明治あやかし遊郭

「みなさん、お昼にいたしましょう」

 開店と同時に駆け込んできた客の足も収まった昼時、イツ禍が赤子を抱えて幽世からやってきた。
 まだ名もつけられていない赤子はふにゃふにゃと時折体を揺らしつつも、イツ禍の腕の中で眠っている。天はその様子を他人事のように見ていた。

「生まれたての赤子は常に寝ています。正常ですよ」
 
 天の目線を心配と受け取ったのか、いつかは穏やかな笑みとともに赤子を渡してくる。首も座らぬ柔らかい体はほんの少しの切欠で壊れてしまいそうなほど脆く、天は恐怖した。

「……先、ご飯いただいてええ?」

 天は嘘をついた。朝食を十分とったから、あまり腹は減っていない。そんなことよりも赤子から離れたかった。
 イツ禍は笑みを浮かべたまま「はい」と言って、それ以上は求めない。

「赤子の世話は好きですから。私がこのままお世話しますね」

 それどころか赤子の世話を積極的にしようとしてくれている。名もつけていなければ、生んだ時に抱いたきりまともに顔も見ていない。そんな天にも、イツ禍は異常なまでに優しかった。

「イツ禍はかつて人と暮らしていたのだ。赤子の世話もたくさんしていたなあ」

 禁が教えてくれる。彼も子供が好きらしい。赤子を起こさぬように優しく触れながら慈愛に満ちた目で見つめている。

(私のほうが、よっぽど鬼やな)
 
 意地を張って産んだのに、いざ産み落としたら触れるのが怖いだなんて――
 妖のほうがよほど子供の面倒を見ていると心の中で自嘲しながらも、天は赤子のほうを向けなかった。

【あばずれ】【穢れた子】【貧乏人】【極道の玩具】そんな汚らしい言葉が脳裏をかすめる。誰かに言われた言葉もあるし、自分でずっと思っている言葉もある。そんな自分が、無垢な塊に触れていいはずがない。

「ごはんごはん!!」

 猗が明るく膳を持ってきた。膳の上には白い食器にオムレツと卵サンドが添えられている。横浜の一等地の花屋らしいハイカラな食事に、天の腹は待ってましたと言わんばかりにぐうと鳴く。

「天サン、たくさん食べてくださいね! ――あっ」
「なんや」

 猗はニコニコと差し出した皿を突然引っ込めると、あれも、これも……と食事とにらめっこして、嗚呼! と嘆く。

「全部幽世の食材だった。朝餉はちゃんと現世の食材にしたのにな……。すみません天サン。猗、現世(こっち)でチョット買ってきますね」
「いや、それ食うよ。せっかくやし」

 慌てて下げられた皿に縋り付きながら、天は何の話だ? と言いかけた時に気づいた。
 ああ、よもつへぐいのことを気にしているのか。
 
黄泉竈食(よもつへぐい)――あの世の食べ物を口にしたら、この世に戻ってこれなくなるいう言い伝えやね。私にとっては迷信やけど」
「今はそこまで厳しくはないですけど……人ではいられなくなっちゃうかも」

 なんだ、そんなことか。天はくすりと笑った。まるで自分が、現世で人間扱いされているようではないか。体は人でも、人格を持つ人間として扱われることなど全くなかった人生。いまさら何を恐れることがある。
 天は皿から卵サンドを掴むと、ひょいと口に入れて食べた。柔らかいパンにとろりとした卵。かみしめると奥のほうからマスタードの味がぴりりとしてくる。天にとっては初めての洋食だった。

「う、美味い…!」
「それは良かった。犲も喜ぶだろう」
 
 からからと禁が笑う。蛮勇を見せて何か気の利いたことを言ってやるつもりだったが、あまりの美味さに思考が持っていかれる。出産直後の勤労で疲れていたこともあり、気づけば天にと差し出された皿は空になっていた。
 
「覚悟はできとるよ」
「ははは! 頼もしいな!」

 ごくりと最後の一口を飲み込んで、猗に宣言する。母になる覚悟はないが鬼になる覚悟はある。

(きっと、母より鬼のほうが、ずっと楽や……)

 そこまでは言わなかったが、心の中でぽつりとつぶやいた。
 
「いいんですかあ~。まあ、人魚の肉よりはましか。あっちは不老不死……」
「猗」
 
 猗が何か言いかけた時、イツ禍がピシャリと言葉を止める。いつも優しいイツ禍の突然の低い声に、赤子が一番驚いていた。ふにゃふにゃとぐずったかと思ったら、大声をあげて号泣する。店の外まで轟かんばかりの大音量に、天は思わず耳をふさいだ。

「ああ。ごめんなさい。私たちはそろそろ幽世に戻りますね」
「あ、イツ禍さん……」

 猗が謝るよりも先にイツ禍は去って行ってしまった。しょんぼりと肩を落とした猗は捨てられた子犬のよう……だったがすぐに気を取り直して明るく振舞っている。どうやら猗という猫又はかなり強かな性格のようだ。

「でも赤子は現世の食事のほうがいいでしょうね。ちょうどいいや、天サン。お遣いついでに買い出し行ってきてくれません?」
「え、ええけど」
「我も行こう。昨日の今日でひとりで歩くのは危うい」
 
 猗はパンパン、と手を叩いて場を仕切りなおすと、早口であれやこれやと用事を申し付けてくる。
 花の配達、赤子用の食事の買い出し、猗が欲しいもののお使い……などなど、容赦のない指示に天はたじろぐが、禁がついているので荷物持ちは大丈夫だろう。

「我も現世を巡るのは初めてだ!」
「遊びとちゃうよ」

 自分を追う極道のことは気になるが、守りたい赤子は幽世で静かに寝ているはずだ。
 初めての現世に目を輝かせている禁を連れて、天は買い物に向かった。