開口一番紡がれたその一言に、レティシアは意表を突かれて、目を見開く。彼の声は、怒っているふうでも、哀しんでいるふうでも、憐れんでいるふうでもなかった。勿論、嘲っているわけでもない。ただ、詰めていた息をほっと吐き出すような――そんな安堵が滲む口吻だった。
「良かっ、た……?」
婚約が破棄になってからというもの、様々な人々の、様々な反応を目の当たりにしてきたものだ。憤怒を露わにする者、形ばかりの同情を寄せる者、哀しんだふりをする者、影でひそひそと嘲笑う者、全く気に留めない者――。けれど、イヴァンの見せた態度は、そのどれとも違った。レイモンドとも、マチルダとも、国王とも、大臣たちとも異なる、明らかにレティシア自身を慮っていると分かる反応。
しかし、そうと分かりはするけれど、何故“良かった”になるのかが、レティシアには謎だった。彼女自身ですら、そう思うことは――傷ついているわけでなくとも――なかったというのに。
「なんだ、ショックだったのか?」
「そういうわけではないのだけれど……ただ、意外だったから、少し驚いてしまって……」
しどろもどろになりながら隣へ目を向けると、まるで示し合わせでもしたかのように、ぴたりと、視線が交わった。穏やかに綻んだ目元が、吸い込まれそうなほど澄んだ金色が、いつにも増してあたたかに感じられるのは、気の所為だろうか。たとえば、そう、燦々と降り注ぐ春の陽光のように。
「良かった、の、かしら……」
「良かったに決まってるだろ。君を大事にしない男と結婚せずに済んだんだからな」
彼の言葉は、まるで新しい視点だった。これまで婚約がなくなったことについて、周囲からは失態だの、家門に泥を塗っただのと詰られてきたけれど、レティシア自身、“家の為”にどうだったのかを考えることはあっても、“自分を大事にしない男”との結婚がどうだったのかを考えることは、殆どなかったのだから。
「でも、私たちは政略結婚だったのよ?」
「政略結婚だろうが、相手を蔑ろにして良い理由にはならねえよ」
そう言って、イヴァンはゆったりと背もたれに身体を預けると、雲ひとつなくすっきりと晴れ渡る大空を、僅かばかり目を細めながら仰いだ。その拍子に、滑らかな銀色をした前髪がさらりと額から流れ落ち、彼の甘さを帯びた目元を一層際立たせる。
綺麗だな、と思った。エキゾチックなその横顔が。蜜を含んだ芳香のような、妖艶で蠱惑的な独特の美しさ。
「政略結婚に、愛や情なんて必要なのかしら。少なくとも私は、そう教えられはしなかったわ」
そもそもレイモンド自身が、結婚にそれらを求めるような男ではなかった。レティシアの実母であるエレノアが病に罹ると、彼はすぐに彼女を切り捨て、莫大な財力と広い人脈を背景に爵位を得た一族の女と再婚するような性分なのだから。
無論、レイモンドの狙いはマチルダの実家が蓄えた巨額の富でしかなく、エレノアの忘れ形見であるレティシアを手放さなかったのも、偏に“利用できる”と思ったからに過ぎない。当時から、公爵家にも、他の名門貴族にも、娘はひとりも産まれていなかったから。随分と早い段階から、彼は“王太子妃”の座を狙っていたのだろう。
「まあ、人それぞれなんだろうが」
そこで言葉を区切り、イヴァンはゆっくりとひとつ瞬いた。
「少なくとも俺は、愛される結婚の方が、幸せだと思うけどな」
それは、彼にしては珍しい、どこかしんみりとした声だった。レティシアは思わず息を呑み、それから胸の中で、イヴァンの紡いだ言葉をひとつひとつなぞるように反芻する。愛される結婚、幸せ――。いまいちそれらにぴんとこないのは、そういう結婚というものを、実際に知らないからだろうか。童話やロマンス小説にはよくあることだけれど、現実の世界では起こり得ないことだと心の何処かでは思っていた。仮にあったとしても、それは自分とは縁遠いものだ、とも。
愛される結婚、幸せな結婚――。もしそれができるのなら、どんなに良いだろう。イヴァンの横顔からそっと視線を逸し、彼と同じ様に空を仰ぎ見ながら、レティシアは静かに自嘲をこぼす。縁遠いものだ、と、そう思っていたのは、もしかしたら遠い昔に、諦念を抱いてしまっていたからなのかもしれない。どんなに望んでも、傍にいたいと思う人と共にいることは、決して叶わないのだから――。
「よしっ」
不意に、イヴァンが勢いよくベンチから腰を上げた。驚いて目を移すと、まるで計ったように、真っ直ぐに向けられた視線とぶつかる。あのしんみりとした声など、聞き間違いだったのではないだろうかと思えるほど、彼の顔には明るい笑みが浮かんでいた。明るく、屈託のない、何故か楽しげな笑顔。
「遊びに行こうぜ、レティシア。こういう時は、気分転換するのが一番だ」
突拍子もない誘いに、レティシアは虚を突かれて目を見開く。
「遊びに、って……いったい何処へ」
唖然としながら問いかけると、イヴァンは悪戯っぽく首を傾けた。
「何処へでも。ちょうどこの国の市街地を観光したいと思ってたんだ」
そう言いながら差し出された右手と、にこやかに微笑む彼のかんばせを交互に見遣りながら、レティシアはふと、初めてふたりで遊んだ時のことを思い出す。こっそりと部屋を抜け出して、広々とした裏庭で思う存分駆け回り、花を愛で、当時アルヴィーン家で飼われていた大型犬とじゃれあった、懐かしいひととき――。
あの時、勉強に――というより、レイモンドの言いつけに――雁字搦めにされていたレティシアを、自由溢れる陽のもとへ連れ出した幼きイヴァンもまた、全く同じことを言っていた。遊びに行こうぜ、と。気分転換するのが一番だ、と。
変わらない、と思った。彼はあの頃から変わらない、と。それが、たまらなく嬉しかった。つい、くすくすと笑い声がこぼれてしまうくらい。
「ええ、そうね。気分転換したいわ。遊びに行きましょう、イヴァン」
差し出された手に、そっと右手を重ねながら、レティシアは無性に泣きたくなった。理由は分からない。けれど、息が詰まりそうになるほど胸がきゅっと締め付けられて、奥深くに隠したものが、その存在を知らしめるかのように、じくじくと痛んでしかたがなかった。
きっとこれが、最後になるだろう――。
一歩先をゆくイヴァンの、逞しく成長した大きな背中を切なく見つめながら、レティシアは静かに唇を噛み締める。今までは“未来の王太子妃”という肩書があったからこそ、彼と顔を合わすことも、会話を交えることも出来ていた。けれど、もうその資格は、何処にもない。アルバートの婚約者でなくなった以上、王族に連なる立場は失われ、レティシアはただの侯爵家の娘でしかなくなるのだから。
「美味いもんが食いたい」
「王城へ行けば食べられるわよ」
「あそこの料理は、どうも味気ないんだよな」
「まあ、此処の料理とは違って、貴方の国の料理は、香辛料がふんだんに使われているものね」
離す頃合いを見失い、握られたままだった手をさり気なく解いて、レティシアは小さく微笑んだ。
「でも、その前にデミル卿と合流した方が良いわ。今頃貴方を探し回っているでしょうから」
そう告げると、ひと呼吸おいて、イヴァンが肩越しに振り返った。何とも不服そうな顔をして。
「なんだ、俺とふたりきりは嫌だってか」
まるで子どものように拗ねた物言いに、レティシアは一瞬呆気に取られ、それからふっと、堪えきれずに吹き出した。
「まさか。そんなわけないでしょう」
本当は、ふたりでいられれば、それが良いのだけれど。そんな本音はもちろん呑み込んで、レティシアは悪戯っぽい笑みを繕う。背の高い彼を見上げているせいで、金色の瞳が、一層眩しく煌めいて見える。
「貴方の身に何かあってはいけないから……ただそれだけよ」
すっと逸らした彼の顔を追うように、レティシアはイヴァンの隣に並び、下から覗き込むように表情をうかがう。その瞬間、彼もまた堪えきれずというふうに、吐息を漏らすようにして笑った。心底愉快そうに、くつくつと。
「冗談だ」
そう言いながら、流れるように向けられた視線に滲む、甘やかなぬくもり。太陽のように溌剌と明るく笑うのに、でも、彼の眼差しはいつでもやさしく澄んでいて。その笑顔に、瞳に、幾度救われてきただろう。遠く離れていても、思い出の中のそれが、いつも励ましてくれていた。
狡いな、と思う。そんな目で見つめられたら、離れ難くなってしまうから――。
「良かっ、た……?」
婚約が破棄になってからというもの、様々な人々の、様々な反応を目の当たりにしてきたものだ。憤怒を露わにする者、形ばかりの同情を寄せる者、哀しんだふりをする者、影でひそひそと嘲笑う者、全く気に留めない者――。けれど、イヴァンの見せた態度は、そのどれとも違った。レイモンドとも、マチルダとも、国王とも、大臣たちとも異なる、明らかにレティシア自身を慮っていると分かる反応。
しかし、そうと分かりはするけれど、何故“良かった”になるのかが、レティシアには謎だった。彼女自身ですら、そう思うことは――傷ついているわけでなくとも――なかったというのに。
「なんだ、ショックだったのか?」
「そういうわけではないのだけれど……ただ、意外だったから、少し驚いてしまって……」
しどろもどろになりながら隣へ目を向けると、まるで示し合わせでもしたかのように、ぴたりと、視線が交わった。穏やかに綻んだ目元が、吸い込まれそうなほど澄んだ金色が、いつにも増してあたたかに感じられるのは、気の所為だろうか。たとえば、そう、燦々と降り注ぐ春の陽光のように。
「良かった、の、かしら……」
「良かったに決まってるだろ。君を大事にしない男と結婚せずに済んだんだからな」
彼の言葉は、まるで新しい視点だった。これまで婚約がなくなったことについて、周囲からは失態だの、家門に泥を塗っただのと詰られてきたけれど、レティシア自身、“家の為”にどうだったのかを考えることはあっても、“自分を大事にしない男”との結婚がどうだったのかを考えることは、殆どなかったのだから。
「でも、私たちは政略結婚だったのよ?」
「政略結婚だろうが、相手を蔑ろにして良い理由にはならねえよ」
そう言って、イヴァンはゆったりと背もたれに身体を預けると、雲ひとつなくすっきりと晴れ渡る大空を、僅かばかり目を細めながら仰いだ。その拍子に、滑らかな銀色をした前髪がさらりと額から流れ落ち、彼の甘さを帯びた目元を一層際立たせる。
綺麗だな、と思った。エキゾチックなその横顔が。蜜を含んだ芳香のような、妖艶で蠱惑的な独特の美しさ。
「政略結婚に、愛や情なんて必要なのかしら。少なくとも私は、そう教えられはしなかったわ」
そもそもレイモンド自身が、結婚にそれらを求めるような男ではなかった。レティシアの実母であるエレノアが病に罹ると、彼はすぐに彼女を切り捨て、莫大な財力と広い人脈を背景に爵位を得た一族の女と再婚するような性分なのだから。
無論、レイモンドの狙いはマチルダの実家が蓄えた巨額の富でしかなく、エレノアの忘れ形見であるレティシアを手放さなかったのも、偏に“利用できる”と思ったからに過ぎない。当時から、公爵家にも、他の名門貴族にも、娘はひとりも産まれていなかったから。随分と早い段階から、彼は“王太子妃”の座を狙っていたのだろう。
「まあ、人それぞれなんだろうが」
そこで言葉を区切り、イヴァンはゆっくりとひとつ瞬いた。
「少なくとも俺は、愛される結婚の方が、幸せだと思うけどな」
それは、彼にしては珍しい、どこかしんみりとした声だった。レティシアは思わず息を呑み、それから胸の中で、イヴァンの紡いだ言葉をひとつひとつなぞるように反芻する。愛される結婚、幸せ――。いまいちそれらにぴんとこないのは、そういう結婚というものを、実際に知らないからだろうか。童話やロマンス小説にはよくあることだけれど、現実の世界では起こり得ないことだと心の何処かでは思っていた。仮にあったとしても、それは自分とは縁遠いものだ、とも。
愛される結婚、幸せな結婚――。もしそれができるのなら、どんなに良いだろう。イヴァンの横顔からそっと視線を逸し、彼と同じ様に空を仰ぎ見ながら、レティシアは静かに自嘲をこぼす。縁遠いものだ、と、そう思っていたのは、もしかしたら遠い昔に、諦念を抱いてしまっていたからなのかもしれない。どんなに望んでも、傍にいたいと思う人と共にいることは、決して叶わないのだから――。
「よしっ」
不意に、イヴァンが勢いよくベンチから腰を上げた。驚いて目を移すと、まるで計ったように、真っ直ぐに向けられた視線とぶつかる。あのしんみりとした声など、聞き間違いだったのではないだろうかと思えるほど、彼の顔には明るい笑みが浮かんでいた。明るく、屈託のない、何故か楽しげな笑顔。
「遊びに行こうぜ、レティシア。こういう時は、気分転換するのが一番だ」
突拍子もない誘いに、レティシアは虚を突かれて目を見開く。
「遊びに、って……いったい何処へ」
唖然としながら問いかけると、イヴァンは悪戯っぽく首を傾けた。
「何処へでも。ちょうどこの国の市街地を観光したいと思ってたんだ」
そう言いながら差し出された右手と、にこやかに微笑む彼のかんばせを交互に見遣りながら、レティシアはふと、初めてふたりで遊んだ時のことを思い出す。こっそりと部屋を抜け出して、広々とした裏庭で思う存分駆け回り、花を愛で、当時アルヴィーン家で飼われていた大型犬とじゃれあった、懐かしいひととき――。
あの時、勉強に――というより、レイモンドの言いつけに――雁字搦めにされていたレティシアを、自由溢れる陽のもとへ連れ出した幼きイヴァンもまた、全く同じことを言っていた。遊びに行こうぜ、と。気分転換するのが一番だ、と。
変わらない、と思った。彼はあの頃から変わらない、と。それが、たまらなく嬉しかった。つい、くすくすと笑い声がこぼれてしまうくらい。
「ええ、そうね。気分転換したいわ。遊びに行きましょう、イヴァン」
差し出された手に、そっと右手を重ねながら、レティシアは無性に泣きたくなった。理由は分からない。けれど、息が詰まりそうになるほど胸がきゅっと締め付けられて、奥深くに隠したものが、その存在を知らしめるかのように、じくじくと痛んでしかたがなかった。
きっとこれが、最後になるだろう――。
一歩先をゆくイヴァンの、逞しく成長した大きな背中を切なく見つめながら、レティシアは静かに唇を噛み締める。今までは“未来の王太子妃”という肩書があったからこそ、彼と顔を合わすことも、会話を交えることも出来ていた。けれど、もうその資格は、何処にもない。アルバートの婚約者でなくなった以上、王族に連なる立場は失われ、レティシアはただの侯爵家の娘でしかなくなるのだから。
「美味いもんが食いたい」
「王城へ行けば食べられるわよ」
「あそこの料理は、どうも味気ないんだよな」
「まあ、此処の料理とは違って、貴方の国の料理は、香辛料がふんだんに使われているものね」
離す頃合いを見失い、握られたままだった手をさり気なく解いて、レティシアは小さく微笑んだ。
「でも、その前にデミル卿と合流した方が良いわ。今頃貴方を探し回っているでしょうから」
そう告げると、ひと呼吸おいて、イヴァンが肩越しに振り返った。何とも不服そうな顔をして。
「なんだ、俺とふたりきりは嫌だってか」
まるで子どものように拗ねた物言いに、レティシアは一瞬呆気に取られ、それからふっと、堪えきれずに吹き出した。
「まさか。そんなわけないでしょう」
本当は、ふたりでいられれば、それが良いのだけれど。そんな本音はもちろん呑み込んで、レティシアは悪戯っぽい笑みを繕う。背の高い彼を見上げているせいで、金色の瞳が、一層眩しく煌めいて見える。
「貴方の身に何かあってはいけないから……ただそれだけよ」
すっと逸らした彼の顔を追うように、レティシアはイヴァンの隣に並び、下から覗き込むように表情をうかがう。その瞬間、彼もまた堪えきれずというふうに、吐息を漏らすようにして笑った。心底愉快そうに、くつくつと。
「冗談だ」
そう言いながら、流れるように向けられた視線に滲む、甘やかなぬくもり。太陽のように溌剌と明るく笑うのに、でも、彼の眼差しはいつでもやさしく澄んでいて。その笑顔に、瞳に、幾度救われてきただろう。遠く離れていても、思い出の中のそれが、いつも励ましてくれていた。
狡いな、と思う。そんな目で見つめられたら、離れ難くなってしまうから――。


