気付いたら温室にいた。外よりももっとしっとりとした、湿り気を含んだ空気の漂う穏やかな場所。王国中だけでなく、他国から寄与された珍しい植物もたくさん植わっているからか、瑞々しく濃密な緑の匂いが、甘い土の匂いに絡まりながら立ち込めている。敷き詰められた白い石畳に大きな影を落とす椰子の葉、小さな白い蕾をいくつもつけた灌木、硝子屋根から差し込む月明かりに照らされて青さを増した勿忘草、パーゴラにびっしりと茂った色とりどりの蔓薔薇。
小ぶりの噴水からちょろちょろと吹き出す雫の、水面にぶつかって弾ける澄んだ音が微かにこだます。それを聞くともなく聞きながら、レティシアはチューリップに縁取られた小路を真っ直ぐ進む。所々に吊るされたランタンと、たっぷりと降り注ぐ月光以外に、路を照らすものは何もない。静謐でありながら、でも、植物たちの生気に満ち溢れた賑やかさもある、不思議な空間。温室は、庭園とはまた違う“自然”を感じられてとても好きだ。吹き抜けてゆく風がない分、彼等の生命力をより生々しく感じられるから。
唐突に視界が開け、小路の突き当りに造られた小さな広場に辿り着く。蔓草のような装飾が施された錬鉄製の丸いティーテーブル、同じデザインで統一された二人掛けのベンチ。その片端に腰を落とし、レティシアはゆったりと背もたれに身を預けながら、静かに溜息をこぼした。仰いだ先の硝子天井から、深い紺色に沈んだ空が見える。限りなく黒に近い、けれども黒とはまた少し違う、落ち着きのある色。深海というものを覗けるのらば、きっとこんな感じなのかもしれない――と、まるで別のことを意図的に考えながら、レティシアはそっと微笑んだ。夜空は――というより、空そのものは――、やはり硝子を通してではなく外で見る方がとびきり美しい。
大広間のある建物からは離れているせいか、それとも分厚い硝子に隔たれているからか。ヴァイオリンやフルートの華やかな音色も、人々のたてる喧騒もまるで聞こえない。アーチ型の大きな窓から漏れるシャンデリアの煌々とした明かりも、此処までは届かない。それでも、気を付けていないと意識は簡単にあの場所へ引き戻されてしまう。イヴァンは今頃、ミリーと一緒にいるのだろうか。無事大広間に送り届け、その後は――。
ふるふるとかぶりを振り、レティシアは深く吸い込んだ息を細く長く吐き出して、徐に首の裏側へ手を伸ばした。指先の感覚だけを頼りに留め具を外し、ふっと力の緩んだネックレスを両手で包み込むようにして持ち上げる。決して派手ではないけれど、だからこそ中央に据えられた黄色の宝石が一層輝かしく見える意匠は、何度見てもうっとりするほど素晴らしい。力強く陽気な、太陽のきらめきにも似た美しさ。それをより際立たせる完璧な仕上がりを初めて目の当たりにした時には、心から喜びが湧き上がったものだ。
――それ、漸くつけてくれたんだな。
そう言われた時、まるで記憶が、あの時の感動が伝わったような気がして、嬉しかった。ひと目で気付いてくれたことも、彼が忘れていなかったということも。遠く離れていても、滅多に顔を合わせることはなくても、それでも積み重ねてきた思い出のひとつひとつを、今でもずっと色褪せることなく共有出来ているという感覚が、甘い蜜となって胸を満たし、心をやさしく包み込んでくれた。
けれど、それももう――。深々と溜息をつき、レティシアは持ち重りのするネックレスを視界から遠ざけ、包み込んだ両手ごと腿の上に置いた。ドレスの布地が、ひんやりとしていて気持ちが良い。自分自身が、過去の何処でもない、今この瞬間の此処にいるのだと教えてくれる。
暫くの間、ぼんやりと植物たちを眺めていた。白や緑やピンクや紫や、品種も姿形も何もかもが異なる草花や木々たちを。兎に角、何も考えないように努めて。そうしていないと、目の奥のつんとした痛みに引き摺られて、涙が溢れ出してしまいそうだった。ミリーの嘘でも、彼女が聞いたという主神のお告げでもなく――あの無感情な金色の瞳と、今頃ふたりで笑い合っているのかもしれないという、不確かな想像のせいで。
馬鹿だなあ、と思う。ちぐはぐだ、とも。彼を渡したくなかったのなら、ミリーのように縋り付けば良かったのだ。そんなことはしていない、と、彼女の言葉を否定して。でも、そうはしなかった。あまつさえ、ミリーを大広間まで送り届けてほしいと頼みさえしてしまった。
「何をしてるのかしら、私……」
ぼそりと独り言ち、レティシアはゆっくりと上を向く。襟足が地を向き、肩に垂れた髪の毛がするするとこぼれ落ちてゆくくらい、ぐっと。一面に硝子の張られた夜空を眺めようと真上を仰ぎ見た刹那、しかしその視界に映り込んだのは煌々と輝く星でも、ぽっかりと浮かぶ丸い月でもなく――夜なのに昼の訪れを告げるような、あたたかな太陽だった。
「――見つけた」
何が起きたのかすぐに理解出来ず、レティシアは呆然と目を瞬かせる。此処にないはずの、けれど確かに此処に――視線の先に――存在する金色の瞳を見つめながら。覗き込むようにして落ちるやさしい眼差しを、どう受け止めれば良いのか分からず、半開きの間抜けな唇の間から、意味をなさない吐息だけが咄嗟にこぼれ出た。
どうして――。じわりじわりと頭が追いついてくるにつれ、レティシアは瞬かせていた目を、少しずつ見開かせる。そんな彼女を見下ろしながら、彼はくすりと楽しげに笑って、前髪の間から覗くレティシアの額を、とん、と指先でやさしく弾いた。
「ちょっ……!」
「間の抜けた顔だな」
その軽い痛みで漸く我を取り戻したレティシアは、大袈裟なほどに身体を震わせ、飛び跳ねんばかりの勢いで振り返った。掌にのせていたネックレスが、さらさらと、小さな音を奏でる。
「どうして、此処に……」
「どうしてって、そりゃあ君を追いかけてきたからに決まってんだろ」
くすくすと笑いながら、ベンチの空いた片側に腰を下ろしたイヴァンは、しかしレティシアの手に包まれたネックレスを目に留めた途端、眉尻を下げて、くしゃりと表情を歪めた。怒っているというより、それはまるで――叱られた子犬のような顔。
――殿下って、大型犬みたいだと思いませんか。レティシア様の前だと、大きな尻尾をぶんぶん振ってるのが見える気がするんですよ。臣下の中には、獅子だと言う奴もいるんですけど。でも私は、やっぱり大型犬だと思うんですよね。いやまあ、獅子にも尻尾はありますけど。
クロエに釣りの仕方を教えるイヴァンを眺めながら、串に刺された焼き魚を片手にそう語っていたケレムの言葉が、ふと蘇る。尻尾を振っているのかどうかは、分からないけれど。しかし今にも悲しげな、或いは淋しげな鳴き声が聞こえてきそうなその顔は、確かに大型犬――の子ども――みたいだ、と思う。本人に言えば、きっとムキになって否定するだろうけれど。
「それ、捨てるつもりか?」
「捨てる? 何故?」
イヴァンの問い――というより、思考回路そのもの――が理解出来ず、レティシアはきょとんと小首を傾げた。
「何故、って……さすがにさっきのは怒るのも当然だろうから、それで……」
“さっき”というのが、額を弾いたことではなく、それよりもずっと前の――中庭での一件のことを指しているのだと気付き、レティシアはふっと、吐息のような苦笑をこぼす。おかしなことを言うものだ。徹底した演技で嘘を撒き散らしていたミリーに対して怒るならまだしも、真実を知らぬままそれを聞かされていただけのイヴァンに、どうしてそんな感情を抱けようか。
「怒ってなんかいないわ」
そう言いながらイヴァンから逸した視線を手元へ落とし、レティシアは掌の上できらきらと輝く黄色い宝石を、じっと見つめる。あの時の――ミリーに腕を絡められ、感情のまるでない眼差しを向ける彼を前にして、込み上げてきた感情はとても一言で言い尽くせるものではなかった。哀しみでも、寂しさでも、苦しさでもある、色んなものがごちゃまぜになった醜い感情。そこに怒りこそ含まれてはいなかったけれど。でも、辛かったのは事実だ。遂に――思っていたよりも早く――手放す時が来てしまった、と、そう思ったから。
「なんて言えば良いのか分からないのだけれど……」
宝石の表面を、指先でそっと無でながら、レティシアは困ったように微笑む。実際、困っていた。どう説明すればちゃんと彼に伝わるのかが、分からなくて。言葉を探し探し、その都度、黄色の輝きにやさしく触れる。繊細な硝子細工を愛でるように。
「ただ……あの時の貴方の視線が、初めて向けられるものだったから……ああ私、嫌われてしまったのね、って……その、すごく表現が難しいのだけれど……それがとても……」
口を開けば開くほど目の奥がじんわりと熱を帯び、次第に視界が、静かに輪郭を溶かしてゆく。このまま俯いていては、いずれ涙がこぼれ落ちてしまう、と分かっているのに。けれど、どうしても頭を上げることが出来なくて、レティシアはぎゅっと堪えるように、唇をきつく噛み締めた。そうしながら、駄目だな、と胸の内で自嘲をこぼす。笑みを繕いたいのに、でも、情けない顔しか作れない。こんな状態では、とてもイヴァンの方を見れそうにない。
何も言えなくなって、短い沈黙が落ちる。草木の青い匂いと、土の甘い匂い、それから花々のふくよかな匂いに混じる、イヴァンの爽やかで清潔な香り。それを鼻が――或いは身体全体が――感じ取る度、彼の気配を、存在そのものを強く意識してしまい、どうしようもなく胸が締め付けられる。
あとどれくらい、この香りを、気配を、彼の存在を感じることが出来るのだろう。彼の隣で。誰よりも一番近いところで。
「――レティシア」
穏やかな声音で名前を呼ばれても、レティシアは頑なに俯いたまま、掌の上のネックレスをじっと見つめる。もう一度、今度は囁くように呼ばれても。それでもぴくりとも動かず、ただ静かに身を固まらせていると、やがて小さな吐息がこぼれるのが聞こえた。刹那、視界の端から伸びてきた指先に顎を捕らえられ、レティシアはぎょっと肩を震わせる。けれども、そんな反応などまるで気にしたふうもなく、イヴァンは親指の腹でそっと、レティシアの唇をやさしく撫ぜた。
「唇、切れちまうぞ」
言われなくても、分かっている。分かっているけれど、でも――と思うのに、声が喉に貼り付いて、欠片も出てきてはくれない。迫り上がった言葉はどれも、あぶくのように溶けて消えてゆくばかりで。力を緩めたいのに、唇へ直に伝わってくるぬくもりのせいで、却って強張ってしまう。
現金なものだ。あんなにも無機質な目を向けられた後だというのに。後を追ってきてくれたという事実に、ネックレスを心配する子犬のような顔に、あの眼差しがまるで嘘のような、いつもと同じあたたかな金色の瞳に、穏やかな声で何度も何度も名前を呼んでくれることに、心の底からこんなにも安堵し、そして胸を高鳴らせているだなんて。呆れるほど現金で、なんと単純な人間なのだろう。
「今夜の貴方、いつもより距離が近すぎると思うのだけれど……」
「そうか? いつもと同じ距離だろ」
「距離、というより、何て言うのかしら……触りたがり?」
「それは――」
とても心臓がもちそうになくて、レティシアはさり気なく彼の指先から顔を離しながら、ちらりと横目でイヴァンの双眸を見上げる。視線が絡み合うと、彼はくすりと小さく笑い、それからゆっくりとひとつ瞬いて、背もたれにゆったりと身体を預けた。
「君が離れていきそうだから、捕まえたくもなるだろ」
何を言っているの、と。おかしなことを言わないで、と笑い飛ばしたかった。軽い調子で。世間話をするみたいに。冗談を言わないで、と。だって離れていくのは私じゃなくて、貴方の方でしょう、とも――。
けれど、彼のほんのりと笑みの滲んだ、それでいてひどく真剣な瞳を見つめていると、笑い飛ばすことなどとても出来なくて。声も言葉も思考も何もかも全て奪われた後に残ったのは、離れてなお唇に灯る彼のぬくもりと、鼓膜の裏で鳴り響くうるさい鼓動だけだった。
小ぶりの噴水からちょろちょろと吹き出す雫の、水面にぶつかって弾ける澄んだ音が微かにこだます。それを聞くともなく聞きながら、レティシアはチューリップに縁取られた小路を真っ直ぐ進む。所々に吊るされたランタンと、たっぷりと降り注ぐ月光以外に、路を照らすものは何もない。静謐でありながら、でも、植物たちの生気に満ち溢れた賑やかさもある、不思議な空間。温室は、庭園とはまた違う“自然”を感じられてとても好きだ。吹き抜けてゆく風がない分、彼等の生命力をより生々しく感じられるから。
唐突に視界が開け、小路の突き当りに造られた小さな広場に辿り着く。蔓草のような装飾が施された錬鉄製の丸いティーテーブル、同じデザインで統一された二人掛けのベンチ。その片端に腰を落とし、レティシアはゆったりと背もたれに身を預けながら、静かに溜息をこぼした。仰いだ先の硝子天井から、深い紺色に沈んだ空が見える。限りなく黒に近い、けれども黒とはまた少し違う、落ち着きのある色。深海というものを覗けるのらば、きっとこんな感じなのかもしれない――と、まるで別のことを意図的に考えながら、レティシアはそっと微笑んだ。夜空は――というより、空そのものは――、やはり硝子を通してではなく外で見る方がとびきり美しい。
大広間のある建物からは離れているせいか、それとも分厚い硝子に隔たれているからか。ヴァイオリンやフルートの華やかな音色も、人々のたてる喧騒もまるで聞こえない。アーチ型の大きな窓から漏れるシャンデリアの煌々とした明かりも、此処までは届かない。それでも、気を付けていないと意識は簡単にあの場所へ引き戻されてしまう。イヴァンは今頃、ミリーと一緒にいるのだろうか。無事大広間に送り届け、その後は――。
ふるふるとかぶりを振り、レティシアは深く吸い込んだ息を細く長く吐き出して、徐に首の裏側へ手を伸ばした。指先の感覚だけを頼りに留め具を外し、ふっと力の緩んだネックレスを両手で包み込むようにして持ち上げる。決して派手ではないけれど、だからこそ中央に据えられた黄色の宝石が一層輝かしく見える意匠は、何度見てもうっとりするほど素晴らしい。力強く陽気な、太陽のきらめきにも似た美しさ。それをより際立たせる完璧な仕上がりを初めて目の当たりにした時には、心から喜びが湧き上がったものだ。
――それ、漸くつけてくれたんだな。
そう言われた時、まるで記憶が、あの時の感動が伝わったような気がして、嬉しかった。ひと目で気付いてくれたことも、彼が忘れていなかったということも。遠く離れていても、滅多に顔を合わせることはなくても、それでも積み重ねてきた思い出のひとつひとつを、今でもずっと色褪せることなく共有出来ているという感覚が、甘い蜜となって胸を満たし、心をやさしく包み込んでくれた。
けれど、それももう――。深々と溜息をつき、レティシアは持ち重りのするネックレスを視界から遠ざけ、包み込んだ両手ごと腿の上に置いた。ドレスの布地が、ひんやりとしていて気持ちが良い。自分自身が、過去の何処でもない、今この瞬間の此処にいるのだと教えてくれる。
暫くの間、ぼんやりと植物たちを眺めていた。白や緑やピンクや紫や、品種も姿形も何もかもが異なる草花や木々たちを。兎に角、何も考えないように努めて。そうしていないと、目の奥のつんとした痛みに引き摺られて、涙が溢れ出してしまいそうだった。ミリーの嘘でも、彼女が聞いたという主神のお告げでもなく――あの無感情な金色の瞳と、今頃ふたりで笑い合っているのかもしれないという、不確かな想像のせいで。
馬鹿だなあ、と思う。ちぐはぐだ、とも。彼を渡したくなかったのなら、ミリーのように縋り付けば良かったのだ。そんなことはしていない、と、彼女の言葉を否定して。でも、そうはしなかった。あまつさえ、ミリーを大広間まで送り届けてほしいと頼みさえしてしまった。
「何をしてるのかしら、私……」
ぼそりと独り言ち、レティシアはゆっくりと上を向く。襟足が地を向き、肩に垂れた髪の毛がするするとこぼれ落ちてゆくくらい、ぐっと。一面に硝子の張られた夜空を眺めようと真上を仰ぎ見た刹那、しかしその視界に映り込んだのは煌々と輝く星でも、ぽっかりと浮かぶ丸い月でもなく――夜なのに昼の訪れを告げるような、あたたかな太陽だった。
「――見つけた」
何が起きたのかすぐに理解出来ず、レティシアは呆然と目を瞬かせる。此処にないはずの、けれど確かに此処に――視線の先に――存在する金色の瞳を見つめながら。覗き込むようにして落ちるやさしい眼差しを、どう受け止めれば良いのか分からず、半開きの間抜けな唇の間から、意味をなさない吐息だけが咄嗟にこぼれ出た。
どうして――。じわりじわりと頭が追いついてくるにつれ、レティシアは瞬かせていた目を、少しずつ見開かせる。そんな彼女を見下ろしながら、彼はくすりと楽しげに笑って、前髪の間から覗くレティシアの額を、とん、と指先でやさしく弾いた。
「ちょっ……!」
「間の抜けた顔だな」
その軽い痛みで漸く我を取り戻したレティシアは、大袈裟なほどに身体を震わせ、飛び跳ねんばかりの勢いで振り返った。掌にのせていたネックレスが、さらさらと、小さな音を奏でる。
「どうして、此処に……」
「どうしてって、そりゃあ君を追いかけてきたからに決まってんだろ」
くすくすと笑いながら、ベンチの空いた片側に腰を下ろしたイヴァンは、しかしレティシアの手に包まれたネックレスを目に留めた途端、眉尻を下げて、くしゃりと表情を歪めた。怒っているというより、それはまるで――叱られた子犬のような顔。
――殿下って、大型犬みたいだと思いませんか。レティシア様の前だと、大きな尻尾をぶんぶん振ってるのが見える気がするんですよ。臣下の中には、獅子だと言う奴もいるんですけど。でも私は、やっぱり大型犬だと思うんですよね。いやまあ、獅子にも尻尾はありますけど。
クロエに釣りの仕方を教えるイヴァンを眺めながら、串に刺された焼き魚を片手にそう語っていたケレムの言葉が、ふと蘇る。尻尾を振っているのかどうかは、分からないけれど。しかし今にも悲しげな、或いは淋しげな鳴き声が聞こえてきそうなその顔は、確かに大型犬――の子ども――みたいだ、と思う。本人に言えば、きっとムキになって否定するだろうけれど。
「それ、捨てるつもりか?」
「捨てる? 何故?」
イヴァンの問い――というより、思考回路そのもの――が理解出来ず、レティシアはきょとんと小首を傾げた。
「何故、って……さすがにさっきのは怒るのも当然だろうから、それで……」
“さっき”というのが、額を弾いたことではなく、それよりもずっと前の――中庭での一件のことを指しているのだと気付き、レティシアはふっと、吐息のような苦笑をこぼす。おかしなことを言うものだ。徹底した演技で嘘を撒き散らしていたミリーに対して怒るならまだしも、真実を知らぬままそれを聞かされていただけのイヴァンに、どうしてそんな感情を抱けようか。
「怒ってなんかいないわ」
そう言いながらイヴァンから逸した視線を手元へ落とし、レティシアは掌の上できらきらと輝く黄色い宝石を、じっと見つめる。あの時の――ミリーに腕を絡められ、感情のまるでない眼差しを向ける彼を前にして、込み上げてきた感情はとても一言で言い尽くせるものではなかった。哀しみでも、寂しさでも、苦しさでもある、色んなものがごちゃまぜになった醜い感情。そこに怒りこそ含まれてはいなかったけれど。でも、辛かったのは事実だ。遂に――思っていたよりも早く――手放す時が来てしまった、と、そう思ったから。
「なんて言えば良いのか分からないのだけれど……」
宝石の表面を、指先でそっと無でながら、レティシアは困ったように微笑む。実際、困っていた。どう説明すればちゃんと彼に伝わるのかが、分からなくて。言葉を探し探し、その都度、黄色の輝きにやさしく触れる。繊細な硝子細工を愛でるように。
「ただ……あの時の貴方の視線が、初めて向けられるものだったから……ああ私、嫌われてしまったのね、って……その、すごく表現が難しいのだけれど……それがとても……」
口を開けば開くほど目の奥がじんわりと熱を帯び、次第に視界が、静かに輪郭を溶かしてゆく。このまま俯いていては、いずれ涙がこぼれ落ちてしまう、と分かっているのに。けれど、どうしても頭を上げることが出来なくて、レティシアはぎゅっと堪えるように、唇をきつく噛み締めた。そうしながら、駄目だな、と胸の内で自嘲をこぼす。笑みを繕いたいのに、でも、情けない顔しか作れない。こんな状態では、とてもイヴァンの方を見れそうにない。
何も言えなくなって、短い沈黙が落ちる。草木の青い匂いと、土の甘い匂い、それから花々のふくよかな匂いに混じる、イヴァンの爽やかで清潔な香り。それを鼻が――或いは身体全体が――感じ取る度、彼の気配を、存在そのものを強く意識してしまい、どうしようもなく胸が締め付けられる。
あとどれくらい、この香りを、気配を、彼の存在を感じることが出来るのだろう。彼の隣で。誰よりも一番近いところで。
「――レティシア」
穏やかな声音で名前を呼ばれても、レティシアは頑なに俯いたまま、掌の上のネックレスをじっと見つめる。もう一度、今度は囁くように呼ばれても。それでもぴくりとも動かず、ただ静かに身を固まらせていると、やがて小さな吐息がこぼれるのが聞こえた。刹那、視界の端から伸びてきた指先に顎を捕らえられ、レティシアはぎょっと肩を震わせる。けれども、そんな反応などまるで気にしたふうもなく、イヴァンは親指の腹でそっと、レティシアの唇をやさしく撫ぜた。
「唇、切れちまうぞ」
言われなくても、分かっている。分かっているけれど、でも――と思うのに、声が喉に貼り付いて、欠片も出てきてはくれない。迫り上がった言葉はどれも、あぶくのように溶けて消えてゆくばかりで。力を緩めたいのに、唇へ直に伝わってくるぬくもりのせいで、却って強張ってしまう。
現金なものだ。あんなにも無機質な目を向けられた後だというのに。後を追ってきてくれたという事実に、ネックレスを心配する子犬のような顔に、あの眼差しがまるで嘘のような、いつもと同じあたたかな金色の瞳に、穏やかな声で何度も何度も名前を呼んでくれることに、心の底からこんなにも安堵し、そして胸を高鳴らせているだなんて。呆れるほど現金で、なんと単純な人間なのだろう。
「今夜の貴方、いつもより距離が近すぎると思うのだけれど……」
「そうか? いつもと同じ距離だろ」
「距離、というより、何て言うのかしら……触りたがり?」
「それは――」
とても心臓がもちそうになくて、レティシアはさり気なく彼の指先から顔を離しながら、ちらりと横目でイヴァンの双眸を見上げる。視線が絡み合うと、彼はくすりと小さく笑い、それからゆっくりとひとつ瞬いて、背もたれにゆったりと身体を預けた。
「君が離れていきそうだから、捕まえたくもなるだろ」
何を言っているの、と。おかしなことを言わないで、と笑い飛ばしたかった。軽い調子で。世間話をするみたいに。冗談を言わないで、と。だって離れていくのは私じゃなくて、貴方の方でしょう、とも――。
けれど、彼のほんのりと笑みの滲んだ、それでいてひどく真剣な瞳を見つめていると、笑い飛ばすことなどとても出来なくて。声も言葉も思考も何もかも全て奪われた後に残ったのは、離れてなお唇に灯る彼のぬくもりと、鼓膜の裏で鳴り響くうるさい鼓動だけだった。


