楽しい時間ほど、恐ろしい速度で過ぎ去っていく。
蓮と夕暮れの河川敷で過ごす毎日は、それまでの私の人生の中で、間違いなく一番鮮やかで、一番あたたかい時間だった。
気がつけば、私は毎日夕方になると、自然とあの坂道へ自転車を走らせるようになっていた。
蓮はいつも先にいて、私が来ると「あ、神崎さん!」と、世界で一番嬉しいものを見つけたような顔で手を振ってくれた。
くだらない学校の噂話、好きな音楽のこと、昨日食べたアイスの味。そんな他愛のない会話のすべてが、私の心の奥底に眠っていた冷たい氷を、少しずつ、でも確実に溶かしていった。
けれど、奇跡のような夏休みは、永遠には続かない。
八月の終わり、それは突然、あまりにも残酷な現実として私の前に突きつけられた。
その日、私は蓮と、クラスの男子たちの会話を偶然耳にした。夏休みが終わる直前、提出物の確認のために立ち寄った夕方の教室。廊下から聞こえてきた声に、私は足を止めた。
「なぁ長谷川、お前って結局、いつ日本を発つんだよ? 3月?」
クラスメイトの男子の気楽な問いかけに、蓮のいつもの明るい声が返ってくる。
「いや、それがさ、親の仕事の都合が少し早まって。予定だと、今年の十二月の中旬には向こうに行くことになったんだ」
「えっ、十二月!? じゃあ、修学旅行が終わったらすぐじゃん!」
「あはは、そうなんだよ。だからさ、みんなと過ごせる秋の行事、全部全力で思い出作りたいんだよね」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てて波打った。指先から血の気が引いていくのが分かった。
(十二月……? 三月じゃないの……?)
勝手に、来年の春までは一緒にいられると思い込んでいた。あと半年以上はあると、心のどこかで油断していた。
だけど、実際は違った。
あと、たったの四ヶ月。
季節が秋を通り過ぎて、冬の寒さを迎える頃には、長谷川蓮という少年はこの街から、私の世界から、完全に消えてしまう。胸の奥が、雑巾を絞られるように痛んだ。その瞬間、私の頭の中で、これまで必死に抑え込んでいた防衛本能が、けたたましく警報を鳴らし始めた。
『ほら見なさい。だから言ったじゃないか』
冷酷なもう一人の自分が、耳元で囁く。
『これ以上、彼を好きになったらどうなる? 十二月が来たとき、お前は立っていられないくらいに傷つくよ。終わりが来るなら、最初からいらないはずでしょ。お前は正しい選択を忘れたの?』
恐怖が、津波のように押し寄せてきた。蓮を失う未来の自分が、ボロボロになって泣いている姿が鮮明に浮かぶ。
あんなに苦しい思いをするくらいなら、今すぐ、この感情に強烈なブレーキをかけなければいけない。
これ以上、彼を私の心の中に入れてはいけない。
「神崎さん?」
背後から声をかけられ、私はビクリと肩を揺らした。振り返ると、そこにはカバンを肩にかけた蓮が、不思議そうな顔で立っていた。
「あ、長谷川くん……」
「どうしたの、そんなところで立ち尽くして。あ、もしかして今の話、聞こえた?」
蓮は少し申し訳なさそうに、でもすぐに優しい笑みを浮かべて私の顔を覗き込んできた。
「驚かせちゃってごめん。急に決まっちゃってさ。でも、だからこそ残り――」
「もういいよ」
私は、彼の言葉を遮った。冷たく、突き放すような声だった。
自分でも驚くほど、心とは裏腹の拒絶の言葉が口から出た。
「え……?」
蓮の笑顔が、ぴたりと固まる。
「もういいって言ったの。長谷川くんがいつ行こうが、私には関係ないから」
「神崎さん、どうしたの? 急にそんな――」
蓮が心配そうに一歩、私に近づこうと足を動かす。
私は反射的に、一歩後ろへ下がった。
彼との間に、目に見えない強固な壁を築くように。
「近づかないで」
私の声は震えていた。
だけど、ここで引き下がったら、私は私のルールを破ってしまう。
傷つかないための「正しい選択」を、ここで手放すわけにはいかない。
「私、やっぱり長谷川くんのそういうところが理解できない。十二月にいなくなるって分かってるのに、なんでそんなに平気な顔でいられるの? 周りのみんなを巻き込んで、思い出作ろうなんて、ただの自己満足じゃない。残される人の気持ちなんて、何も考えてないよ」
「それは……」
蓮の瞳が、初めて深く傷ついたように揺れた。
その痛々しい表情を見て、私の胸も張り裂けそうになる。
だけど、言葉は止まらなかった。
「私は、長谷川くんみたいに強くない。終わりが来ると分かっているものに、一生懸命になれるほどバカじゃないの。……今まで、河川敷で一緒にいたのは、ただの暇つぶし。勘違いしないで」
一気にそれだけを吐き出すと、私は蓮の返事を待たずに、背を向けて走り出した。
「神崎さん! 待って!」
後ろから私を呼ぶ声が聞こえたけれど、私は一度も振り返らなかった。
涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、ただ無我夢中で自転車に飛び乗り、ペダルを漕いだ。いつもの河川敷の横を通り過ぎる。
夕日が、泥のように濁ったオレンジ色で街を染めていた。
あの美しい特等席が、今は酷く遠い場所のように思えた。
家につき、自室のベッドに飛び込んで、枕に顔を押し付けた。
その瞬間、堪えていた涙が一気に溢れ出して、止まらなくなった。
ひどいことを言った。
蓮を、深く傷つける言葉を投げつけてしまった。
だけど、これでいいのだ。
これで蓮は私に愛想を尽かし、もう近づいてこない。私はこれ以上、彼のことを好きにならずに済む。十二月が来ても、私は傷つかずに済む。
「……これで、正しいはずなのに」
声にならない嗚咽が、暗い部屋に響く。傷つかないための防壁を再び完璧に築き上げたはずなのに、私の胸の奥は、まるで最初から何もなかったかのように、冷たく、虚しく、激しく痛み続けていた。
十七歳の夏が終わろうとしていた。
私たちは、最悪の形で、すれ違ってしまった。
蓮と夕暮れの河川敷で過ごす毎日は、それまでの私の人生の中で、間違いなく一番鮮やかで、一番あたたかい時間だった。
気がつけば、私は毎日夕方になると、自然とあの坂道へ自転車を走らせるようになっていた。
蓮はいつも先にいて、私が来ると「あ、神崎さん!」と、世界で一番嬉しいものを見つけたような顔で手を振ってくれた。
くだらない学校の噂話、好きな音楽のこと、昨日食べたアイスの味。そんな他愛のない会話のすべてが、私の心の奥底に眠っていた冷たい氷を、少しずつ、でも確実に溶かしていった。
けれど、奇跡のような夏休みは、永遠には続かない。
八月の終わり、それは突然、あまりにも残酷な現実として私の前に突きつけられた。
その日、私は蓮と、クラスの男子たちの会話を偶然耳にした。夏休みが終わる直前、提出物の確認のために立ち寄った夕方の教室。廊下から聞こえてきた声に、私は足を止めた。
「なぁ長谷川、お前って結局、いつ日本を発つんだよ? 3月?」
クラスメイトの男子の気楽な問いかけに、蓮のいつもの明るい声が返ってくる。
「いや、それがさ、親の仕事の都合が少し早まって。予定だと、今年の十二月の中旬には向こうに行くことになったんだ」
「えっ、十二月!? じゃあ、修学旅行が終わったらすぐじゃん!」
「あはは、そうなんだよ。だからさ、みんなと過ごせる秋の行事、全部全力で思い出作りたいんだよね」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てて波打った。指先から血の気が引いていくのが分かった。
(十二月……? 三月じゃないの……?)
勝手に、来年の春までは一緒にいられると思い込んでいた。あと半年以上はあると、心のどこかで油断していた。
だけど、実際は違った。
あと、たったの四ヶ月。
季節が秋を通り過ぎて、冬の寒さを迎える頃には、長谷川蓮という少年はこの街から、私の世界から、完全に消えてしまう。胸の奥が、雑巾を絞られるように痛んだ。その瞬間、私の頭の中で、これまで必死に抑え込んでいた防衛本能が、けたたましく警報を鳴らし始めた。
『ほら見なさい。だから言ったじゃないか』
冷酷なもう一人の自分が、耳元で囁く。
『これ以上、彼を好きになったらどうなる? 十二月が来たとき、お前は立っていられないくらいに傷つくよ。終わりが来るなら、最初からいらないはずでしょ。お前は正しい選択を忘れたの?』
恐怖が、津波のように押し寄せてきた。蓮を失う未来の自分が、ボロボロになって泣いている姿が鮮明に浮かぶ。
あんなに苦しい思いをするくらいなら、今すぐ、この感情に強烈なブレーキをかけなければいけない。
これ以上、彼を私の心の中に入れてはいけない。
「神崎さん?」
背後から声をかけられ、私はビクリと肩を揺らした。振り返ると、そこにはカバンを肩にかけた蓮が、不思議そうな顔で立っていた。
「あ、長谷川くん……」
「どうしたの、そんなところで立ち尽くして。あ、もしかして今の話、聞こえた?」
蓮は少し申し訳なさそうに、でもすぐに優しい笑みを浮かべて私の顔を覗き込んできた。
「驚かせちゃってごめん。急に決まっちゃってさ。でも、だからこそ残り――」
「もういいよ」
私は、彼の言葉を遮った。冷たく、突き放すような声だった。
自分でも驚くほど、心とは裏腹の拒絶の言葉が口から出た。
「え……?」
蓮の笑顔が、ぴたりと固まる。
「もういいって言ったの。長谷川くんがいつ行こうが、私には関係ないから」
「神崎さん、どうしたの? 急にそんな――」
蓮が心配そうに一歩、私に近づこうと足を動かす。
私は反射的に、一歩後ろへ下がった。
彼との間に、目に見えない強固な壁を築くように。
「近づかないで」
私の声は震えていた。
だけど、ここで引き下がったら、私は私のルールを破ってしまう。
傷つかないための「正しい選択」を、ここで手放すわけにはいかない。
「私、やっぱり長谷川くんのそういうところが理解できない。十二月にいなくなるって分かってるのに、なんでそんなに平気な顔でいられるの? 周りのみんなを巻き込んで、思い出作ろうなんて、ただの自己満足じゃない。残される人の気持ちなんて、何も考えてないよ」
「それは……」
蓮の瞳が、初めて深く傷ついたように揺れた。
その痛々しい表情を見て、私の胸も張り裂けそうになる。
だけど、言葉は止まらなかった。
「私は、長谷川くんみたいに強くない。終わりが来ると分かっているものに、一生懸命になれるほどバカじゃないの。……今まで、河川敷で一緒にいたのは、ただの暇つぶし。勘違いしないで」
一気にそれだけを吐き出すと、私は蓮の返事を待たずに、背を向けて走り出した。
「神崎さん! 待って!」
後ろから私を呼ぶ声が聞こえたけれど、私は一度も振り返らなかった。
涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、ただ無我夢中で自転車に飛び乗り、ペダルを漕いだ。いつもの河川敷の横を通り過ぎる。
夕日が、泥のように濁ったオレンジ色で街を染めていた。
あの美しい特等席が、今は酷く遠い場所のように思えた。
家につき、自室のベッドに飛び込んで、枕に顔を押し付けた。
その瞬間、堪えていた涙が一気に溢れ出して、止まらなくなった。
ひどいことを言った。
蓮を、深く傷つける言葉を投げつけてしまった。
だけど、これでいいのだ。
これで蓮は私に愛想を尽かし、もう近づいてこない。私はこれ以上、彼のことを好きにならずに済む。十二月が来ても、私は傷つかずに済む。
「……これで、正しいはずなのに」
声にならない嗚咽が、暗い部屋に響く。傷つかないための防壁を再び完璧に築き上げたはずなのに、私の胸の奥は、まるで最初から何もなかったかのように、冷たく、虚しく、激しく痛み続けていた。
十七歳の夏が終わろうとしていた。
私たちは、最悪の形で、すれ違ってしまった。



