◆週刊誌の報道と、静かな波紋◆

 2014年初夏、ある週刊誌がミライの海外進出計画と共に、極秘結婚の噂を報道した。見出しはこうだった。

『新進気鋭の歌姫ミライ、極秘結婚か? 同行する謎の男性の正体は?』

掲載された写真には、目隠しされた男性の後ろ姿が写っていた。 顔は映っていない。だが、その髪型、肩のライン、身に着けているグレイのコートの質感──ミライには、それがシュンであることがはっきりと分かった。記事は憶測まじりの内容だったが、業界内には瞬く間に広まった。ミライの所属事務所はイメージ戦略を最優先にし、ミライに「一旦距離を置いた方がいい」と伝えた。その夜、ふたりは静かな部屋で向き合っていた。

「……これ、どう思う?」

ミライがスマホを差し出す。シュンは画面をひと目見ると、眉をわずかにしかめ、すぐに視線をそらした。

「俺のせいだな。ごめん」
「違うよ、シュンは何も悪くない」
「いや、俺がもっと配慮していたら、こんなことには。君は何も悪くない」

──シュン…いつも自分のせいにするのね。

ふたりの言葉は優しく、でも、どこかに深く突き刺さるものを含んでいた。

「……仕事のために、しばらく離れてみる?」
「そうだな。お互い、冷静になれるかもしれない」

どちらも、心からそう思っていたわけではなかった。けれど、その選択が正しいと、どこかで思いたかった。ミライはあくまで仕事のためと自分に言い聞かせていたが、それだけではなさそうな、予感めいた感情を禁じえなかった。

◆音楽の終焉と、ふたりの境界線◆

 数日後、ミライの次回アルバムは海外の著名プロデューサーと制作されることが正式に発表された。世間からは、週刊誌報道を発端に、ミライが自分は潔白であると示すためだと揶揄された。

「……そうか。よかったな」
「本当に、それでいいの?」

シュンは、小さく頷いた。

「私は、あなたとこれからも一緒に作っていく気持ちに変わりはないよ。それに私はあなたを…」

その言葉を遮るようにシュンは言った。

「君の音楽が、もっと多くの人に届くなら。それが一番だよ」

ミライはそれ以上、何も言えなかった。かつては音楽がふたりを繋いでいた。けれど今、その糸は静かにほどけていく。

──お父さん、本当にこれで良いのかな?

ミライは心の中でそう呟いていた。

◆壊れた夜とネックレス◆

 その夜、シュンが不在の時間。
ミライはふと、彼の作業部屋に足を踏み入れた。机の隅に、小さな箱が置かれている。何気なく開けると、そこには光沢のあるシルバーのチェーンと、長方形のブラウンのペンダントトップ。

「……これ」

ずっと、気になっていた。 シュンが時折、無意識に胸元を触れていたあのネックレス。あえて見て見ぬふりをしていた。それがどんなものであろうと、私には関係ない。私と会う前にシュンが誰と何をしていようが関係ない。今は私がそばにいるんだから──でも…。
シュンが帰宅すると、ミライはその箱を手に取ったまま、静かに尋ねた。

「ねえ、これ……誰にもらったの?」

シュンは一瞬動揺し、目を伏せる。そして、何も答えなかった。

「どうして、黙るの?」
「……」

ミライの声には、苛立ちと、寂しさが混じっていた。

「そんなに大切なら……どうして、隠してたの?」

沈黙。それが、何よりも答えだった。
ミライはそっとネックレスを持ち上げ、キッチンへと歩いていく。

「……捨てておくね」

ごく小さな音で、金属がゴミ箱に落ちた。乾いた金属音。まるで、それがふたりの関係の終わりを告げる鐘のようだった。シュンは止めなかった。

──止められなかった。

その夜、ふたりは別々の部屋で眠った。眠れたかどうかは、分からない。ふたりの距離が離れていく音が、静寂の中に横たわっていた。

◆最後の夜◆

 次の日の夜。久しぶりに、ワインを開けた。

「ねえ、どうして怒らないの?」

ミライがぽつりと訊いた。

「何が?ああ、ネックレスの事?」
「そう。捨てても、何も言わなかった。言ってくれなかった。私、もっと怒って欲しかった」
「怒っていいほど……ちゃんと君を愛せていたか、分からないから」
「……そういう優しさが、一番つらいよ」

ふたりの言葉は、優しくて残酷だった。

「ねえ、最後に名前で呼んでくれる?」

しばらく沈黙が流れた後──

「……ミライ」

その名前は、どこか遠くの音のように響いた。

「ありがとう」

それは、別れの言葉だった。

◆別れと旅立ち◆

 数日後。引っ越し業者が荷物を運び出す中、ふたりは無言で部屋を整理していた。最後に、空港までシュンがミライを送った。

「じゃあね」

ミライは涙も見せずに、笑って言った。ほんの少し唇が震えていたことに、シュンは気づいていた。でも、その震えに触れてしまえば、ふたりとも崩れてしまいそうで──見て見ぬふりをした。

「うん。またな」

そう返したシュンの笑顔は、どこかぎこちなく、けれど本物だった。搭乗ゲートへ向かう彼女の背中を見送りながら、シュンは心の中で呟いた。

──君を、嫌いになんてなれなかったよ。

◆余韻◆

 夜。シュンはひとり、ベッドサイドの机を開けた。
中には、小さなノート。1ページだけ、筆記体のような柔らかい文字で書かれていた。

「ありがとう」

ただ、それだけ。
シュンは、そのページをそっと閉じた。
その手が、微かに震えていた。

──まだ、何かが終わった気がしなかった。