それは、あまりにも聞き馴染みのありすぎる声だった。
宙空を見つめたまま、レティシアはぱちりと目を瞬かす。ぱちり、ぱちり、と。ゆっくり、そして大きく。
突然聞こえてきた声は、暫くの間、レティシアの耳の中でくるくると回っていた。幾度も鼓膜に触れては懐かしい音を奏で、まるで胸の奥を誰かにきつく握り込まれているかのように、息が詰まる。理解はとても追いつきそうになかった。驚きすぎて、というのは、もちろんあるけれど。しかしそれ以上に、現実に戻ることで、鼓膜をつたって身体中に響き渡る声が消えてしまいそうで、嫌だった。
恋しく思うあまり、幻聴を作り出してしまったのだろうか。此処で耳にするはずのない声を。どんなに望んでも、聞くことの叶わない声を。人間が最初に忘れるのは、“声”だという。だから、幻聴でなければ、こんなにもはっきりとしているはずがないのだ。
「無視されんのは、さすがに傷付くんだが」
なんて生々しいのだろう。まるですぐ傍にいるような、そんな錯覚につい陥ってしまいそうになる。そんなはずはないのに。だって彼は、ゼハディア帝国の――。
どうして、という問いが、ふっと頭を擡げる。それはやがて、大きな衝動となってレティシアの身体を突き動かし、戸惑いの滲んだ顔のまま、声のした方へ恐る恐る振り返る。そんな彼女の視界で、薄茶色の布が、穏やかな春の風にのってはためいた。陽光に照らされ、淡い光を帯びた銀色の髪の毛とともに。あの、陽だまりのような匂いを連れて。
「おいおい、まるで幽霊でも見ちまったような顔してんな」
目が合った瞬間、レティシアは息を呑む。心臓が、胸を突き破ってきそうな勢いで、どくり、と一際強く跳ね上がる。何故、と、言葉が喉元まで迫り上がってくるけれど、そこから先へはどうしても進まない。少しも進んでくれない。そのくせ、次から次へと言いたいことが込み上げてくるせいで、積み重なったそれらは凝り固まって、更に喉を堰き止め、呼吸もままならなくなる。
それくらい、驚いていた。驚かずにいられるはずがなかった。驚くなという方が、土台無理な話で。何せ彼は、この国の人間でもなければ、こんな場所にいて良い人間でもないのだから――。
「どうして、貴方が此処に……」
あんなにもつっかえていたはずの声が思わずまろびでてしまい、レティシアは慌てて言葉を引っ込める。飛び上がるようにベンチから立ち上がり、スカートの端を摘んで膝を折ると、ふたりの間を、葉擦れの音を含んだやわらかな風がやさしく吹き抜けた。
すっかり身に染み付いた動きで一礼するレティシアの、ひとつに結い上げた髪がふわりと靡く。それと同じ様に、彼の耳につけられた金色のピアスが、陽光を弾きながらきらりと揺れる。
「お久しぶりでございます、イヴァン・アルヴィーン殿下。このような形で再びお目にかかれますこと、大変光栄に――」
「かたっ苦しい挨拶はやめてくれ。君にそうされるのは嫌なんだ」
壁を作られたような気がするから、と言って、彼――イヴァンは小さく肩を竦めながら苦笑をこぼした。その顔は、記憶の中のそれと、寸分も違わない。くっきりとした睫毛に囲まれた切れ長の目も、すっと通った高い鼻筋も、弧を描く形の良い唇も、何もかも。
一年も経っているというのに――。歩み寄ってくるイヴァンの、どんな黄金や宝石よりも美しい金色の瞳を見つめながら、レティシアは半ば呆れつつ思う。一年も経っているというのに、記憶は――そこに焼き付いた彼の顔は――少しも薄れてはいなかったのか、と。それだけの時間が経てば、普通であればどこかしらが欠けたり、曖昧になったりするものだけれど。
「……護衛は連れていないの?」
「置いてきた」
なんともあっけらかんとした口調に、レティシアは溜息混じりに苦く笑う。彼の護衛の名は、確かケレムといっただろうか。今頃血相を変えて街中を探し回っているだろう彼を想像し、なんとも不憫だ、とつい同情を寄せてしまう。当の本人――犯人、というべきか――はというと、全く気に留めたふうもなく、ベンチの片側にどさりと腰かけ、呑気に空を仰いでいるというのに。
それにしても――。イヴァンに促され隣に腰を下ろしながら、レティシアはちらりと、横目で彼のかんばせを盗み見る。一体、どうして彼は此処にいるのだろう。王都とはいえど、ここは城壁に近しい下町だ。王城でもなければ、貴族たちが住まう上流区でもない。
しかし一番の疑問は、イヴァンが“この国にいる”ということだった。場所がどうこうではなく、そもそもそれ以前に、彼がエルミラード王国の地を踏んで、風を浴び、民のひとりに紛れ込んでいるというのが、甚だ信じ難かった。本人を目の前にしていてもなお。幻覚を見ているのではないか、と、幻聴を聞いているのではないか、と、未だに思ってしまうほど。あまりにも非現実的すぎて。
何故なら彼は、あの大帝国・ゼハディアの未来を担う、たったひとりの皇太子なのだから。こんなところに――他国の、しかも市井に――、護衛も連れずにいるような立場の人間ではない。
それに――。
「よく気付かれなかったわね」
褐色の肌は、エルミラード王国では珍しい故に、ただでさえ目を引く。その上、イヴァンの身につけているものは、あくまでゼハディア帝国の“庶民の装い”であって、この国のそれではない。襟口の大きく開いた濃紺のトップスも、黄土色の腰帯も、ゆったりとした白いズボンも。ふんだんにあしらわれた金の刺繍と、彼の纏う洗練された気品は、さすがに地位の高さを隠せてはおらず、なおのこと視線を集めそうだと思った。いくら平民が、彼の顔を知らないとはいっても。
「存外目立たないもんだぜ。こそこそしてるより、堂々としてる方が、より馴染む」
どんなところでも、と付け加え、イヴァンはにっこりと、爽やかな笑みを浮かべる。昔から変わらない、見る者全ての心をぱっと明るく照らすような、陽気な笑顔。あどけなさこそないけれど、大人びた今でも色褪せないその変わらなさに、レティシアの鼓動が甘く跳ねる。
同じ立場であっても、アルバートは決してこんなふうには笑わなかった。宮廷に跋扈する、どんな貴族たちも。
「視察で来ていたの?」
「んー? いや、まあ、なんつーか、偶然近くを通りかかったから立ち寄っただけだ」
そう言って、イヴァンはぐっと伸びをしながら大きな欠伸をこぼす。偶然近くを通りかかったということは、何処かの国へ訪れたその帰路の途中だったのだろうか。いつだったか、皇太子として周辺諸国の王族と親交を深める為に、各国を歴訪して回る予定だ、と、手紙に綴られていたことを思い出す。去年顔を合わせたのも、まさにそれが理由だった。
そんなことを考えながら、久方ぶりの横顔をじっと見つめる。初めは控え目だったそれが、知らぬ間に食い入るような眼差しになってしまっていたせいか、視線に気付いたらしいイヴァンが、ふと、振り向いた。真っ直ぐに注がれる、眩いほどに澄んだ金色の瞳。突然のことに狼狽え、レティシアは慌てて目を背ける。
駄目だな、と思った。彼の傍にいると、どうしても――。
「ところで、君は何で此処にいるんだ? てっきり王城にいると思ってたんだが」
皇太子であるイヴァンが此処に居るのを訝るのと同じ様に、彼もまた、レティシアが此処に居ることを疑問に思うのは至極当然だった。イヴァンの中では今もまだ、レティシアはアルバートの“婚約者”のままなのだから。その上彼は、レティシアが、余程のことでもない限りこっそり王城を抜け出すような性格ではないと、よく分かってもいる。だからこそ、尚更不可思議に思っているだろう。
「私、実家へ戻ったの」
「は?」
「婚約を解消したのよ。アルバート殿下と」
自嘲混じりにそう返すと、隣から、息を呑む気配が伝わってきた。イヴァンが驚くのも無理はない。彼と出会った時には既に“未来の王太子妃”という肩書を背負っていたし、それだけの長い年月を、アルバートの“婚約者”として生きてきたのだから。それらの立場を持たないレティシアを、イヴァンは知らない。
「一体何があったんだ。去年会った時には、そんな話、出てなかっただろ」
「つい先日決まったばかりなの。アルバート殿下は、聖女ミリー様とのご結婚を選ばれたわ」
それからレティシアは、婚約を破棄するに至るまでの経緯を、ゆっくりと語った。舞踏会の夜に偶然目撃してしまった逢瀬の現場、重なっていたふたりの唇、ミリーへ向けられた愛の言葉――。余計な感情は少しも入れず、ただ起きた事実だけを、淡々と。
イヴァンは何も言わなかった。相槌を打つことも、問いを挟むこともなく。けれどそれは決して、レティシアを急き立てるような、重苦しい無言というわけではなかった。まるでレティシアの心にそっと寄り添うような、やさしい静けさ。それが彼なりの気遣いだと分かるからこそ、有り難い、と思う。どうしてこんなにも、その時に無意識に欲しているものが、彼にはちゃんと伝わるのだろう、とも。
でも、そのせいで、思わず感情が口を衝いて出てしまいそうになり、レティシアは幾度か言い淀み、言葉を探した。傷ついているのか、怒っているのか、哀しんでいるのか、それともそのどれでもないのか。未だあの事実をどう受け止め、どう感じているのか自分自身でも掴み倦ねているというのに。そんな状態で、思うままに感情を吐露するのは危ないだろう。彼の前では、みっともない姿を晒したくはない。
全てを語り終えてもなお、イヴァンは口を開こうとはしなかった。返答に困っているだけなのか、それとも、何かを考え込んでいるだけなのかは、分からない。或いは、言葉がとまったことに気付いていないだけなのかも。けれど、その沈黙は決して嫌なものではなかった。
艷やかな芝生を渡る風が、ふわりと、やさしく頬を撫でてゆく。生まれたてのような薄緑色の葉がかさかさと乾いた――でも、どことなく潤みも含んだような――音を立て、足元に落ちる木漏れ日がちらちらと形を変える。
黙っていれば、ひとりでいる時と何も変わらないはずなのに。自然の奏でる音色に、ただ包まれているだけなのに。しかし、隣に彼がいるというだけで、先程までの世界とは何もかもが違うように見えた。寂れた教会が、手つかずの木立が、一層鮮やかに、漸く色を得たような輝かしさと華やかさに彩られているような気がする。
どれくらいそうしていただろう。数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。時間の感覚が曖昧になるほど、短くも長くもある静寂の末、やがてイヴァンがゆっくりと唇を開いた。
「――良かったな」
宙空を見つめたまま、レティシアはぱちりと目を瞬かす。ぱちり、ぱちり、と。ゆっくり、そして大きく。
突然聞こえてきた声は、暫くの間、レティシアの耳の中でくるくると回っていた。幾度も鼓膜に触れては懐かしい音を奏で、まるで胸の奥を誰かにきつく握り込まれているかのように、息が詰まる。理解はとても追いつきそうになかった。驚きすぎて、というのは、もちろんあるけれど。しかしそれ以上に、現実に戻ることで、鼓膜をつたって身体中に響き渡る声が消えてしまいそうで、嫌だった。
恋しく思うあまり、幻聴を作り出してしまったのだろうか。此処で耳にするはずのない声を。どんなに望んでも、聞くことの叶わない声を。人間が最初に忘れるのは、“声”だという。だから、幻聴でなければ、こんなにもはっきりとしているはずがないのだ。
「無視されんのは、さすがに傷付くんだが」
なんて生々しいのだろう。まるですぐ傍にいるような、そんな錯覚につい陥ってしまいそうになる。そんなはずはないのに。だって彼は、ゼハディア帝国の――。
どうして、という問いが、ふっと頭を擡げる。それはやがて、大きな衝動となってレティシアの身体を突き動かし、戸惑いの滲んだ顔のまま、声のした方へ恐る恐る振り返る。そんな彼女の視界で、薄茶色の布が、穏やかな春の風にのってはためいた。陽光に照らされ、淡い光を帯びた銀色の髪の毛とともに。あの、陽だまりのような匂いを連れて。
「おいおい、まるで幽霊でも見ちまったような顔してんな」
目が合った瞬間、レティシアは息を呑む。心臓が、胸を突き破ってきそうな勢いで、どくり、と一際強く跳ね上がる。何故、と、言葉が喉元まで迫り上がってくるけれど、そこから先へはどうしても進まない。少しも進んでくれない。そのくせ、次から次へと言いたいことが込み上げてくるせいで、積み重なったそれらは凝り固まって、更に喉を堰き止め、呼吸もままならなくなる。
それくらい、驚いていた。驚かずにいられるはずがなかった。驚くなという方が、土台無理な話で。何せ彼は、この国の人間でもなければ、こんな場所にいて良い人間でもないのだから――。
「どうして、貴方が此処に……」
あんなにもつっかえていたはずの声が思わずまろびでてしまい、レティシアは慌てて言葉を引っ込める。飛び上がるようにベンチから立ち上がり、スカートの端を摘んで膝を折ると、ふたりの間を、葉擦れの音を含んだやわらかな風がやさしく吹き抜けた。
すっかり身に染み付いた動きで一礼するレティシアの、ひとつに結い上げた髪がふわりと靡く。それと同じ様に、彼の耳につけられた金色のピアスが、陽光を弾きながらきらりと揺れる。
「お久しぶりでございます、イヴァン・アルヴィーン殿下。このような形で再びお目にかかれますこと、大変光栄に――」
「かたっ苦しい挨拶はやめてくれ。君にそうされるのは嫌なんだ」
壁を作られたような気がするから、と言って、彼――イヴァンは小さく肩を竦めながら苦笑をこぼした。その顔は、記憶の中のそれと、寸分も違わない。くっきりとした睫毛に囲まれた切れ長の目も、すっと通った高い鼻筋も、弧を描く形の良い唇も、何もかも。
一年も経っているというのに――。歩み寄ってくるイヴァンの、どんな黄金や宝石よりも美しい金色の瞳を見つめながら、レティシアは半ば呆れつつ思う。一年も経っているというのに、記憶は――そこに焼き付いた彼の顔は――少しも薄れてはいなかったのか、と。それだけの時間が経てば、普通であればどこかしらが欠けたり、曖昧になったりするものだけれど。
「……護衛は連れていないの?」
「置いてきた」
なんともあっけらかんとした口調に、レティシアは溜息混じりに苦く笑う。彼の護衛の名は、確かケレムといっただろうか。今頃血相を変えて街中を探し回っているだろう彼を想像し、なんとも不憫だ、とつい同情を寄せてしまう。当の本人――犯人、というべきか――はというと、全く気に留めたふうもなく、ベンチの片側にどさりと腰かけ、呑気に空を仰いでいるというのに。
それにしても――。イヴァンに促され隣に腰を下ろしながら、レティシアはちらりと、横目で彼のかんばせを盗み見る。一体、どうして彼は此処にいるのだろう。王都とはいえど、ここは城壁に近しい下町だ。王城でもなければ、貴族たちが住まう上流区でもない。
しかし一番の疑問は、イヴァンが“この国にいる”ということだった。場所がどうこうではなく、そもそもそれ以前に、彼がエルミラード王国の地を踏んで、風を浴び、民のひとりに紛れ込んでいるというのが、甚だ信じ難かった。本人を目の前にしていてもなお。幻覚を見ているのではないか、と、幻聴を聞いているのではないか、と、未だに思ってしまうほど。あまりにも非現実的すぎて。
何故なら彼は、あの大帝国・ゼハディアの未来を担う、たったひとりの皇太子なのだから。こんなところに――他国の、しかも市井に――、護衛も連れずにいるような立場の人間ではない。
それに――。
「よく気付かれなかったわね」
褐色の肌は、エルミラード王国では珍しい故に、ただでさえ目を引く。その上、イヴァンの身につけているものは、あくまでゼハディア帝国の“庶民の装い”であって、この国のそれではない。襟口の大きく開いた濃紺のトップスも、黄土色の腰帯も、ゆったりとした白いズボンも。ふんだんにあしらわれた金の刺繍と、彼の纏う洗練された気品は、さすがに地位の高さを隠せてはおらず、なおのこと視線を集めそうだと思った。いくら平民が、彼の顔を知らないとはいっても。
「存外目立たないもんだぜ。こそこそしてるより、堂々としてる方が、より馴染む」
どんなところでも、と付け加え、イヴァンはにっこりと、爽やかな笑みを浮かべる。昔から変わらない、見る者全ての心をぱっと明るく照らすような、陽気な笑顔。あどけなさこそないけれど、大人びた今でも色褪せないその変わらなさに、レティシアの鼓動が甘く跳ねる。
同じ立場であっても、アルバートは決してこんなふうには笑わなかった。宮廷に跋扈する、どんな貴族たちも。
「視察で来ていたの?」
「んー? いや、まあ、なんつーか、偶然近くを通りかかったから立ち寄っただけだ」
そう言って、イヴァンはぐっと伸びをしながら大きな欠伸をこぼす。偶然近くを通りかかったということは、何処かの国へ訪れたその帰路の途中だったのだろうか。いつだったか、皇太子として周辺諸国の王族と親交を深める為に、各国を歴訪して回る予定だ、と、手紙に綴られていたことを思い出す。去年顔を合わせたのも、まさにそれが理由だった。
そんなことを考えながら、久方ぶりの横顔をじっと見つめる。初めは控え目だったそれが、知らぬ間に食い入るような眼差しになってしまっていたせいか、視線に気付いたらしいイヴァンが、ふと、振り向いた。真っ直ぐに注がれる、眩いほどに澄んだ金色の瞳。突然のことに狼狽え、レティシアは慌てて目を背ける。
駄目だな、と思った。彼の傍にいると、どうしても――。
「ところで、君は何で此処にいるんだ? てっきり王城にいると思ってたんだが」
皇太子であるイヴァンが此処に居るのを訝るのと同じ様に、彼もまた、レティシアが此処に居ることを疑問に思うのは至極当然だった。イヴァンの中では今もまだ、レティシアはアルバートの“婚約者”のままなのだから。その上彼は、レティシアが、余程のことでもない限りこっそり王城を抜け出すような性格ではないと、よく分かってもいる。だからこそ、尚更不可思議に思っているだろう。
「私、実家へ戻ったの」
「は?」
「婚約を解消したのよ。アルバート殿下と」
自嘲混じりにそう返すと、隣から、息を呑む気配が伝わってきた。イヴァンが驚くのも無理はない。彼と出会った時には既に“未来の王太子妃”という肩書を背負っていたし、それだけの長い年月を、アルバートの“婚約者”として生きてきたのだから。それらの立場を持たないレティシアを、イヴァンは知らない。
「一体何があったんだ。去年会った時には、そんな話、出てなかっただろ」
「つい先日決まったばかりなの。アルバート殿下は、聖女ミリー様とのご結婚を選ばれたわ」
それからレティシアは、婚約を破棄するに至るまでの経緯を、ゆっくりと語った。舞踏会の夜に偶然目撃してしまった逢瀬の現場、重なっていたふたりの唇、ミリーへ向けられた愛の言葉――。余計な感情は少しも入れず、ただ起きた事実だけを、淡々と。
イヴァンは何も言わなかった。相槌を打つことも、問いを挟むこともなく。けれどそれは決して、レティシアを急き立てるような、重苦しい無言というわけではなかった。まるでレティシアの心にそっと寄り添うような、やさしい静けさ。それが彼なりの気遣いだと分かるからこそ、有り難い、と思う。どうしてこんなにも、その時に無意識に欲しているものが、彼にはちゃんと伝わるのだろう、とも。
でも、そのせいで、思わず感情が口を衝いて出てしまいそうになり、レティシアは幾度か言い淀み、言葉を探した。傷ついているのか、怒っているのか、哀しんでいるのか、それともそのどれでもないのか。未だあの事実をどう受け止め、どう感じているのか自分自身でも掴み倦ねているというのに。そんな状態で、思うままに感情を吐露するのは危ないだろう。彼の前では、みっともない姿を晒したくはない。
全てを語り終えてもなお、イヴァンは口を開こうとはしなかった。返答に困っているだけなのか、それとも、何かを考え込んでいるだけなのかは、分からない。或いは、言葉がとまったことに気付いていないだけなのかも。けれど、その沈黙は決して嫌なものではなかった。
艷やかな芝生を渡る風が、ふわりと、やさしく頬を撫でてゆく。生まれたてのような薄緑色の葉がかさかさと乾いた――でも、どことなく潤みも含んだような――音を立て、足元に落ちる木漏れ日がちらちらと形を変える。
黙っていれば、ひとりでいる時と何も変わらないはずなのに。自然の奏でる音色に、ただ包まれているだけなのに。しかし、隣に彼がいるというだけで、先程までの世界とは何もかもが違うように見えた。寂れた教会が、手つかずの木立が、一層鮮やかに、漸く色を得たような輝かしさと華やかさに彩られているような気がする。
どれくらいそうしていただろう。数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。時間の感覚が曖昧になるほど、短くも長くもある静寂の末、やがてイヴァンがゆっくりと唇を開いた。
「――良かったな」


