あっ、と思った時にはもう、既に手遅れだった。
薄い瞼の上を、冷たい何かがすっと滑り落ちてゆく。咄嗟に瞑ったはずなのに、薄闇の中にはくっきりと、憤怒に歪んだ形相と、血管が浮き出るほどに力強く握られたグラスが焼き付いていて。水をかけられたのだ、と頭が理解するのと、レティシアが徐に瞼を持ち上げるのは、殆ど同時だった。
「この役立たずがっ!」
こうなることは分かっていた、と、怒りで紅潮した父の顔を見つめながら、レティシアは胸の内で静かに溜息を吐く。一族の繁栄の為、公爵家に娘がいないのを良いことに、多額の賄賂と権謀術数で王太子妃の座を掴んだというのに、結婚を目前にしてそれら全てが水の泡となったのでは、父・レイモンドが腹を立てるのも無理はない。
――お前の居場所はもう此処にはない。
そう言われ、王城から追い出されたレティシアが邸へ戻って間もない頃はまだ、「たいしたことはない」と高を括っていたようであるけれど。アルバートの意思が思っていたよりも頑なだと知るや否や、レイモンドは血相を変えた。まさか今になって約束を反故にされるなどとは、思ってもいなかったのだろう。或いは、どうとでもなると思っていたのかもしれない。国王さえ説き伏せれば大丈夫だ、と。すぐに元通りになるだろう、とも。
しかし、レイモンドの思惑に反し、国王は全く以て無関心だった。息子がそうと決めたのならそれで良い、というのが理由で、幾らレイモンドが切々と訴えても、親子揃ってまるで聞く耳を持たない。最終的には大臣たちに宥められ、何の収穫もなく、彼はただ憤慨しながら邸へ戻ってくるしかなかった。
そもそも国王にとって王太子妃が誰であろうとどうでも良いのだ、と、酒に溺れる父を眺めながら思ったものだ。ある程度の家格があり、且つ国に恥をかかさず、務めを全うし、そして何より未来の国王たる世継ぎを産んでさえくれれば、何処の誰でも構わない。どんな性格をしていようが、どんな顔をしていようが。
「お前が何か余計なことをしたんだろっ」
余計なことと言われても、何かそれらしいことをした覚えはまるでない。しかし裏を返せば、思い当たるものがひとつもないほど“何もしていない”ことでもある。
最後に“婚約者らしいこと”をしたのは、果たしていつだっただろう。数ヶ月前に開かれた建国祭でダンスを一曲踊った時だろうか。とはいえあれは、義務的なものだった。そうしなければならないから、しただけ。それ以上でもなければ以下でもない、と、アルバートの不興げな顔にはありありと書かれていたし、そんな彼の本心を裏付けるかのように、演奏が終わると同時に手を離した彼は、少し離れた場所で待つミリーのもとへ早々に歩み寄っていた。衆目の前であるにもかかわらず。
お茶会、散歩、観劇――嘗ては少なからずあったふたりきりの時間も、気付けば全くなくなっていた。偶然廊下で擦れ違ってもにこりともせず、会話どころか挨拶すらなく、まるでそこに誰も存在しないかのような素振りで通り過ぎてゆく。
実際のところ、アルバートは随分と前から、“婚約者”の存在を鬱陶しがっていた。心から愛する者がいるのに、その関係の行く末を阻む障害物として。レティシアにしてみれば、邪魔をした覚えなど少しもないのだけれど。
しかし、それでも知らぬ存ぜぬを装ってきたのは、家の為であるのはもちろん、政略結婚とはそういうものだと思っていた――教え込まれてきた――からだ。愛だの恋だのといった“感情”は不要である、と。大事なのは“立場”でしかない、と。
その後も散々罵られ、さらには継母であるマチルダにまで一頻り嫌味を言われた後、漸く解放されたレティシアは、部屋を辞してすぐ、後ろ手で閉めたドアに背中を預けて小さく溜息を吐いた。辛辣な言葉をあるだけ投げつけられたが、レイモンドの腹の虫はまだ治まってはいないのだろう。
殴られたり、叩かれたりしなかっただけ、まだましなのだろうか。そう思いながら自室へ戻ると、侍女のクロエが落ち着かない様子で、部屋の中をうろうろと所在なく歩き回っていた。レティシアの姿に気付くや否や、慌てて振り返った彼女の、ひとつに結われた艷やかな黒髪がふわりと揺れる。ぱっちりとした大きな目には、誰が見てもそうと分かるほど、不安と安堵が綯い交ぜになったような複雑な色がくっきりと浮かんでいた。
「レティシア様、お怪我はございませんか!」
「大丈夫よ。怪我はしていないわ」
駆け寄ってきた彼女に身体中を検められながら、レティシアはやれやれと肩を竦め、そっと苦笑を零す。濡れているせいで、もしかしたらグラスをぶつけられたと勘違いしたのかもしれない。嘗てそういうことがなかったわけではないから、その時のことを思い出しでもしたのだろう。
彼女はブランシャール家に仕える使用人の中で最も年若いが、しかし奉公の年数でいえば、執事長や料理長の次に長い。それはクロエが、乳母であったソフィアの一人娘であり、幼少の頃からずっとこの邸で暮らしてきたからだ。使用人のひとりとして。そして、気心の知れた幼馴染として。
だからだろうか。彼女はどんなことがあろうと、周りからなんと言われようと、レティシアのことを第一に考え、味方でいようとしてくれる。クロエが傍にいなければ、王城での生活はもっと息苦しく、辛いものだっただろう。
思えば、何かにつけミリーを優先しだしたアルバートに対し、最初に不満を口にしたのは彼女だった。まるで自分のことのように憤り、けれどそれと同時に、深く哀しんでいたのも。誰も彼もが、困惑しつつも王太子や聖女を擁護するか、或いは目先の利益次第で色を成すかのどちらかでしかない中で、クロエだけが唯一、そんなもの関係なしに、ただただ純粋に怒り、心を痛めていた。
「すぐに拭くものと着替えを用意いたしますねっ」
怪我がないことを確かめてもなお、蒼白な面持ちのまま慌ただしく部屋を出ていった後ろ姿を見送り、レティシアは顔にかかった横髪を指先で払い除ける。びしょ濡れになるほどの量ではなかったけれど、それでも毛先から滴り落ちた雫がドレスを濡らし、水気を吸った胸元のレースが肌に貼り付いて気持ちが悪かった。
「……どうしていれば良かったのかしらね」
自嘲混じりにそう呟き、レティシアは窓際へと歩み寄る。燦々と降り注ぐ真昼の陽光に照らされたそこは、春の長閑さを閉じ込めたようにあたたかく、とても心地良い。
窓の外に広がる空は、突き抜けるように澄んだ青色で、雲ひとつない清々しい快晴だった。薄茶色の羽を力いっぱい動かして自由気ままに飛んでゆく小鳥、何処からともなく聞こえてくる剪定鋏の微かな音。すぐ傍に植えられた木々の、初々しい新緑の葉がちらちらと光の粒を弾き、窓枠や床に幾何学的な影を落としている。
こんなにも清潔で晴々とした青空を、そこで一際存在感を放ちながら溌剌と輝いている太陽を眺めていると、無性に、あの屈託のない笑顔に会いたくなった。胸の奥がきゅっと締め付けられて、焦がれるような痛みが心臓を突き上げるほど。会いたい、と一度頭を擡げると、その思いはもうどうしようもないほどに膨らみ、脳裏に浮かび上がる懐かしいかんばせを、より色濃く、鮮やかなものへ変えてゆく。
最後に顔を見たのは、一年も前だ。それなのに、今もまだあの太陽のような笑顔をありありと描くことができる。それが嬉しくもあり、けれど、却って苦しくもあった。会いたいと思えば思うほど、生々しいほどに克明であればあるほど。どんなに願っても、望んでも、容易く会えるような人物ではないと、嫌というほど分かっているから。
しかし、こんな状況だからだろうか。抱いてしまった切望を、どうにも振り払うことができない。このまま空を眺めていれば、いつか気が済むだろうか。或いは、幾度か交わした手紙をひとつひとつ読み返せば――。
仕方がない、と、レティシアは半ば無理矢理自分自身に言い訳をつけ、部屋へ戻ってきたばかりのクロエへ向き直る。彼女の華奢な腕には、ふっくらとしたタオルが数枚、大事そうに抱えられていた。どうやらまだ着替えの準備は整っていないらしい。それなら丁度良い、と思った。なおのこと仕方がない、とも。
「ねえ、クロエ。着替えは動きやすいものにしてくれないかしら」
「え?」
「少し、出かけたいの」
▽
仲良くなるきっかけは何だったかといえば、それは多分、彼の“人懐こさ”と“遠慮のなさ”だっただろう。
初めて顔を合わせたのは、齢十を迎えてまだ間もない、薫風の吹き抜ける爽やかな夏の日のことだった。
エルミラード王国の南方に位置する、陽光と潤いの豊かな強国・ゼハディア帝国。数多の民族と広大な領土を束ねる大国の、建国を祝する祭事に招かれて参加した晩餐の席で、彼はちょうどレティシアの目の前に座っていた。
艷やかな銀色の髪と、無邪気な金色の瞳、エルミラード王国では殆ど見かけることのない褐色の肌。陽だまりの匂いがしそうだ、と、何故だか唐突にそう思ったことを、よく憶えている。南方地方特有の気候のせいだったかもしれないし、彼の纏う陽気な雰囲気のせいだったかもしれない。
あの場にいた誰よりも美しい笑顔を見せるのに、でも、彼はひどく物静かな子どもだった。一挙手一投足、指の先の僅かな動きに至るまで洗練され、多言語を巧みに操り、大人たちの交わす小難しい話にまできちんと聞き耳を立てる。秀才――誰かがそう言っていたけれど、確かにそうかもしれないと幼心にも思えるほど、彼は何もかもが抜け目なく整えられていた。ふたつしか歳が違わない、とはとても信じられないくらいに。
けれど、それがあくまで“大人たちの前”でだけ繕われたものに過ぎないのだと知ったのは、その翌日のことだった。
レイモンドの言いつけ通り、充てがわれた部屋に閉じこもって勉強に明け暮れていたレティシアの前に、彼は突然、思いもよらぬところから姿を現したのだ。机の前に設けられた、少し大きめの窓をこんこんと叩いて。何が起きたのか、当然ながらすぐには理解が追いつかなかった。悲鳴を上げなかったのが不思議なくらいだ、と、今ならば思う。
彼は窓のすぐ傍に植えられた木の枝に腰かけ、にっこりと笑っていた。悪戯っぽく、心底楽しげに。それは、晩餐の席で見たどの笑顔とも違っていた。年相応の子どもらしく、無垢で、人懐こく、溌剌としていて。なんて無邪気なのだろう、と感心したものだ。人を驚かせておきながら、決して悪びれたふうもなく、けれど少しも嫌な気を起こさせない屈託のなさだ、と。
窓を開けると、彼は挨拶もそこそこに、庭で遊ぼう、と誘ってきた。同い歳で、同じ性別であるアルバートではなく、何故か、昨夜ひとことも言葉を交えることのなかったレティシアを。庭園には色んな花が咲いているから、と。木陰での昼寝はとても気持が良いから、と。誘惑をたくさん並べ立てて。
とはいえ、アルバート以外の男子と仲良くしてはいけない、と、レイモンドから躾けられていた故に、レティシアはその誘いを断った。勉強が忙しいから、と、本当でも嘘でもない言い訳を繕って。それで諦めてくれるだろう、と思っていた。まだ会ったばかりで、特別親しいわけでもなかったのだから。一度断れば、すぐに別のものに興味を移してくれるだろう、と。
けれど、そんなレティシアの予想に反し、彼は飽くことなく毎日部屋を訪ねてきては、枝に腰掛け、晴れやかな笑顔を窓から覗かせた。遊ぶ場所はその時々によって異なったが、“一緒に遊びたい”という真っ直ぐな熱意だけはそのままで。「忙しいの」と言えば、彼は素直に引き下がってくれるけれど、しかしそれは“その日は”というだけであり、翌日には変わらずひょっこりと現れる。どんな言葉を使って断ろうと、彼はついぞ諦めてくれることはなかった。
結局、その純粋な想い故の押しに根負けして、彼の誘いを受けることにしたのは、帰国を翌日に控えてのことだった。あの時の、心から嬉しそうに笑う彼のあどけない顔は、大人になった今でも、鮮明に脳裏に焼き付いている。自分の反応に対し、誰かがあんなにも全身で喜びを溢れさせてくれたことなど、それまで全く経験がなかったから。
何故興味を持ったのか。その理由が、単純に“アルバートよりもゼハディア帝国の母語を流暢に喋っていたから”だと知ったのは、随分と後になってからだったけれど――。
懐かしい思い出にくすりと笑みをこぼし、レティシアは古びたベンチの背もたれにそっと寄りかかる。大通りから逸れた場所に建つこの教会は、いつ来ても喧騒から隔たれたように静かだ。疾うに人々の記憶から忘れ去られ、すっかり廃れてしまっているせいだろう。ひと気はまるでなく、ただただ植物たちの息遣いと、小鳥の囀りだけが響き渡っている。
なんて気持ちが良いのだろう。そう思いながら見上げた青空は、まるで彼に初めて誘われた日のそれのようだった。けれど、彼の国で見たそれは、もっと清廉としていたような気がする。少しのくすみもない、吸い込まれそうなほど濃密な。そう、たとえば彼の笑顔のような――。
「――そこのお嬢さん。今ひとり?」
薄い瞼の上を、冷たい何かがすっと滑り落ちてゆく。咄嗟に瞑ったはずなのに、薄闇の中にはくっきりと、憤怒に歪んだ形相と、血管が浮き出るほどに力強く握られたグラスが焼き付いていて。水をかけられたのだ、と頭が理解するのと、レティシアが徐に瞼を持ち上げるのは、殆ど同時だった。
「この役立たずがっ!」
こうなることは分かっていた、と、怒りで紅潮した父の顔を見つめながら、レティシアは胸の内で静かに溜息を吐く。一族の繁栄の為、公爵家に娘がいないのを良いことに、多額の賄賂と権謀術数で王太子妃の座を掴んだというのに、結婚を目前にしてそれら全てが水の泡となったのでは、父・レイモンドが腹を立てるのも無理はない。
――お前の居場所はもう此処にはない。
そう言われ、王城から追い出されたレティシアが邸へ戻って間もない頃はまだ、「たいしたことはない」と高を括っていたようであるけれど。アルバートの意思が思っていたよりも頑なだと知るや否や、レイモンドは血相を変えた。まさか今になって約束を反故にされるなどとは、思ってもいなかったのだろう。或いは、どうとでもなると思っていたのかもしれない。国王さえ説き伏せれば大丈夫だ、と。すぐに元通りになるだろう、とも。
しかし、レイモンドの思惑に反し、国王は全く以て無関心だった。息子がそうと決めたのならそれで良い、というのが理由で、幾らレイモンドが切々と訴えても、親子揃ってまるで聞く耳を持たない。最終的には大臣たちに宥められ、何の収穫もなく、彼はただ憤慨しながら邸へ戻ってくるしかなかった。
そもそも国王にとって王太子妃が誰であろうとどうでも良いのだ、と、酒に溺れる父を眺めながら思ったものだ。ある程度の家格があり、且つ国に恥をかかさず、務めを全うし、そして何より未来の国王たる世継ぎを産んでさえくれれば、何処の誰でも構わない。どんな性格をしていようが、どんな顔をしていようが。
「お前が何か余計なことをしたんだろっ」
余計なことと言われても、何かそれらしいことをした覚えはまるでない。しかし裏を返せば、思い当たるものがひとつもないほど“何もしていない”ことでもある。
最後に“婚約者らしいこと”をしたのは、果たしていつだっただろう。数ヶ月前に開かれた建国祭でダンスを一曲踊った時だろうか。とはいえあれは、義務的なものだった。そうしなければならないから、しただけ。それ以上でもなければ以下でもない、と、アルバートの不興げな顔にはありありと書かれていたし、そんな彼の本心を裏付けるかのように、演奏が終わると同時に手を離した彼は、少し離れた場所で待つミリーのもとへ早々に歩み寄っていた。衆目の前であるにもかかわらず。
お茶会、散歩、観劇――嘗ては少なからずあったふたりきりの時間も、気付けば全くなくなっていた。偶然廊下で擦れ違ってもにこりともせず、会話どころか挨拶すらなく、まるでそこに誰も存在しないかのような素振りで通り過ぎてゆく。
実際のところ、アルバートは随分と前から、“婚約者”の存在を鬱陶しがっていた。心から愛する者がいるのに、その関係の行く末を阻む障害物として。レティシアにしてみれば、邪魔をした覚えなど少しもないのだけれど。
しかし、それでも知らぬ存ぜぬを装ってきたのは、家の為であるのはもちろん、政略結婚とはそういうものだと思っていた――教え込まれてきた――からだ。愛だの恋だのといった“感情”は不要である、と。大事なのは“立場”でしかない、と。
その後も散々罵られ、さらには継母であるマチルダにまで一頻り嫌味を言われた後、漸く解放されたレティシアは、部屋を辞してすぐ、後ろ手で閉めたドアに背中を預けて小さく溜息を吐いた。辛辣な言葉をあるだけ投げつけられたが、レイモンドの腹の虫はまだ治まってはいないのだろう。
殴られたり、叩かれたりしなかっただけ、まだましなのだろうか。そう思いながら自室へ戻ると、侍女のクロエが落ち着かない様子で、部屋の中をうろうろと所在なく歩き回っていた。レティシアの姿に気付くや否や、慌てて振り返った彼女の、ひとつに結われた艷やかな黒髪がふわりと揺れる。ぱっちりとした大きな目には、誰が見てもそうと分かるほど、不安と安堵が綯い交ぜになったような複雑な色がくっきりと浮かんでいた。
「レティシア様、お怪我はございませんか!」
「大丈夫よ。怪我はしていないわ」
駆け寄ってきた彼女に身体中を検められながら、レティシアはやれやれと肩を竦め、そっと苦笑を零す。濡れているせいで、もしかしたらグラスをぶつけられたと勘違いしたのかもしれない。嘗てそういうことがなかったわけではないから、その時のことを思い出しでもしたのだろう。
彼女はブランシャール家に仕える使用人の中で最も年若いが、しかし奉公の年数でいえば、執事長や料理長の次に長い。それはクロエが、乳母であったソフィアの一人娘であり、幼少の頃からずっとこの邸で暮らしてきたからだ。使用人のひとりとして。そして、気心の知れた幼馴染として。
だからだろうか。彼女はどんなことがあろうと、周りからなんと言われようと、レティシアのことを第一に考え、味方でいようとしてくれる。クロエが傍にいなければ、王城での生活はもっと息苦しく、辛いものだっただろう。
思えば、何かにつけミリーを優先しだしたアルバートに対し、最初に不満を口にしたのは彼女だった。まるで自分のことのように憤り、けれどそれと同時に、深く哀しんでいたのも。誰も彼もが、困惑しつつも王太子や聖女を擁護するか、或いは目先の利益次第で色を成すかのどちらかでしかない中で、クロエだけが唯一、そんなもの関係なしに、ただただ純粋に怒り、心を痛めていた。
「すぐに拭くものと着替えを用意いたしますねっ」
怪我がないことを確かめてもなお、蒼白な面持ちのまま慌ただしく部屋を出ていった後ろ姿を見送り、レティシアは顔にかかった横髪を指先で払い除ける。びしょ濡れになるほどの量ではなかったけれど、それでも毛先から滴り落ちた雫がドレスを濡らし、水気を吸った胸元のレースが肌に貼り付いて気持ちが悪かった。
「……どうしていれば良かったのかしらね」
自嘲混じりにそう呟き、レティシアは窓際へと歩み寄る。燦々と降り注ぐ真昼の陽光に照らされたそこは、春の長閑さを閉じ込めたようにあたたかく、とても心地良い。
窓の外に広がる空は、突き抜けるように澄んだ青色で、雲ひとつない清々しい快晴だった。薄茶色の羽を力いっぱい動かして自由気ままに飛んでゆく小鳥、何処からともなく聞こえてくる剪定鋏の微かな音。すぐ傍に植えられた木々の、初々しい新緑の葉がちらちらと光の粒を弾き、窓枠や床に幾何学的な影を落としている。
こんなにも清潔で晴々とした青空を、そこで一際存在感を放ちながら溌剌と輝いている太陽を眺めていると、無性に、あの屈託のない笑顔に会いたくなった。胸の奥がきゅっと締め付けられて、焦がれるような痛みが心臓を突き上げるほど。会いたい、と一度頭を擡げると、その思いはもうどうしようもないほどに膨らみ、脳裏に浮かび上がる懐かしいかんばせを、より色濃く、鮮やかなものへ変えてゆく。
最後に顔を見たのは、一年も前だ。それなのに、今もまだあの太陽のような笑顔をありありと描くことができる。それが嬉しくもあり、けれど、却って苦しくもあった。会いたいと思えば思うほど、生々しいほどに克明であればあるほど。どんなに願っても、望んでも、容易く会えるような人物ではないと、嫌というほど分かっているから。
しかし、こんな状況だからだろうか。抱いてしまった切望を、どうにも振り払うことができない。このまま空を眺めていれば、いつか気が済むだろうか。或いは、幾度か交わした手紙をひとつひとつ読み返せば――。
仕方がない、と、レティシアは半ば無理矢理自分自身に言い訳をつけ、部屋へ戻ってきたばかりのクロエへ向き直る。彼女の華奢な腕には、ふっくらとしたタオルが数枚、大事そうに抱えられていた。どうやらまだ着替えの準備は整っていないらしい。それなら丁度良い、と思った。なおのこと仕方がない、とも。
「ねえ、クロエ。着替えは動きやすいものにしてくれないかしら」
「え?」
「少し、出かけたいの」
▽
仲良くなるきっかけは何だったかといえば、それは多分、彼の“人懐こさ”と“遠慮のなさ”だっただろう。
初めて顔を合わせたのは、齢十を迎えてまだ間もない、薫風の吹き抜ける爽やかな夏の日のことだった。
エルミラード王国の南方に位置する、陽光と潤いの豊かな強国・ゼハディア帝国。数多の民族と広大な領土を束ねる大国の、建国を祝する祭事に招かれて参加した晩餐の席で、彼はちょうどレティシアの目の前に座っていた。
艷やかな銀色の髪と、無邪気な金色の瞳、エルミラード王国では殆ど見かけることのない褐色の肌。陽だまりの匂いがしそうだ、と、何故だか唐突にそう思ったことを、よく憶えている。南方地方特有の気候のせいだったかもしれないし、彼の纏う陽気な雰囲気のせいだったかもしれない。
あの場にいた誰よりも美しい笑顔を見せるのに、でも、彼はひどく物静かな子どもだった。一挙手一投足、指の先の僅かな動きに至るまで洗練され、多言語を巧みに操り、大人たちの交わす小難しい話にまできちんと聞き耳を立てる。秀才――誰かがそう言っていたけれど、確かにそうかもしれないと幼心にも思えるほど、彼は何もかもが抜け目なく整えられていた。ふたつしか歳が違わない、とはとても信じられないくらいに。
けれど、それがあくまで“大人たちの前”でだけ繕われたものに過ぎないのだと知ったのは、その翌日のことだった。
レイモンドの言いつけ通り、充てがわれた部屋に閉じこもって勉強に明け暮れていたレティシアの前に、彼は突然、思いもよらぬところから姿を現したのだ。机の前に設けられた、少し大きめの窓をこんこんと叩いて。何が起きたのか、当然ながらすぐには理解が追いつかなかった。悲鳴を上げなかったのが不思議なくらいだ、と、今ならば思う。
彼は窓のすぐ傍に植えられた木の枝に腰かけ、にっこりと笑っていた。悪戯っぽく、心底楽しげに。それは、晩餐の席で見たどの笑顔とも違っていた。年相応の子どもらしく、無垢で、人懐こく、溌剌としていて。なんて無邪気なのだろう、と感心したものだ。人を驚かせておきながら、決して悪びれたふうもなく、けれど少しも嫌な気を起こさせない屈託のなさだ、と。
窓を開けると、彼は挨拶もそこそこに、庭で遊ぼう、と誘ってきた。同い歳で、同じ性別であるアルバートではなく、何故か、昨夜ひとことも言葉を交えることのなかったレティシアを。庭園には色んな花が咲いているから、と。木陰での昼寝はとても気持が良いから、と。誘惑をたくさん並べ立てて。
とはいえ、アルバート以外の男子と仲良くしてはいけない、と、レイモンドから躾けられていた故に、レティシアはその誘いを断った。勉強が忙しいから、と、本当でも嘘でもない言い訳を繕って。それで諦めてくれるだろう、と思っていた。まだ会ったばかりで、特別親しいわけでもなかったのだから。一度断れば、すぐに別のものに興味を移してくれるだろう、と。
けれど、そんなレティシアの予想に反し、彼は飽くことなく毎日部屋を訪ねてきては、枝に腰掛け、晴れやかな笑顔を窓から覗かせた。遊ぶ場所はその時々によって異なったが、“一緒に遊びたい”という真っ直ぐな熱意だけはそのままで。「忙しいの」と言えば、彼は素直に引き下がってくれるけれど、しかしそれは“その日は”というだけであり、翌日には変わらずひょっこりと現れる。どんな言葉を使って断ろうと、彼はついぞ諦めてくれることはなかった。
結局、その純粋な想い故の押しに根負けして、彼の誘いを受けることにしたのは、帰国を翌日に控えてのことだった。あの時の、心から嬉しそうに笑う彼のあどけない顔は、大人になった今でも、鮮明に脳裏に焼き付いている。自分の反応に対し、誰かがあんなにも全身で喜びを溢れさせてくれたことなど、それまで全く経験がなかったから。
何故興味を持ったのか。その理由が、単純に“アルバートよりもゼハディア帝国の母語を流暢に喋っていたから”だと知ったのは、随分と後になってからだったけれど――。
懐かしい思い出にくすりと笑みをこぼし、レティシアは古びたベンチの背もたれにそっと寄りかかる。大通りから逸れた場所に建つこの教会は、いつ来ても喧騒から隔たれたように静かだ。疾うに人々の記憶から忘れ去られ、すっかり廃れてしまっているせいだろう。ひと気はまるでなく、ただただ植物たちの息遣いと、小鳥の囀りだけが響き渡っている。
なんて気持ちが良いのだろう。そう思いながら見上げた青空は、まるで彼に初めて誘われた日のそれのようだった。けれど、彼の国で見たそれは、もっと清廉としていたような気がする。少しのくすみもない、吸い込まれそうなほど濃密な。そう、たとえば彼の笑顔のような――。
「――そこのお嬢さん。今ひとり?」


