、仕方ないか。あいつの立場もあるし、1回だけやってみるか。

「わかりました。うまく出来るかわかりませんが、よろしくお願いします。」

……

撮影は順調に進んだ。限られたカットの中でも、彼の持つ表現力と余白の魅せ方が際立った。シュンは、舞台上と撮影で感じた感覚を、確かに自分のモノとしていた。

「これが“間”なんだな……」

帰りのタクシーでそう呟くと、運転手がミラー越しにちらりと彼を見た。

「お芝居、やってる方ですか?声が、印象的で……」
「……はい、少しだけ」

その頃、SNSやブログでも少しずつ“来栖セナ”の名前が話題になり始めていた。

【この俳優、どこから出てきたの?】
【来栖セナって、舞台界隈じゃ有名なの?】

そんな投稿をサラが見つけて、シュンに画面を見せた。

「……名前が歩き出してるよ、セナ」

その言葉に、シュンは小さく微笑んだ。

◆記憶のなかの音◆

 その夜。シュンは録音機材の前に座っていた。ふと、再生したのは、2007年の古いあの音声ファイル。
東京駅。
雑踏。
構内放送。
誰かの足音。
そして、かすかに重なる若い女性の声。

『じゃあ、またね』

少女ではない。大人の女性だった。その声の質感が、なぜか少し違って聞こえた。ZIXIを久々に開いてみる。ログは確かに残っていた。

けれど──

「……タイムスタンプ、微妙にズレてる?というか、メッセージの時系列が、入れ替わってる……?」

過去にやりとりしたはずのメッセージの順番が、わずかに前後していた。

──あのとき、何か見落としていたのか?

記憶の中のアイ。だけど、その記憶さえも、少しずつ曖昧になっていく。

──アイは、本当に存在しているのか?俺の妄想なのか?

確かめたい。でも「いまさら何?」と言われるかも知れない。ただ、少しの違和感が、胸にしこりのように残った。

◆ワークショップという新たな扉◆

 MV出演後、俳優“来栖セナ”の名前がじわじわと知れ渡るようになり、小劇場界隈での注目度も高まっていった。そんな中、サラが彼に提案した。

「演技のワークショップ、やってみない?」
「俺が講師……?」
「うん。今、若い子たちの中で“来栖セナ”って名前、結構話題になってる。名前で人が集まると思う。けど──」
「ワークショップ中は、“今井シュン”として話すってこと?」

サラは小さく頷いた。

「うん。それがあなたらしいと思う。仮面を被ってるだけじゃ、教えられないでしょ?」

一拍置いてから、サラがぽつりと付け加えた。

「本当はね……ずっと、誰かに“名前のない感情”を演出してほしかった。あんたみたいな人じゃなきゃ無理だったの」

そう言ったサラの横顔は、どこか過去と今のあいだにいるようだった。シュンは黙ってうなずいた。そうして開かれたワークショップは、事前募集では“来栖セナ”の名が使われたものの、会場に立ったシュンはこう名乗った。

「初めまして。……今井シュンです。今日は、“名前を持たない感情”を、どう表現するかを一緒に探っていきましょう」

静かで、けれど確かな自信を帯びた声が、会場に響いた。受講生たちは、名の知れた俳優ではない“その人”の言葉に、次第に引き込まれていった。

◆俳優として、そして──◆

 舞台の成功、MVの出演、ワークショップ講師としての活動。小さな成果が、確かな“次”へと繋がっていく。大劇場からのオファーがあった。

──脇役ながら、映画の出演も果たした。

その映画の撮影現場で、準備を進めていたスタッフのひとりが、ふとシュンの姿を見て呟いた。

「……なあ、君、誰かに似てるな。昔、舞台で名を馳せてた“今井ハヤト”って俳優、知ってる?」
「今井……ハヤト?」
「うん、もう何年も前に亡くなったらしいけどさ。演技の雰囲気が、どこか似てるんだよ。何というか……声の響かせ方とか」

シュンは曖昧に微笑みながらも、心の奥で、その名前がどこか引っかかった。

(……今井ハヤト。演技の雰囲気が似てる?なぜだろう、心が疼く)

映画の撮影は順調に進み、無事にクランクアップ。その繊細な演技と主役を食うほどの存在感で、監督からも一目置かれ、シュンは確実にステップアップしていった。
ある日、ミュージカル映画の主演候補にも挙がった。

だが──

(ミュージカル映画かぁ……はぁ……でも何でまた歌なんだ……歌は……まだ無理だ……どうする?……)

シュンは、歌を失った過去と、まだ向き合いきれていなかった。

──このままだと、そのチャンスが、また俺の手のひらから滑り落ちていく。

けれど、そこで味わう悔しささえも、今は生きる糧になっていた。
“来栖セナ”という名前が、またひとつ、誰かの記憶に灯りをともしていく。

──そして“今井シュン”という存在も、少しずつ蘇り始めていた。

それは、シュンの再生そのものだった。