王都の中で最も栄えているのは、王城の周辺でも貴族の邸が建ち並ぶ上流区でもなく、多くの市民と物流の行き交う、城壁に近しい市街地だ。商業の中心地であるそこは、河川と接続している故に、交易の中継地点でもある。さすがに、ゼハディアの帝都ほどではないにしても。それでも、国境を隣接する他の国々と比べても、決して引けを取らない方だった。
休日とあってか、大通りに隣接する店々は、どこもかしこもたいそうな賑わいを見せている。大きな紙袋を抱えた親子連れ、誰かと待ち合わせをしているらしい男、ベンチに腰掛けて本を読んでいる老嬢、楽しそうに談笑をしている年若いカップル、人集りの間を縫うようにして走り回る子どもたち――。中央に位置する大広間には、生成りの帆を張った露店が幾つも軒を連ね、店主はめいめいに威勢のよい声を上げて、行き交う人々にあれやこれやと物を売っている。
そんな活気溢れる光景を見るともなく眺めながら、レティシアは片手で弄んでいたグラスの縁に、そっと口付けた。先端が窄まった形をしているからか、甘く芳醇な薫りが、空気を含んで、グラスの中にむせ返るほど立ち込めている。
その濃密な薫りとともに、とろりとした液体を喉の奥へ流し込むと、忽ち舌の上に、熟した果実のような仄かな酸味と、蜂蜜のようなまろやかな甘みが、寄り添うようにじんわりと広がった。微かに薔薇の匂いがするのは、まさにこの酒が「薔薇酒」と名付けられている通り、薔薇の砂糖漬けをじっくりと漬け込んで作られたものだからだ。エルミラード王国で、建国当初から何百年にも亘って人々に愛され続けていた、銘酒。
「甘ったるいな」
視界の端で、まさにその酒を呷っていたイヴァンが、木杯をテーブルに置きながら呟く。ゼハディア帝国にはもっと甘い酒が――それこそ、砂糖や蜂蜜や、兎に角甘いものを全部混ぜ合わせて煮詰めたような酒が――あると小耳に挟んだことがあるけれど、それに比べれば、薔薇酒などきっとまだ飲みやすい方だろう。飲んだ試しはないけれど。
昼間から営業している酒場は幾つかあるが、広場に張り出すようにして設けられたテラス席があるのはこの店だけで、故に王都の中でも指折りの人気がった。店内には行商人や大工、或いは船乗りと思しき大男たちが屯し、大きな木杯を掲げて酒を浴びるように楽しんでいる。けれど、硝子扉に隔てられたテラスへ一歩踏み出ると、中の喧騒などまるで嘘のように、落ち着いた空気が漂っていた。お茶を嗜む老夫婦、ケーキやタルトをつつく令嬢たち――。
「貴方って、とてもお酒に強いのね」
「そうでもないさ。ゼハディアには、俺なんか比べもんにならないくらいの大酒飲みが、わんさかいるからな」
そう言いながら、イヴァンは小皿に盛られたオリーブを一粒摘み、ひょいと口へ運ぶ。テーブルの上には魚や肉、野菜といった、様々な具材を用いた料理が所狭しと並び、焼き目と香辛料の芳しい匂いをふわりと立ち上らせている。そのどれもに等しく手をつけたイヴァンが最も気に入ったのは、どうやらエルミラード王国の郷土料理である、香草と根菜、それからもつをたっぷり使った煮込み料理だったようで、白磁の器に並々と盛られていたはずのそれは、すっかり平らげられてしまっていた。
「年に一度、誰が一番の酒豪か競う大会もあるくらいだ」
「私には到底無理だわ」
苦笑をこぼしながら肩を竦め、レティシアは葡萄酒で蒸された白身魚の切れ端をフォークで突き刺す。ついでに、付け合せのにんじんも。
「陛下もお酒が強いの?」
「まあ、そうだな。どちらかといえば」
胡椒を利かせた挽肉のパイ包みを皿によそいながら、イヴァンはくすりと笑う。彼の家族がとても仲が良いということは、帝国内だけでなく、数多の国々の王侯貴族にも知れ渡っていることだ。皇帝夫妻は、王族・皇族の中では珍しいおしどり夫婦だとも。
だからだろうか。彼がこんなにも屈託のない、太陽のような人間に育ったのは。木杯に唇をつけるイヴァンを眺めながら、レティシアはふっと、こぼれるように微笑む。“羨ましい”と思うより、“良かった”と思うのはどうしてだろう。“嬉しい”と思うのは、やはり彼のことが誰より大事だからだろうか。
ブランシャール家とはまるで大違いだ。そう胸の内で自嘲をこぼしながら、薔薇酒の微かに残るグラスへ手を伸ばした――その時だった。何処からともなく、どっと湧き上がるような歓声が聞こえ、レティシアははたと動きを止める。同じくそれを耳にしたらしいイヴァンと目が合い、ふたり揃って広場の方へ視線を向けると、華々しく飾り立てられた行列が目についた。鮮やかな色のドレスや、黒い燕尾服を纏った紳士淑女、小さな籐の籠を持った子どもたち、所々にちらちらと見える大小様々な――色もとりどりな――犬。
先頭には正装をした神父が立ち、その後ろには幸せそうに微笑み合う新郎新婦が続いている。豪奢でこそないけれど、それでも艷やかで美しい純白をしたドレスのトレーンが石畳を撫で、レースをふんだんに使ったヴェールが春の穏やかな風にのってふわりと靡く。広場を包む歓声は、彼等が一歩、また一歩と先へ進む度に大きく膨れ上がり、行列を囲む群衆もまたわらわらと広がりを見せている。
どうやら結婚式であるらしい。大広場の傍には数百年前に建立された由緒正しい聖堂があり、この辺り一帯に住む者たちは昔から、そこで式を挙げるのが慣わしだった。誓いを交し合った後に、神父を先頭に列を作り、大通りを軸とした路々を練り歩いて、結婚のお披露目をする――。その一連の催しの、恐らくは最終盤だ。
「へえ。あんなふうに祝うんだな」
「王族の結婚パレードを真似たのが始まりだそうよ。晴れの日に、ひとりでも多くの人に祝ってもらうことで、その後の結婚生活も幸多きものになる――そう信じられているの」
片手に握ったグラスを微かに揺らしながら、でも、と、レティシアは胸の内で密かに思う。もしあのままアルバートと結婚していたとして、多くの人々に見守られながらパレードをしたとしても、果たして幸せになれたのだろうか、と。彼がミリーを愛していようがいまいが。思いの通じ合っていない、ただの政略結婚夫婦が――。
そんなことはなかっただろう。はっきりと否定し、レティシアはグラスに口をつけて、そっと傾ける。喉を滑り落ちてゆく甘ったるい液体が、じんわりと広がる熱が、今は心地良い。
薔薇酒のおかわりをもらおうと、近くを通りかかったウェイターを呼び止めようとしたレティシアは、ふと、視界の片隅でひょこひょこと動き回る何かを見つけた。手早く注文を頼み、再び大広場の方へ目を向ける。そんな彼女の視界に、しかも思っていたよりもすぐ傍に、何故か見知らぬ女の子がひとり立っていた。水色のやわらかなドレスを身に纏い、赤いリボンのついた靴を履いた、齢十にも満たないであろうブロンドの女の子。
「おねえさん、はい、これ!」
たどたどしい口調でそう言いながら、彼女はにぱっとあどけなく笑って、籐籠の中に入れられていた赤い花を一輪、レティシアへ差し出した。棘の落とされた深緑色の細い茎には、同じ色をしたサテンのリボンが結ばれている。
突然のことに呆気に取られ、レティシアはぱちりと目を瞬かす。聖堂の傍を歩いて回る間、集まった人々に子どもたちが配るそれは“祝福の花”と呼ばれ、新郎新婦からの“幸せのお裾分け”とされている。あなたにも幸せが訪れますように、という願いの込められた、赤色の薔薇。
「ありがとう。大切にするわね」
ふっくらとした小さな手から、小ぶりな赤い薔薇を受け取り、レティシアはにっこりと目を細める。その反応に女の子は満足したのか、彼女は愛らしい声を立てながら白い歯を見せて笑うと、今度はイヴァンの方へ顔を向け、何故か得意げに胸を張った。
「おにいさん、しあわせにしてあげてね!」
そう告げる様は、さながら一人前の大人の女性のようで。イヴァンが目を見開くのと、周囲からどっと笑い声が上がるのは、殆ど同時だった。
「子どもは無邪気だな」
母親に呼ばれたのか、行列の方へと走り去ってゆく華奢な背中を見送りながら、イヴァンはテーブルの隅に頬杖をつく。
「貴方もなかなかよ」
受け取ったばかりの赤い薔薇を見つめ、レティシアはふふっ、と小さく笑う。此処へ来るまでの間、いったい何件の店を覗いて回り、幾つの名所を見て回ったことか。こんなに歩いたのはいったいいつぶりだろう、と思うほどの距離を思うままに進み、けれどそれでも飽き足らずに、彼は興味の唆られるままふらふらとあちこちをうろついていた。
好奇心が旺盛なのだ。昔から。母語を流暢に喋るというだけで、初めて顔を合わせたばかりの相手を――よく知りもしないのに――遊びに誘い出そうとするくらいには。
「……イヴァンは、結婚しないの?」
休日とあってか、大通りに隣接する店々は、どこもかしこもたいそうな賑わいを見せている。大きな紙袋を抱えた親子連れ、誰かと待ち合わせをしているらしい男、ベンチに腰掛けて本を読んでいる老嬢、楽しそうに談笑をしている年若いカップル、人集りの間を縫うようにして走り回る子どもたち――。中央に位置する大広間には、生成りの帆を張った露店が幾つも軒を連ね、店主はめいめいに威勢のよい声を上げて、行き交う人々にあれやこれやと物を売っている。
そんな活気溢れる光景を見るともなく眺めながら、レティシアは片手で弄んでいたグラスの縁に、そっと口付けた。先端が窄まった形をしているからか、甘く芳醇な薫りが、空気を含んで、グラスの中にむせ返るほど立ち込めている。
その濃密な薫りとともに、とろりとした液体を喉の奥へ流し込むと、忽ち舌の上に、熟した果実のような仄かな酸味と、蜂蜜のようなまろやかな甘みが、寄り添うようにじんわりと広がった。微かに薔薇の匂いがするのは、まさにこの酒が「薔薇酒」と名付けられている通り、薔薇の砂糖漬けをじっくりと漬け込んで作られたものだからだ。エルミラード王国で、建国当初から何百年にも亘って人々に愛され続けていた、銘酒。
「甘ったるいな」
視界の端で、まさにその酒を呷っていたイヴァンが、木杯をテーブルに置きながら呟く。ゼハディア帝国にはもっと甘い酒が――それこそ、砂糖や蜂蜜や、兎に角甘いものを全部混ぜ合わせて煮詰めたような酒が――あると小耳に挟んだことがあるけれど、それに比べれば、薔薇酒などきっとまだ飲みやすい方だろう。飲んだ試しはないけれど。
昼間から営業している酒場は幾つかあるが、広場に張り出すようにして設けられたテラス席があるのはこの店だけで、故に王都の中でも指折りの人気がった。店内には行商人や大工、或いは船乗りと思しき大男たちが屯し、大きな木杯を掲げて酒を浴びるように楽しんでいる。けれど、硝子扉に隔てられたテラスへ一歩踏み出ると、中の喧騒などまるで嘘のように、落ち着いた空気が漂っていた。お茶を嗜む老夫婦、ケーキやタルトをつつく令嬢たち――。
「貴方って、とてもお酒に強いのね」
「そうでもないさ。ゼハディアには、俺なんか比べもんにならないくらいの大酒飲みが、わんさかいるからな」
そう言いながら、イヴァンは小皿に盛られたオリーブを一粒摘み、ひょいと口へ運ぶ。テーブルの上には魚や肉、野菜といった、様々な具材を用いた料理が所狭しと並び、焼き目と香辛料の芳しい匂いをふわりと立ち上らせている。そのどれもに等しく手をつけたイヴァンが最も気に入ったのは、どうやらエルミラード王国の郷土料理である、香草と根菜、それからもつをたっぷり使った煮込み料理だったようで、白磁の器に並々と盛られていたはずのそれは、すっかり平らげられてしまっていた。
「年に一度、誰が一番の酒豪か競う大会もあるくらいだ」
「私には到底無理だわ」
苦笑をこぼしながら肩を竦め、レティシアは葡萄酒で蒸された白身魚の切れ端をフォークで突き刺す。ついでに、付け合せのにんじんも。
「陛下もお酒が強いの?」
「まあ、そうだな。どちらかといえば」
胡椒を利かせた挽肉のパイ包みを皿によそいながら、イヴァンはくすりと笑う。彼の家族がとても仲が良いということは、帝国内だけでなく、数多の国々の王侯貴族にも知れ渡っていることだ。皇帝夫妻は、王族・皇族の中では珍しいおしどり夫婦だとも。
だからだろうか。彼がこんなにも屈託のない、太陽のような人間に育ったのは。木杯に唇をつけるイヴァンを眺めながら、レティシアはふっと、こぼれるように微笑む。“羨ましい”と思うより、“良かった”と思うのはどうしてだろう。“嬉しい”と思うのは、やはり彼のことが誰より大事だからだろうか。
ブランシャール家とはまるで大違いだ。そう胸の内で自嘲をこぼしながら、薔薇酒の微かに残るグラスへ手を伸ばした――その時だった。何処からともなく、どっと湧き上がるような歓声が聞こえ、レティシアははたと動きを止める。同じくそれを耳にしたらしいイヴァンと目が合い、ふたり揃って広場の方へ視線を向けると、華々しく飾り立てられた行列が目についた。鮮やかな色のドレスや、黒い燕尾服を纏った紳士淑女、小さな籐の籠を持った子どもたち、所々にちらちらと見える大小様々な――色もとりどりな――犬。
先頭には正装をした神父が立ち、その後ろには幸せそうに微笑み合う新郎新婦が続いている。豪奢でこそないけれど、それでも艷やかで美しい純白をしたドレスのトレーンが石畳を撫で、レースをふんだんに使ったヴェールが春の穏やかな風にのってふわりと靡く。広場を包む歓声は、彼等が一歩、また一歩と先へ進む度に大きく膨れ上がり、行列を囲む群衆もまたわらわらと広がりを見せている。
どうやら結婚式であるらしい。大広場の傍には数百年前に建立された由緒正しい聖堂があり、この辺り一帯に住む者たちは昔から、そこで式を挙げるのが慣わしだった。誓いを交し合った後に、神父を先頭に列を作り、大通りを軸とした路々を練り歩いて、結婚のお披露目をする――。その一連の催しの、恐らくは最終盤だ。
「へえ。あんなふうに祝うんだな」
「王族の結婚パレードを真似たのが始まりだそうよ。晴れの日に、ひとりでも多くの人に祝ってもらうことで、その後の結婚生活も幸多きものになる――そう信じられているの」
片手に握ったグラスを微かに揺らしながら、でも、と、レティシアは胸の内で密かに思う。もしあのままアルバートと結婚していたとして、多くの人々に見守られながらパレードをしたとしても、果たして幸せになれたのだろうか、と。彼がミリーを愛していようがいまいが。思いの通じ合っていない、ただの政略結婚夫婦が――。
そんなことはなかっただろう。はっきりと否定し、レティシアはグラスに口をつけて、そっと傾ける。喉を滑り落ちてゆく甘ったるい液体が、じんわりと広がる熱が、今は心地良い。
薔薇酒のおかわりをもらおうと、近くを通りかかったウェイターを呼び止めようとしたレティシアは、ふと、視界の片隅でひょこひょこと動き回る何かを見つけた。手早く注文を頼み、再び大広場の方へ目を向ける。そんな彼女の視界に、しかも思っていたよりもすぐ傍に、何故か見知らぬ女の子がひとり立っていた。水色のやわらかなドレスを身に纏い、赤いリボンのついた靴を履いた、齢十にも満たないであろうブロンドの女の子。
「おねえさん、はい、これ!」
たどたどしい口調でそう言いながら、彼女はにぱっとあどけなく笑って、籐籠の中に入れられていた赤い花を一輪、レティシアへ差し出した。棘の落とされた深緑色の細い茎には、同じ色をしたサテンのリボンが結ばれている。
突然のことに呆気に取られ、レティシアはぱちりと目を瞬かす。聖堂の傍を歩いて回る間、集まった人々に子どもたちが配るそれは“祝福の花”と呼ばれ、新郎新婦からの“幸せのお裾分け”とされている。あなたにも幸せが訪れますように、という願いの込められた、赤色の薔薇。
「ありがとう。大切にするわね」
ふっくらとした小さな手から、小ぶりな赤い薔薇を受け取り、レティシアはにっこりと目を細める。その反応に女の子は満足したのか、彼女は愛らしい声を立てながら白い歯を見せて笑うと、今度はイヴァンの方へ顔を向け、何故か得意げに胸を張った。
「おにいさん、しあわせにしてあげてね!」
そう告げる様は、さながら一人前の大人の女性のようで。イヴァンが目を見開くのと、周囲からどっと笑い声が上がるのは、殆ど同時だった。
「子どもは無邪気だな」
母親に呼ばれたのか、行列の方へと走り去ってゆく華奢な背中を見送りながら、イヴァンはテーブルの隅に頬杖をつく。
「貴方もなかなかよ」
受け取ったばかりの赤い薔薇を見つめ、レティシアはふふっ、と小さく笑う。此処へ来るまでの間、いったい何件の店を覗いて回り、幾つの名所を見て回ったことか。こんなに歩いたのはいったいいつぶりだろう、と思うほどの距離を思うままに進み、けれどそれでも飽き足らずに、彼は興味の唆られるままふらふらとあちこちをうろついていた。
好奇心が旺盛なのだ。昔から。母語を流暢に喋るというだけで、初めて顔を合わせたばかりの相手を――よく知りもしないのに――遊びに誘い出そうとするくらいには。
「……イヴァンは、結婚しないの?」


