婚約破棄された出戻り令嬢の、しあわせな結婚について

 貴族の結婚に愛は必要ない、と思っていた。それが当たり前であり、貴族の娘として生まれたのならば、家門の安泰と繁栄の為に、己が身を捧げるのもまた宿命である、とも。

 だからだろうか。婚約者の唇が見知った女のそれと重なっている、という、そんな光景に出くわしても、心が凪いだままでいるのは。

 普通の人ならば、何かしら胸を痛めるものなのだろうか――そうぼんやりと思いながら、レティシアはゆっくりとひとつ瞬く。青白い月明かりに照らされた静謐な回廊、幾重にも連なった葉擦れの音、頬を撫でるようにやさしく流れてゆくしっとりとした夜風。

 刺繍のたっぷりと施されたドレスの裾を慌ただしく翻し、女が小さな悲鳴を上げた。なんともわざとらしい――演技がかったような――声に聞こえたのは、果たして気の所為だろうか。彼女はゆるゆると持ち上げた右手で、つい今しがた離したばかりの口元を隠すと、長くくっきりとした睫毛を震わせながら僅かに目を伏せた。

「あ、あのっ、私っ……」

 一歩後退ったか細い身体がゆらりとよろめき、薄い紫色の髪の毛が波を描くように揺れる。すかさず傍らから伸びてきた腕がその華奢な肢体を抱き留め、崩折れてしまいそうな彼女をすっぽりと包んで、逞しい胸板に引き寄せた。まるで悪者から護ろうとするかのように。

 何故こんなことになってしまったのだろう。これは私が悪いのだろうか。

 次から次へと湧き上がってくる疑問が、ぐるぐると頭の中を駆け回る。王族主催の宮廷舞踏会。煌々と灯されたシャンデリアの下で踊り、喋り、グラスを交わし、やがてそれら一通りの社交に辟易として、休憩がてら外の空気でも吸おうと回廊に出てきた――という、ただそれだけだったのだけれど。

 まさかそこで、婚約者と浮気相手の密会現場を目撃してしまうだなんて。

「ど、どうかお許し下さい、レティシア様っ……!」

 大きな瞳いっぱいに涙を滲ませた女が、幾度も謝罪の言葉を口にしながら、胸の前で両手を組む。その仕草は、どこか舞台の上の所作めいていて、崩れる寸前の睫毛の角度までもが、計算され尽くしているようにさえ見える。

 そんな彼女の胸元で、豪奢な首飾りが、月光を弾いてきらりと輝いた。細いチェーンに惜しげもなくあしらわれた真珠やアメジスト、小粒のダイヤに縁取られたメダイユに浮き彫りされた主神像。

 最近よく目にするようになったそれは、しかしこの国の頂きに君臨する王でさえ身に着けることの許されない、至極貴重なものだ。唯一それを手にし得るのは、主神に認められた御子――つまりは聖女だけであり、聖女を聖女たらしめる証左でもある。

「どうして君が謝るんだ、ミリー」

 これもまた、神の思し召しなのだろうか。聖女――ミリーを抱く腕にぎゅっと力を込め、射抜くように睨め付けてくる男の視線を受け止めながら、レティシアは呆れを含んだ溜息を胸の内でそっと吐き出す。なんという茶番だろう、と思った。まるでロマンス小説の一場面に立ち会っているような感覚だ、とも。

「何故お前が此処に居る」

 苛立ちを隠そうともしない彼の、刺々しく剣を含んだ声を前にしても、レティシアの心は不思議と落ち着いていた。眼前で違う女を抱いている――あまつさえ口付けまで交わしていた――男が、将来を誓い合ったはずの婚約者であり、ゆくゆくはこの国を背負う未来の王であると分かっていても。それでも風波ひとつ立たない胸中は、ひどく静かなものだった。自分自身でも驚くほどに。

 思えば、予兆のようなものは幾つもあった。以前は年に一度の祭典の折にしか訪れることのなかった聖堂に、ミリーが現れてからというもの、政務の合間を縫って足繁く通うようになったり。ふたりだけの食事会に、何故かミリーを誘うようになったり。

 護衛騎士も侍女も随分と困惑しているようだったが――もしかしたらあれは、全てを知った上での動揺だったのかもしれない、とレティシアは思う。婚約者がいながら、別の女を堂々と特別扱いすることへの、そしてそこに含まれる感情への戸惑い。

「少し夜風に当たろうと思っただけですわ。……お邪魔をしてしまったようで、申し訳ございません」

 そう言って、ふっと苦笑をこぼしたレティシアに、彼――アルバートは忌々しげに目を眇める。レティシアの知る限り、彼は短気な性格ではないはずだけれど、しかしどうやら今はそうではないらしい。護りたい者が傍にいるからだろうか。大事な人が、己の腕の中で震えていれば、誰しもそうなるのかもしれない。

 けれどおかしな話だ、と、レティシアは夜風に揺れる髪を片手で抑えながら思う。アルバートの婚約者は他ならぬ自分であるのに、彼が抱き締めているのはミリーであり、彼が護ろうとしているのもまた彼女で。幼い頃から何年も共に過ごし、国王にも認められている正式な婚約者であるはずのレティシアの方が、この場所では間違いなく悪役の立場に置かれている。婚約者がいる男に手を出した女でも、婚約者がいながら他の女と口付けを交わした男でもなく。ただそれを目撃してしまっただけの“婚約者”が、まるで咎人のように異物扱いされている。

 本当は怒るべきなのだろう。何をしているのだ、と声を荒げて。或いは、泣くべきなのかもしれない。アルバートの腕の中で、まるで宝石の粒のような涙をぽろぽろとこぼすミリーのように。しかしそのどちらも、レティシアの心情とは程遠かった。

「閉幕の挨拶までには、どうかお戻り頂けますと」

 一際強く吹き抜けた夜風が、薄闇に包まれて眠る木々たちを、かさかさと揺らす。何処か遠くの方で、梟の鳴く声が聞こえてきた。それに絡まるようにして微かに流れてくる、ヴァイオリンやフルートの艷やかな音色。大広間では今頃、紳士淑女が華やかに、談笑やダンスに興じているに違いない。公爵も、騎士団長も、大臣たちも。――その少し離れた場所で、まさかこんな修羅場が繰り広げられていることなど、露知らず。

 これ以上この場に居たところで、何の意味もない。ただ夜風に当たって、少し休みたかっただけだ。ふたりの邪魔をしにきたわけでは、無論ない。そもそも、彼等がこそこそと示し合わせて、こんなところで逢瀬をしているなどとは知らなかったのだから。

「それでは、失礼いたします」

 ドレスの端を摘み、足を折って一礼する。そのまま踵を返して、早々に場所を移そうとしたレティシアだったが、しかしそんな彼女の横顔に、アルバートの、一層鋭く研がれた視線が無遠慮に突き刺さった。

「お前のそういうところが――」

 一瞬の、沈黙。風がやみ、葉擦れの音も夜鳥の声も聞こえない、水を打ったような静けさ。互いの呼吸音さえも耳に届きそうなその静寂を壊さぬよう、レティシアはゆっくりと振り返る。真っ直ぐに向けられる、燃え滾る炎のような赤い瞳。大人になってからというもの、一度も婚約者を正面から見つめることのなかったその瞳が、今、レティシアを冷たく捉えている。

 どちらからともなく、息を吸った――その瞬間。大広間の方から、夜の帷を引き裂くような合奏が轟いた。空気を震わせるような、はたまた地を突き上げるようなその音は、見つめ合うふたりの間を駆け抜け、薄氷のように横たわっていた沈黙を打ち砕いた。

「俺は、お前のそういうところが、心底嫌いなのだ」

 嫌い――。真っ向から投げつけられたその言葉に、レティシアは呆然とする。“そういうところ”と言われても、思い当たる節は何もない。それとも、自覚がないだけで、他者からすれば、非難されるようなところがたくさんあるのだろうか。

 正直なところ、それは否定出来ない。けれど今この状況で、それを言われるのは甚だ理解出来なかった。偶然出くわしはしたけれど、ただそれだけだ。憤怒を露わにしたわけでも、泣き叫んだわけでも、ましてふたりの仲をどうとしたわけでもない。寧ろ早々に立ち去ろうとしていたのに、それを引き止めたのは彼の方だ。

「ア、アルバート様っ……」

 ぐすっ、と鼻を啜りながら、ミリーがアルバートの胸板に縋り付く。上着に添えられた白く細い指が、微かに震えている。水色の瞳はしとどに濡れ、小さな涙の欠片が睫毛に貼り付いていた。

 庇護欲を唆られる、か弱い女性――。今の彼女の姿は、まさにそれだった。きっとアルバートだけでなく、誰しもがミリーを護りたい衝動に駆られるだろう。騎士たちも、大臣たちも、そして枢機卿たちも。

「君は何も心配しなくて良い、ミリー」
「ですが……いけないのは私なのです。私が貴方様を好きにさえならなければっ」
「大丈夫だ。悪いのは君ではない」

 嗚咽を漏らすミリーの、なめらかな長い髪を梳いてやりながら、アルバートはやさしい眼差しで、彼女の濡れそぼったかんばせを見つめる。そのぬくもりに満ちた瞳は、レティシアの知らないそれだった。長年共にいながら、しかし、ついぞ向けられることのなかったもの。

「安心してくれ、ミリー。君に後ろめたい思いはさせない」

 そう言って、アルバートは愛しい女の背中を撫でると、傍らに佇むレティシアへと漸く視線を移した。その目にはもう、先程までの慈愛は微塵もない。

「レティシア・ブランシャール」

 炎のように赤い色をしていながら、その実、まるで氷のように凍てついた瞳が、すっと、研がれた刃の如く細まる。眉間には、深い皺が寄っていた。彼の内に滾る怒りを、増悪を、軽蔑を表すかのように。

「今この瞬間、お前との婚約を破棄する」

 躊躇いのない、きっぱりとした口調でそう言い放ったアルバートに、レティシアは僅かに目を見開いた。落胆でもなければ、悲哀でも、憤慨でもなく、ただ純粋な驚きによって。驚愕というより、唖然とした、と言った方が正しいのかもしれない。

「アルバート様……! それではレティシア様がっ」
「俺が愛しているのは君だけだ、ミリー。そもそも、レティシアとの婚約は俺の意思ではない」
「ですが……神は私たちをお許しになど……」
「君と共にいれるのなら、神などどうでも良い」

 主神の御子である聖女に対し、“神などどうでも良い”と臆さず言い切れるアルバートに、レティシアは場違いにも感心してしまう。枢機卿たちが耳にすれば、目を丸くして、或いは大慌てで発言の撤回を求めるに違いない。いくら王族といえど、宗教が深く浸透したこの国では、主神を貶めるような言葉は許されないのだから。

 それにしても――。レティシアは胸の内で密かに溜息をこぼしながら、ミリーの、そっと持ち上がった口角を見つめる。それにしても、いったい何を見せられているのだろうか。此処はロマンス小説の中だっただろうか。

「……そろそろお暇しても宜しいでしょうか」

 やんわりとした口調でそう告げ、レティシアは小さな笑みを滲ませる。いい加減、ひとりになりたかった。傷心故ではなく、いつまでも面倒事に関わっていたくなくて。

「婚約は、家同士の結びつきでございます」

 だから、出来るだけ穏便にこの場を遣り過そうと、レティシアはそっと笑みを深める。これ以上ミリーを泣かせれば、アルバートを刺激しかねない。それだけは避けねばと、努めて平静に口を開く。

「私の一存でお返事出来ることではありませんので――」
「お前のその完璧なところが、人形じみていて嫌いなのだ」

 しかし、そんなレティシアの努力も虚しく、アルバートは侮蔑を孕んだ声でそう吐き捨てた。彼の胸に顔を寄せるミリーの目尻から、大粒の雫がぽろりと滑り落ちる。細められたその目は、けれど哀しんでいるというより、まるで嗤っているかのようで

 完璧、人形――。鼓膜に突き刺さったその言葉を反芻しながら、レティシアはそこで漸く、腹の底が、静かに熱を持つのを感じた。何も知らないくせに、と。或いは、知っていながら、わざと目を背け続けてきたくせに、と。

 貴方はいったい、私の何を見てきたのだろう。

 そんな一抹の虚しさが胸を過った刹那、ふと頭の中に、やわらかな、それでいて力強い黄金が美しくきらめいた。風に靡く艷やかな銀髪、心地の良い低い声、屈託のない溌剌とした笑顔。

 ――レティシア。

 太陽が恋しい、と思った。そう思うのと同時に、常識や慣習ではなく、愛を選ぼうとするアルバートやミリーが羨ましい、とも。