明治あやかし遊郭

「では、お手並み拝見していただきましょう」

 天はそう言うと稚菜の前に膝をつき、腕を取る。
 柔らかい布で花椿が刻まれた丸い石鹸を揉みこみ、静かに泡を立てる。

「良い匂いだ」

 風呂場の温かさと花の香りにまどろんで、稚菜の警戒心がほぐれる。
 天は静かに笑うと、泡の付いた布を稚菜の腕にこすりつけながら穏やかに話した。
 
「でしょう? 国産の花椿石鹸。兄さんとすごす今日のために買うたんですよ」
「採算が合わぬだろう」
「ここは教育場ですんで、採算度外視――ふふっ、風呂場で言うことやありまへんな」 
 
 天はそう言いながら稚菜の腕をこすり、前を清める。下半身には触らない。まずは稚菜の緊張をほぐさなければ、性の手ほどきはできない。

「あら、凝ってはる」
 
 稚菜のがちがちに凝り固まった肩に触れると、天は静かに笑った。
 堅い筋肉に親指を当て、肩の内側に潜るようにゆっくりと指を静める。ぐっと押して、少し留めて、じわ……っと円を描く。

 稚菜の肩が小さく震える。
 その震えを、逃がさないように包み込んで、天はさらに手を深く入れる。凝りそのものの芯を探し当てるような動きに、稚菜は痛さと気持ちよさが同居して謎の奇声を上げる。

「うぐー! 気持ちよくない! 気持ちよくない!」
「かたすぎて、石やと思いましたわ」
「拙者は凝ってない! こんなのよくない!」
「素直になりゃあええのに」

 口では抵抗する稚菜だが、天の手が離れぬよう、無意識に背を預けていた。
 ごりっ、と小さな音がした。そこを天は逃さず、ねっとりと揉み解す。ひとまわり、ふたまわり。
 すると、肩が、ふっと沈んだ。稚菜の息も、知らぬ間に長く抜けていた。
 さっきまで固かった肌が、じんわりと柔らかくなっていく。

 稚菜の緊張はだいぶほぐれ、天に心を赦しつつある。
 
 それを見て、天は稚菜の背中にぴとりと胸を押し当てる。

「な、何をする!?」
「体を清めます。次は、お背中」

 天は紗襦袢に軽く石鹸をこすりつけると、そのまま体をすり合わせるように稚菜の背中を清める。
 軽く動く度、天の火照ったからだが稚菜の冷たい体を温めていく。
 泡のおかげで滑る肌同士を密着させると、稚菜の体がだんだんと熱くなっていく。 
 
「湯女の真似事をするな! 穢い……!」
「何をおっしゃる。体は綺麗になってはりますよ」

 天の心臓の音が、稚菜の背中越しに聞こえてくる。早鐘を打つような鼓動に、天も緊張と興奮をしていることが伝わった。

「無理をするなっ! 貴様は素人だろう」
「あら、これでも一人客をとってますよ」
「素人同然だ!」

 雑念を振り払うように首を振る稚菜だが、神経は背中に集中する。天が動く度やわらかい体が背中を這い、時折突起が背をこする。生々しい感触が、稚菜の興奮を促す。

「穢い、穢い――!!」

 だが、稚菜はその興奮に身を委ねることはできなかった。
 ぎゅっと目を瞑って心を落ち着かせる。

 暗闇の中で思い起こすのは彼が生まれた日、江戸初期の風呂場。

 ◇ ◇ ◇

「きゃああ! 垢嘗めが出た!」

 客取りの風呂屋で、湯女の叫び声と共に、垢嘗めは生まれた。
 陰でしかなかった”それ”は垢嘗めとしての形を帯び、人々が想う形と成って、風呂場の垢を嘗める妖怪と化した。
 
「あら、今日は風呂場が綺麗」
「垢嘗めでも出たんじゃない?」

「こら! 子供があの風呂屋には行けないよ!」
「なんでさ! おねえはここで働いてるのに」
「垢嘗めが出るよ!」
 
 人を襲わぬ垢嘗めは、出会いたくないが恐れられてもいない。
 たまに風呂場が綺麗だと、きっと垢嘗めが出たんだ、と。
 子供が風呂屋に興味を持つと、垢嘗めが出るからおよしなさい、と。
 人のいいようにその名を使われてきた。
 
 だが、それが垢嘗めには心地よかった。
 人と妖。決して共存できぬ関係であるというのに、垢嘗めの存在は人に認められていた。
 穢れを嘗める気持ち悪い妖怪、それでいい。
 そうやって思ってくれているだけで、垢嘗めは形を保てるし、何より人と共に居られる。
 この風呂場が好きだった。客も湯女も三助も、みな楽しそうに働いている。

 これからもずっとそうなのだと思っていた。

 あの娘を見るまでは――
 
「ああ……ああ……」

 とある深夜、しくしくと風呂場の隅で泣く女を見た。

「稚菜! いつまでも泣いてたってしょうがないだろう」
「湯女の仕事なんて、みんな訳アリでやってるんだ。アンタも慣れちまいな」

 周りの女がその娘をなだめているが、娘は体をぎゅっと縮こませて、やはりしくしくと泣くだけだった。

「あたし、穢れちまった」

「風呂屋ってのは、あたしらにとっちゃ穢れる場所だよ」
「さっさと股あらって寝ちまいな。体が冷えるよ」
 
 女たちはぶっきらぼうだが優しさがある。呆れたようにそう言うと、泣く娘に布を被せてひとりにしてやった。
 ひとりになっても娘はぐずぐずと泣いていて、垢嘗めが垢を嘗める暇もない。
 呆れた垢嘗めはこっそりと背後に忍び寄り、稚菜の”穢れ”を嘗めてやった。

「ぎゃああ! 垢嘗め!!」

 娘は礼のひとつも言わず、ごつん! と垢嘗めを風呂桶でぶん殴ってその場を去る。
 己の体が清らかさを再び得たことも、それが垢嘗めのおかげだとも知らず、走り去る娘を見て、垢嘗めはほんの少しだけ満足感があった。

「この風呂場は拙者の家だ。穢い場所であるはずがない」

 あの娘もきっとそう思ってくれるだろう。
 だが、その期待はあっけなく砕かれた。
 
「垢嘗めさま、垢嘗めさま。また清めてくださいまし」

 あの娘は再び穢れ、悲しい笑顔で垢嘗めを求めるようになっていった――