◆極秘夫婦の生活◆

 2013年初春。
結婚から数ヶ月が経ち、ふたりは誰にも知られぬまま同じ屋根の下で暮らしていた。寝室はひとつ、冷蔵庫はふたり分の食料で満たされ、スケジュール帳には共通の予定もある。けれど、朝のキッチンで交わす会話は、ごく当たり障りのないものになっていた。

「今日、収録は何時まで?」
「夕方には終わると思う。打ち合わせが伸びなければ」
「そっか。じゃあ、夕飯……作っておくね」
「ありがとう」

それだけの会話。そして、ふたりは別々の扉を開け、それぞれの現場へと向かう。違和感はない。けれど、ぬるま湯のような日常の中で、心だけが少しずつ凍えていくのを、どちらも気づかないふりをしていた。シュンは夜遅く帰宅し、寝室のドアが静かに閉じられているのを見るたび、何かを失っている気がしていた。ミライもまた、彼のコートの袖口に残る音楽機材の匂いに、懐かしさと寂しさを感じていた。

◆ふたりの音楽がすれ違う◆

「……次のアルバム、別のプロデューサーに頼んでもいいかな?」

ある日、ミライがぽつりと口にした。スタジオの空気がわずかに揺れた。

「……いいと思う。君が歌いたい音楽を優先して」

シュンはそう答えたが、心のどこかで何かが崩れる音がした。ミライの言葉には悪意などなく、むしろ彼への配慮すら感じた。けれど、ふたりが創り上げた“音楽”が、別の誰かの手で仕上げられるという現実は、否応なく距離を感じさせた。最近では、同じ現場にいても、目が合うことが少なくなっていた。彼女の歌声は相変わらず美しく、むしろ以前よりも自由で、輝いてさえいた。ミライは、望月来人(モチヅキライト)の呪縛を完全に吹っ切ったのだ。シュンは、自分がその呪縛を解放し、ミライの才能を引き出した事を頭では理解していても、自身が表舞台に立てなくなった事実が、皮肉にも今更ながらシュンの胸を締めつけた。その感情は、ある意味嫉妬にも似た冷たい感情だった。

──何を考えているんだ。俺は歌う事を諦めたんじゃないか。

「ねえ、最近……ライブに来てくれてないよね?」
「……予定が合わなくて」

一瞬、間があり、返事は微笑みと共に返されたが、ミライはその笑みの奥に、明確な拒絶を感じ取っていた。

◆壊れていく日常の気配◆

 冷蔵庫の中に残された料理。 食卓にはラップがかけられたままのグラス。
メッセージのやり取りは減り、夜の帰宅もバラバラになった。それでも、ふたりは言葉にしなかった。どちらが悪いわけでもない。だけど、確実に“ふたりで同じ方向を向いていたあの頃の温度”は失われていっていた。

「……ねえ、最近、名前で呼んでくれないよね」

夜、ふとした瞬間にミライがそう呟いた。シュンは答えず、ただそっと彼女の髪を撫でた。その優しさが、余計に空虚だった。
その晩、ミライは一人で寝室に戻った。隣にいるはずのぬくもりが、シーツの上で冷えていた。

(ねえ、わたし、今……誰なんだろう)

夜が静かすぎて、名前を呼ばれないまま目を閉じる時間が長く感じられる。

──シュン…。

翌日、スタジオでの打ち合わせのあと、ミライはふとペンを取り、スケッチブックに「MIRAI」と筆記体で書いた。彼女はその名前を見つめ、少しだけ微笑んだ。

(せめて、自分で自分の名前を呼んでいよう)

◆アイの気配◆

 初夏の夜。
ポストに投函された、一枚の封筒。差出人はない。中には、便箋に一行だけ。

『シュン、あなたは今幸せですか?』

その筆跡を見た瞬間、シュンの指がわずかに震えた。

──この文字。

かつて、何度か届いたエアメール。柔らかい角度で傾く“シ”の字。確信はない。でも、きっと彼女──アイのものだ。どうして、今になって。なぜメールじゃなくて手書き…?だが、返事をする気力はなかった。ただ、確実にシュンの心を動かすその筆跡。アイの事を忘れようとしていたシュンの心の奥底に、一滴の熱い液体が注がれるようだった。その熱は、コートの内ポケットではなく、心臓の奥に沈んでいった。シュンは、その手紙を、ミライに見せることはできなかった。ポケットにしまったまま、封筒は彼のコートの内側で沈黙を続けた。
その晩、ミライは何かを感じ取ったように、寝室の明かりを消した後も、しばらく黙って天井を見つめていた。

(……なにか、遠くで音が消えていくような気がする)

──シュン、何があったの?

◆静かな夜に灯るもの◆

 次の日の夜。

「久しぶりに、ちゃんと夜ご飯食べよう?」

ミライが、少し照れたように笑って言った。小さな鍋を囲む食卓。グラスに注がれるワイン。ふたりは静かに箸を動かしながら、時折、目を合わせてはそらす。

「ねえ、来年の今頃も、こうしていられるかな」
「……わからない。でも、今は、ここにいる」
「私は、シュンとずっと一緒にいたいな」

ミライは努めて明るく言った。シュンは、それには俯く事でしか返せなかった。ふたりの会話は、まるで深海のようだった。 静かで、響き合いながら、どこか遠い。

「君の歌、最近すごく自由だね」
「……うん。やっと、音に縛られないようになってきたかも」

それは喜ばしいことだった。けれど、どこか、彼女が遠くへ行ってしまうような不安もあった。
ミライはその夜、夢を見た。名前を呼ばれた夢だった。けれど、目が覚めた時、その声が誰のものだったのか、思い出せなかった。

──いや、もしかしたら、思い出したくなかっただけかもしれない。