17歳の夏、枯れない向日葵を君と植える

七月も終わりに近づくと、学校は夏休みという長い空白期間に突入した。
うだるような暑さが街を包み込み、アスファルトからは陽炎が立ち上っている。
蝉の鳴き声が降るように響く午後、私はクーラーの効いた自室のベッドに寝転がり、天井をじっと見つめていた。

夏休みは好きだった。
誰とも会わなくていいし、自分の世界に閉じこもっていられるから。
それなのに、今年の夏は、どうしてか胸の奥がそわそわとして落ち着かなかった。本を読んでも、スマホを眺めても、文字が滑って頭に入ってこない。
原因は、分かっている。
あの放課後から、私の頭の片隅に、あの眩しい少年の笑顔が居座り続けているからだ。

「……何考えてるんだろ、私」

パチン、と頬を叩いてベッドから起き上がる。
これ以上部屋にいたら、余計なことばかり考えてしまう。私はお気に入りの文庫本を一冊だけカバンに放り込み、自転車を押して家を出た。向かったのは、街の外れを流れる一級河川の河川敷だった。

ここは私の隠れ家のような場所だ。
見渡す限りの青空と、どこまでも続く緑の芝生。通り抜ける風だけが相棒のこの場所は、誰にも邪魔されない私の特等席だった。自転車を坂の上に止め、堤防の斜面に腰を下ろしてページをめくる。
しかし、風が吹くたびにページの端がパタパタと音を立てるだけで、やっぱり物語は頭に入ってこなかった。

「あー、やっぱり神崎さんだ!」

突然、頭上から降ってきた明るい声に、私は心臓が跳ね上がるほど驚いた。慌てて振り返ると、そこにはマウンテンバイクに跨がった蓮がいた。白いTシャツの首元にタオルをかけ、額にはうっすらと汗を浮かべている。

「長谷川、くん……? なんでここに」
「部活の帰りに、ちょっと遠回りしてサイクリングしてたんだ。そしたら坂の上に神崎さんの自転車が見えたからさ。確信はなかったけど、声をかけて正解だったよ」

蓮は自転車を止めると、迷うことなく私の隣の芝生にドサリと腰を下ろした。

「……ついてこないでよ。ここは私の場所なのに」
「冷たいなぁ。神崎さんの場所って、どこかに名前でも書いてあるの?」
「書いてないけど……」

口を尖らせる私を気にする風でもなく、蓮は「ふはー、風が気持ちいい!」と両手を広げて大きく息を吸い込んだ。彼のすぐ近くからは、汗の匂いに混じって、夏特有の日焼け止めの香りが微かに漂ってくる。
その距離感の近さに、私は少しだけ体を引いた。

「神崎さん、夏休み中ずっとそうやって本を読んでるの?」
「悪い? 誰にも邪魔されずに、一人で静かに過ごすのが一番有意義なの」
「そっか。俺はね、今年の夏休みはやりたいことが山ほどあるんだ。花火大会も行きたいし、海にも行きたいし、クラスのやつらとバーベキューの約束もしてる」

蓮は指を折り数えながら、本当に楽しそうに語る。その表情は、やはりどこか焦っているようにも見えた。タイムリミットが刻一刻と迫っていることを、彼自身が一番よく分かっているからだろう。

「……ねえ」

私は膝を抱え込み、顎を乗せた状態で彼を見た。

「本当に怖くないの? そんなにたくさん思い出を作って、全部ここに置いていかなきゃいけないのに。海外に行ったら、その思い出のせいで、日本が恋しくてたまらなくなるかもしれないじゃない」

私の問いに、蓮はしばらく沈黙した。遠くで電車の走るガタゴトという音が響き、ゆっくりと夕日が空をオレンジ色に染め始めていく。蓮は足元の芝生を一本、優しく指でなぞりながら静かに言いました。

「神崎さん、ひまわりの花って好き?」
「え? 唐突に何?」
「ひまわりってさ、夏が終わると枯れちゃうじゃん。どんなに綺麗に咲いても、秋には種になって、茶色くなって萎れちゃう」

蓮は私の方を向き、真っ直ぐな瞳で私の目を射抜いた。

「じゃあさ、秋に枯れるからって、夏の間にひまわりを植えない方がいいと思う? 綺麗に咲いているひまわりを見て、誰も『どうせ枯れるのに無駄だ』なんて言わないよね。みんな『綺麗だな』って喜ぶ。それと同じだよ」
「……」
「俺たちの高校生活も、いつかは終わる。俺の場合はそれがちょっと人より早いだけ。だけど、今ここで神崎さんとこうして話している時間は、俺にとってひまわりが満開に咲いてるのと同じなんだ。枯れることを怖がって、種さえ蒔かないなんて、俺にはできないよ」

彼の言葉は、あまりにも純粋で、圧倒的な説得力を持っていた。傷つくのが怖くて、最初から何もいらないと、私は心の種を蒔くことすら放棄していた。
でも、蓮は違う。彼は終わりが来ると知っていながら、全力で水をやり、花を咲かせようとしている。夕暮れの光が、蓮の横顔を金色に縁取っていく。その姿があまりにも綺麗で、私の胸の奥で、カチリと何かの鍵が外れる音がした。

「……長谷川くんって、本当にバカだね」

私は照れ隠しに、わざとぶっきらぼうな声を真似た。

「えー、 真面目な話したのにバカってひどいな」
「だってバカじゃない。そんな熱いこと、恥ずかしげもなく言うんだから」

私は膝に顔を埋めて、小さく笑った。蓮と話していると、自分が守ってきた頑なな防壁が、ただの意気地なしの言い訳に思えてくるから不思議だ。

「あ、笑った」

蓮が嬉しそうに声を弾ませる。

「笑ってない」
「嘘だ、今絶対笑ってた。神崎さん、笑うと可愛いんだから、もっと笑えばいいのに」
「なっ……!」

心臓がドクン、と大きく跳ね上がった。顔が熱くなるのが自分でも分かった。夕日のせいにできるだろうか、いや、きっと無理だ。

「……もう帰る!」

私は立ち上がり、カバンを掴んで自転車へと駆け足で向かった。

「あ、待ってよ神崎さん! また明日もここに来る?」

背後からの蓮の声に、私は足を止めた。振り返らずに、少しだけ声を張り上げる。

「……気が向いたらね!」

自転車に飛び乗り、ペダルを強く踏み込んだ。坂道を下る風が、熱くなった頬を冷ましてくれる。胸の鼓動がうるさいくらいに脈打っていた。終わりが来る恋なんて、無駄。傷つかないのが、私の正解。そう自分に言い聞かせてきたはずなのに。


「気が向いたら」


なんて嘘だ。私は明日も、きっとあの河川敷へ行ってしまう。
一年後に終わるカウントダウンの音が、少しずつ、でも確実に、私の胸の中で大きくなっていた。