「離れる? おかしなことを言うのね」
漸く言葉を声にのせて吐き出すことが出来たけれど、無理矢理繕った笑みは、まるで心底寂しがる子どものような、弱々しく情けない顔になってしまった。これでは説得力に欠けるな、と思うのだけれど、後悔したところで、もうどうにもならない。レティシアは誤魔化すように目を伏せて、ネックレスの繊細な装飾を指先でやさしく撫でた。
離れる――。実際のところ、どうなのだろう。そんなことは出来るのだろうか。彼以外の誰かと結婚をすれば、確かに離れることにはなるのかもしれない。けれど、仮にそうなったのだとしても、それはただ身体が離れ離れになるだけで、心までもがそうなるとは限らないだろう、と、レティシアは胸の内でひそりと苦笑をこぼす。
たとえば、夫となる男性に惹かれ、彼を愛するようになれば。或いは、イヴァンが見知らぬ女性と結婚したならば。そうしたら、もしかしたら心は離れてしまうかもしれない。大切な思い出が薄らぐのに合わせて。
でも、本当にそんな時は来るのだろうか。父の欲のままに、それを満たす為だけに誰かと結婚をすることはあるだろう。次期皇帝であるイヴァンもまた、どこかの令嬢を妃として迎えることは当然あるだろう。――それでも、果たして彼から心が離れる時は、本当に来るのだろうか。王太子という婚約者がいながら、それでも十年以上もの間、一途に彼だけを想い続けていたというのに。今更、その募り募った想いを“なかった”ことに出来るのだろうか。
「さっきはすまなかった」
唐突に謝られ、レティシアは弾かれたように顔を上げ、隣りに座るイヴァンの横顔を見た。弱々しく情けなかったはずの表情は一瞬にして消え去り、ぎょっと眉を跳ねさせ、隠しきれない驚きを溢れさせるように、大きく目を見開かせて。
「どうして貴方が謝るの?」
「どう考えても俺が悪かっただろ、あれは」
そう言って、イヴァンは徐に天井を仰いだ。その先に広がる、深々とした紺色の夜空を。
「君を傷付けるつもりはなかったんだが、結果的にはそうなってしまった」
「傷ついてなんかいないわ。私は平気よ」
心情が表へ出てしまわないよう、必死に平静を装っていたつもりなのだけれど。どうやらそれは無駄な努力で、彼には疾うに見透かされていたらしい。それがなんだか悔しくて、恥ずかしくて。言い返した声は、だから少しだけむすっとしてしまった。なんてみっともない、幼稚な反応だろう。そう思えば思うほど、羞恥と自己嫌悪が込み上げてきて、居た堪れなくなる。穴があったら入ってしまいたい、と、そんなことを考えてしまうほど。
「なら、俺の思い過ごしなのかもな」
しかしイヴァンは全く気に留めた素振りもなく、いつもの調子でくつくつと笑い、ゆっくりと――ひとつひとつの動作を、小さな間を置くみたいに区切りながら――瞬いた。その変わらなさは、不思議と、安堵に似た肯定感を与えてくれる。今はまだここにいて良いのだ、と。川辺で魚釣りをした時や、墓前で祈りを捧げた時と同じ様に。
「貴方って、変わっているのね」
「そうか?」
「だって、あんなお告げを聞いた後だというのに、平気な顔をして私の隣に座っているんだもの」
「へえ。つまり君は、俺があの女の言葉を鵜呑みにするような、“能無し男”だと思ってるってことか」
そんなこと言っていないじゃない、と言いかけて、レティシアは代わりに唇を尖らせる。能無し男――とは思ってはいないけれど。でも、ミリーの言葉を信じたのだろうとは、あの時の反応で、つい感じてしまったのは事実だ。
「心外だな」
白々しい声とともに、如何にも“落ち込んでいます”と言いたげな溜息を漏らすイヴァンを、レティシアはちらりと横目で見上げる。そんな彼女の視線を一瞥で受け止め、イヴァンは前髪を掻き上げながら含み笑った。
「俺は、存在するかどうか分からん神の言葉より、今まで君と過ごしてきた“確かな時間”の方を信じただけだ」
窓も扉も屋根も、分厚い硝子で閉ざされて、温室内はしんとしているはずなのに。辺りに茂る木々の葉や草花の細い茎も、ひっそりと寝静まったまま微動だにしていないというのに。それでも、あたたかな風がふわりと、身体の中を流れていったような気がした。感情という感情を揺らし、震わせ、さあっと、水面に細かな波を小さく立てるようにして。
やけにきっぱりとした、凛として芯のある声だ、と思った。彼が心から強くそう思っているのだと、その確信が、疑う余地もなく胸の中いっぱいに染み渡ってゆくような。真っ直ぐで、揺るぎがなくて。だから、こくりと、呑み込んでしまう。すんなりと、ああそうなんだ、と。
ミリーの演技力は素晴らしいものだった。主神の御言葉が聞こえた――のかどうか、真偽の程は定かでないけれど。それでも、もしあの場にいたのがアルバートだったら、大臣や枢機卿たちだったら、みな彼女の言動を真実だと思い込んでいただろう。少しも疑念を抱くことなく。そもそも、“怪しむ”なんてことを端から頭に思い浮かべることさえなかったかもしれない。婚約を破棄された何の取り柄もない女と、主神の御子であり厚い崇拝を寄せられている尊い聖女とでは、どちらを信じるかなんて考えるまでもない。
だから――。ネックレスをそろりと無で、レティシアは静かに微笑む。彼だけでも信じてくれたのが嬉しかった、と。いや、正しく言うならば、“彼だけは”かもしれない。他の誰でもなく、イヴァンにだけは信じてほしかった。だから、彼がそうしてくれたことは、とても嬉しかった。ミリーではなく、自分を選んでくれた――その事実はどんなにかけがえのないものかなんて、イヴァンは分からないだろう。でも、分からないままでいてほしい。
「本当に、貴方は変わった人ね。不思議とも言うかしら。貴方とクロエくらいなものよ。私の傍にいようとしてくれるのは」
「君と一緒にいるのは楽しいからな」
「それこそ、“変わってる”だわ。だって私は――」
そこでふと言葉をとめ、レティシアは自嘲を滲ませながら、力なく目を伏せた。あの夜に投げつけられた言葉が、鼓膜の裏側に生々しく蘇ってくる。いくつも、いくつも。
――お前のその完璧なところが、人形じみていて嫌いなのだ。
「……私は、人形じみているのに」
「人形?」
「完璧なところが、人形じみているそうよ」
「へえ」
抑揚のない相槌をこぼし、イヴァンはほんの少しだけ間を置いた。言葉を探すような、僅かばかりの沈黙。
「誰がそんなことを君に言ったのかは聞きたくもないが」
ひょいと腰を上げ、イヴァンは両手を突き上げて伸びをしてから、ゆっくりと振り返る。やさしいぬくもりが浮かんだ、美しい金色の瞳。いつ見ても吸い込まれてしまいそうになるそれを、レティシアは躊躇いがちに見上げた。今その瞳に呑み込まれたらどうにかなってしまいそうだ、という奇妙な感覚にとらわれて。
「それは、そいつが君の“本当の姿”を知ろうとしなかっただけだろ」
じゃあ貴方は知っているの、と問いかけたい衝動に駆られ、レティシアは密かに奥歯を噛み締める。それはただの問いというより、確認だった。彼が“本当の姿”を知っていることを確かめたい、という、欲。
「まあでも、人形みたいだと思うことは、確かにありはしたがな」
「あら、そうなの?」
戯けて小首を傾げると、彼はくつりと喉の奥で笑った。
「“王太子の婚約者”として会う時の君は、だいたいいつもそうだった」
そう言いながら、イヴァンはレティシアの目の前に立つと、徐に片膝を折り、その場にしゃがみ込んだ。見上げるように合わされる視線が、突然の行動に驚くレティシアの心臓を、とくりと小さく跳ねさせる。
「でもそれは、君がその役目に徹していただけに過ぎないと、俺は思ってる」
「役目?」
「周りの奴らが君に与えた、“完璧な婚約者なければならない”という役目」
想像もしていなかった指摘に、レティシアは虚を突かれて僅かに目を見開く。役目――“完璧な婚約者でなければならない”という、役目。彼の言葉を何度も何度も頭の中で繰り返しては、その一文字一文字を丁寧に意識の指先でなぞる。理解出来ないのでも、呑み込めないのでもなく、ただそれがあまりにも珍しく新鮮に感じられて。
「初めて言われたわ、そんなこと」
だから素直に、そう告げた。少しだけ上ずった声に、驚きをのせて。するとイヴァンは、意外だと言いたげに片眉を微かに持ち上げ、それから苦笑を浮かべつつ肩を竦めた。
「なんだ、無自覚だったのか。君も、周りの奴らも」
無自覚、というより――、レティシアは考え込むように視線を逸し、近くに植わる名も知らない白い花を見るともなく眺める。無自覚というより、それが当たり前だった、というだけだ。家の為、父の為、アルバートの為、王家の為。完璧でいることが当然であり、そうでならなければならないという、それはある種の脅迫めいた固定観念のようなものだった。
「“人形みたいだ”ってのは、結局、周りが求めたもんに応えようと君なりに頑張った結果だったんだろ。それが正しいか正しくねえかは兎も角、君の努力の賜物だったってことには変わりない」
「ポジティブなのね、貴方って」
「そうか? まあ俺は、一途に頑張り続ける君を見てきたからな。その努力を、どんな形であれ否定したくはないってだけだ」
軽やかな口調なのに、でも、説得力のある物言いだ、と思う。どうしてだろう。彼の紡ぐ言葉はいつも、分厚い雲の隙間から差し込む光芒のような、新しい“気付き”と共に、安らぎや心強さを与えてくれる。生まれ持った才能なのだろうか。それとも、イヴァンを取り巻く環境――両親や臣下、或いは国そのもの――が彼をそう育てたのか。
「――けど」
視線を戻すと、太陽のような金の瞳にやさしく受け止められた。まるで抱き締めるようなそれに、何故だか急に、胸がきゅっと締め付けられる。
「もうやめても良いんじゃないか」
「やめる?」
「誰かの為に“完璧”でいることも、他の誰かの為に生きることも」
穏やかに笑みを深めるイヴァンを見つめ、レティシアはふと、遠い昔の記憶を思い出す。突然叩かれた窓の音。硝子越しに差し込む穏やかな陽光。溌剌とした屈託のない笑顔。遊ぼう、と無邪気に誘う幼い声――。
本当に“完璧”だったのなら、あの時彼の手を取ることなんてしなかっただろう。時折手紙の遣り取りをすることも、こっそりと王城を抜け出すことも。そして、いくら厳重に蓋をし、胸の奥底に押し殺していたとはいえ、それでも婚約者がいながら彼への想いを十年以上も引き摺り続けることだって。
いつだってその“ズレ”を作るのは、彼だった。
もしかしたら――。掌にのせたままのネックレスをそっと両手で包み込みながら、レティシアは思う。もしかしたら彼は、初めて出会ったあの頃から既に見抜いていたのではないだろうか、と。周りの期待に応えることが正しい、と、そう信じ込み、それを当たり前にしてしまっていたことを。自分自身でさえ気付かない無意識を。だから彼は、あの時――。
「君は、君の人生を歩むべきだ、レティシア。誰かの為の人生ではなく、君の為の人生を」
漸く言葉を声にのせて吐き出すことが出来たけれど、無理矢理繕った笑みは、まるで心底寂しがる子どものような、弱々しく情けない顔になってしまった。これでは説得力に欠けるな、と思うのだけれど、後悔したところで、もうどうにもならない。レティシアは誤魔化すように目を伏せて、ネックレスの繊細な装飾を指先でやさしく撫でた。
離れる――。実際のところ、どうなのだろう。そんなことは出来るのだろうか。彼以外の誰かと結婚をすれば、確かに離れることにはなるのかもしれない。けれど、仮にそうなったのだとしても、それはただ身体が離れ離れになるだけで、心までもがそうなるとは限らないだろう、と、レティシアは胸の内でひそりと苦笑をこぼす。
たとえば、夫となる男性に惹かれ、彼を愛するようになれば。或いは、イヴァンが見知らぬ女性と結婚したならば。そうしたら、もしかしたら心は離れてしまうかもしれない。大切な思い出が薄らぐのに合わせて。
でも、本当にそんな時は来るのだろうか。父の欲のままに、それを満たす為だけに誰かと結婚をすることはあるだろう。次期皇帝であるイヴァンもまた、どこかの令嬢を妃として迎えることは当然あるだろう。――それでも、果たして彼から心が離れる時は、本当に来るのだろうか。王太子という婚約者がいながら、それでも十年以上もの間、一途に彼だけを想い続けていたというのに。今更、その募り募った想いを“なかった”ことに出来るのだろうか。
「さっきはすまなかった」
唐突に謝られ、レティシアは弾かれたように顔を上げ、隣りに座るイヴァンの横顔を見た。弱々しく情けなかったはずの表情は一瞬にして消え去り、ぎょっと眉を跳ねさせ、隠しきれない驚きを溢れさせるように、大きく目を見開かせて。
「どうして貴方が謝るの?」
「どう考えても俺が悪かっただろ、あれは」
そう言って、イヴァンは徐に天井を仰いだ。その先に広がる、深々とした紺色の夜空を。
「君を傷付けるつもりはなかったんだが、結果的にはそうなってしまった」
「傷ついてなんかいないわ。私は平気よ」
心情が表へ出てしまわないよう、必死に平静を装っていたつもりなのだけれど。どうやらそれは無駄な努力で、彼には疾うに見透かされていたらしい。それがなんだか悔しくて、恥ずかしくて。言い返した声は、だから少しだけむすっとしてしまった。なんてみっともない、幼稚な反応だろう。そう思えば思うほど、羞恥と自己嫌悪が込み上げてきて、居た堪れなくなる。穴があったら入ってしまいたい、と、そんなことを考えてしまうほど。
「なら、俺の思い過ごしなのかもな」
しかしイヴァンは全く気に留めた素振りもなく、いつもの調子でくつくつと笑い、ゆっくりと――ひとつひとつの動作を、小さな間を置くみたいに区切りながら――瞬いた。その変わらなさは、不思議と、安堵に似た肯定感を与えてくれる。今はまだここにいて良いのだ、と。川辺で魚釣りをした時や、墓前で祈りを捧げた時と同じ様に。
「貴方って、変わっているのね」
「そうか?」
「だって、あんなお告げを聞いた後だというのに、平気な顔をして私の隣に座っているんだもの」
「へえ。つまり君は、俺があの女の言葉を鵜呑みにするような、“能無し男”だと思ってるってことか」
そんなこと言っていないじゃない、と言いかけて、レティシアは代わりに唇を尖らせる。能無し男――とは思ってはいないけれど。でも、ミリーの言葉を信じたのだろうとは、あの時の反応で、つい感じてしまったのは事実だ。
「心外だな」
白々しい声とともに、如何にも“落ち込んでいます”と言いたげな溜息を漏らすイヴァンを、レティシアはちらりと横目で見上げる。そんな彼女の視線を一瞥で受け止め、イヴァンは前髪を掻き上げながら含み笑った。
「俺は、存在するかどうか分からん神の言葉より、今まで君と過ごしてきた“確かな時間”の方を信じただけだ」
窓も扉も屋根も、分厚い硝子で閉ざされて、温室内はしんとしているはずなのに。辺りに茂る木々の葉や草花の細い茎も、ひっそりと寝静まったまま微動だにしていないというのに。それでも、あたたかな風がふわりと、身体の中を流れていったような気がした。感情という感情を揺らし、震わせ、さあっと、水面に細かな波を小さく立てるようにして。
やけにきっぱりとした、凛として芯のある声だ、と思った。彼が心から強くそう思っているのだと、その確信が、疑う余地もなく胸の中いっぱいに染み渡ってゆくような。真っ直ぐで、揺るぎがなくて。だから、こくりと、呑み込んでしまう。すんなりと、ああそうなんだ、と。
ミリーの演技力は素晴らしいものだった。主神の御言葉が聞こえた――のかどうか、真偽の程は定かでないけれど。それでも、もしあの場にいたのがアルバートだったら、大臣や枢機卿たちだったら、みな彼女の言動を真実だと思い込んでいただろう。少しも疑念を抱くことなく。そもそも、“怪しむ”なんてことを端から頭に思い浮かべることさえなかったかもしれない。婚約を破棄された何の取り柄もない女と、主神の御子であり厚い崇拝を寄せられている尊い聖女とでは、どちらを信じるかなんて考えるまでもない。
だから――。ネックレスをそろりと無で、レティシアは静かに微笑む。彼だけでも信じてくれたのが嬉しかった、と。いや、正しく言うならば、“彼だけは”かもしれない。他の誰でもなく、イヴァンにだけは信じてほしかった。だから、彼がそうしてくれたことは、とても嬉しかった。ミリーではなく、自分を選んでくれた――その事実はどんなにかけがえのないものかなんて、イヴァンは分からないだろう。でも、分からないままでいてほしい。
「本当に、貴方は変わった人ね。不思議とも言うかしら。貴方とクロエくらいなものよ。私の傍にいようとしてくれるのは」
「君と一緒にいるのは楽しいからな」
「それこそ、“変わってる”だわ。だって私は――」
そこでふと言葉をとめ、レティシアは自嘲を滲ませながら、力なく目を伏せた。あの夜に投げつけられた言葉が、鼓膜の裏側に生々しく蘇ってくる。いくつも、いくつも。
――お前のその完璧なところが、人形じみていて嫌いなのだ。
「……私は、人形じみているのに」
「人形?」
「完璧なところが、人形じみているそうよ」
「へえ」
抑揚のない相槌をこぼし、イヴァンはほんの少しだけ間を置いた。言葉を探すような、僅かばかりの沈黙。
「誰がそんなことを君に言ったのかは聞きたくもないが」
ひょいと腰を上げ、イヴァンは両手を突き上げて伸びをしてから、ゆっくりと振り返る。やさしいぬくもりが浮かんだ、美しい金色の瞳。いつ見ても吸い込まれてしまいそうになるそれを、レティシアは躊躇いがちに見上げた。今その瞳に呑み込まれたらどうにかなってしまいそうだ、という奇妙な感覚にとらわれて。
「それは、そいつが君の“本当の姿”を知ろうとしなかっただけだろ」
じゃあ貴方は知っているの、と問いかけたい衝動に駆られ、レティシアは密かに奥歯を噛み締める。それはただの問いというより、確認だった。彼が“本当の姿”を知っていることを確かめたい、という、欲。
「まあでも、人形みたいだと思うことは、確かにありはしたがな」
「あら、そうなの?」
戯けて小首を傾げると、彼はくつりと喉の奥で笑った。
「“王太子の婚約者”として会う時の君は、だいたいいつもそうだった」
そう言いながら、イヴァンはレティシアの目の前に立つと、徐に片膝を折り、その場にしゃがみ込んだ。見上げるように合わされる視線が、突然の行動に驚くレティシアの心臓を、とくりと小さく跳ねさせる。
「でもそれは、君がその役目に徹していただけに過ぎないと、俺は思ってる」
「役目?」
「周りの奴らが君に与えた、“完璧な婚約者なければならない”という役目」
想像もしていなかった指摘に、レティシアは虚を突かれて僅かに目を見開く。役目――“完璧な婚約者でなければならない”という、役目。彼の言葉を何度も何度も頭の中で繰り返しては、その一文字一文字を丁寧に意識の指先でなぞる。理解出来ないのでも、呑み込めないのでもなく、ただそれがあまりにも珍しく新鮮に感じられて。
「初めて言われたわ、そんなこと」
だから素直に、そう告げた。少しだけ上ずった声に、驚きをのせて。するとイヴァンは、意外だと言いたげに片眉を微かに持ち上げ、それから苦笑を浮かべつつ肩を竦めた。
「なんだ、無自覚だったのか。君も、周りの奴らも」
無自覚、というより――、レティシアは考え込むように視線を逸し、近くに植わる名も知らない白い花を見るともなく眺める。無自覚というより、それが当たり前だった、というだけだ。家の為、父の為、アルバートの為、王家の為。完璧でいることが当然であり、そうでならなければならないという、それはある種の脅迫めいた固定観念のようなものだった。
「“人形みたいだ”ってのは、結局、周りが求めたもんに応えようと君なりに頑張った結果だったんだろ。それが正しいか正しくねえかは兎も角、君の努力の賜物だったってことには変わりない」
「ポジティブなのね、貴方って」
「そうか? まあ俺は、一途に頑張り続ける君を見てきたからな。その努力を、どんな形であれ否定したくはないってだけだ」
軽やかな口調なのに、でも、説得力のある物言いだ、と思う。どうしてだろう。彼の紡ぐ言葉はいつも、分厚い雲の隙間から差し込む光芒のような、新しい“気付き”と共に、安らぎや心強さを与えてくれる。生まれ持った才能なのだろうか。それとも、イヴァンを取り巻く環境――両親や臣下、或いは国そのもの――が彼をそう育てたのか。
「――けど」
視線を戻すと、太陽のような金の瞳にやさしく受け止められた。まるで抱き締めるようなそれに、何故だか急に、胸がきゅっと締め付けられる。
「もうやめても良いんじゃないか」
「やめる?」
「誰かの為に“完璧”でいることも、他の誰かの為に生きることも」
穏やかに笑みを深めるイヴァンを見つめ、レティシアはふと、遠い昔の記憶を思い出す。突然叩かれた窓の音。硝子越しに差し込む穏やかな陽光。溌剌とした屈託のない笑顔。遊ぼう、と無邪気に誘う幼い声――。
本当に“完璧”だったのなら、あの時彼の手を取ることなんてしなかっただろう。時折手紙の遣り取りをすることも、こっそりと王城を抜け出すことも。そして、いくら厳重に蓋をし、胸の奥底に押し殺していたとはいえ、それでも婚約者がいながら彼への想いを十年以上も引き摺り続けることだって。
いつだってその“ズレ”を作るのは、彼だった。
もしかしたら――。掌にのせたままのネックレスをそっと両手で包み込みながら、レティシアは思う。もしかしたら彼は、初めて出会ったあの頃から既に見抜いていたのではないだろうか、と。周りの期待に応えることが正しい、と、そう信じ込み、それを当たり前にしてしまっていたことを。自分自身でさえ気付かない無意識を。だから彼は、あの時――。
「君は、君の人生を歩むべきだ、レティシア。誰かの為の人生ではなく、君の為の人生を」


