明治あやかし遊郭

「私は桃と共に帰ります。お二人はごゆっくり」

 桃の体を布でくるんで、湯冷めせぬよう温めながら、イツ禍は天と禁に問いかけた。入浴着で桃の沐浴指導をしただけのイツ禍は一切濡れておらず、着物を軽く羽織っただけですぐに着替えが完了した。

「そんなに甘えてもええんかね。うちの子やのに」
「”うちの子”のお世話もしていただいていますから」

 イツ禍が指さす先には、”大きな子供”の禁が風呂ですうすうと寝息を立てている。「溺れ死なぬよう見張ってやってください」と言葉を残して、イツ禍は去って行った。

「……混浴、か」 
 
 天はしばし逡巡したものの、そもそも出産時にあれやこれやすべて見せているのだ。今更かと開き直って、脱衣所に戻って服を脱いだ。入浴着の下には何も纏っていない。雪のように真っ白な肌を、申し訳程度に手拭いで隠して風呂場へと戻った。
 風呂には銭湯らしく、富士と鷹と茄子の絵が描かれている。

(鷹に富士なら恰好つくのに、なんで茄子なんやろう――)

 昔誉に答えを教えてもらった気がするが、閨の睦言などとっくに忘れてしまった。それどころか、俺の茄子も握れやととんでもない下ネタで返されたことの方が良く覚えている。
 
(まあ、今はそんなことよりも)

「こら、寝たらあかんよ」
「んん~。温くて心地よい」
「温いん? ってアチッ! 熱いやんけ!」

 人間の天には熱い湯だが、鬼の禁には心地よいのだろう。慌てて水を被って脚を冷やすと、目を覚ました禁がからからと笑っていた。天が裸であることも、己が裸であることも何も感じていないのだろう。まるで子供同士の入浴かのように、禁からは熱のある視線はやってこない。

(……色気づいた私が阿呆みたいやな)

 そう言えば、鬼の禁は性がわからぬと言っていた気がする。裸の男女がふたりきり、風呂場でひざを突き合わせても何も感じぬとは……。天は自分の魅力がなくなったのかと少し落ち込んだ。

「熱いなら水を入れよう。客は我らしかおらぬ、誰も何も言わぬだろう」

 天の心など露知らず、禁は全裸のまま湯船から上がり水を探す。「隠せ隠せ」と天が騒いでも、理由もよくわかっていないようだった。
    
「温度は変えんでええ。ここで引いたら濱っ子がすたる」
「江戸っ子みたいに言うでない」

 禁の態度が癇に障って、天はそのまま湯に足をつける。熱い湯がびりびりと脚を苛むが、我慢できないほどではない。意地になっている天を見て、禁は呆れ顔だ。
 
「……ん、お主、横濱の子なのか?」
「せやで? 生まれも育ちも横濱や」

 天は我慢しながら湯につかり、禁の隣に腰を掛ける。熱すぎる湯だが、慣れればだいぶ心地よい。そして確かに眠くなる。

「それにしては訛っている」
「ああ、これか。これは誉はんが自分に合わせろって……」

 まどろみながら禁の胸に頭を預けると、要らぬことも口を突いて出る。しまった、と思った時にはもう遅かった。

「誉? お主の愛人の極道か?」
「ああ、いらんこと言うた……」

 禁は目を輝かせて興味津々と言った様子で天の顔を覗き込む。

 誉――かつて天を飼っていた極道。若いながらに組長をはるだけあって、破天荒で女好き。天の他にも愛人は沢山いたが、奴は天が一番のお気に入りだとよく嘯いていた。

【天チャンはかわええなあ】

 そう言って何もかも奴の色に染めようとした。背中に大きな刺青を入れようとしたときに必死に抵抗したのを覚えている。

【なんや。オソロイにしたら天チャンが儂のやってすぐわかるのに】
【それが嫌やわ。別れたら生きていけへんやん】
【安心しい。その時は殺してやるからなあ】
 
 そんな些細な約束さえ、あの男は守りもしなかった。殺してくれた方が、よかったのに。
  
「教えておくれ。どんな男だったんだ?」

 誉のことを思い出すと心が遠い旅をしてしまう。禁の言葉にハッと我に返ると、禁はまだ天の過去に興味津々と言った様子だ。
 
「なんで知りたいねん」
「お前に愛を教えた男だ。すなわち性を――」
「ああ、うるさいうるさい!!」

 大きな子供の好奇心は底なしだ。そのうえ心が無いから遠慮もない。別れた男女の都合など、普通は聞きたくても聞けるものではないだろう。
 天は耳を塞ぎながら、これ以上は何も言わぬと湯船の中に口をつける。「絶対言わへんで」と叫んだ声も、湯の中でぶくぶくとした泡に変わっていく。
 
「きっと良い男なのだろうな」

 ぶくぶく。

「でも莫迦な男だ。天を手放すなんて」

 ぶくぶく。

「面倒見が良くて優しくて、器量も良い。いい女なのになあ」
 
 ぶくぶく。
 好き放題言う禁に「うるさい」「やかましい」と言い返す言葉は泡になる。禁の言葉はだんだんと天を絶賛する物に変わっていき、気を良くした天が少しずつ湯から顔を出した時だった。

【穢い、穢い】
 
 ぞわりと、背筋に悪寒が走る。

【お前は穢い】

 地を這うような悍ましい声が、ねっとりと背中にまとわりつく。
 「薄汚い女」「あばずれ」「お前など消えてしまえ」今まで何度も言われてきた罵詈雑言が、頭の中で反響する。
 
「やめ……」

 やめて。そんな言葉を遮るように、ねっとりとした熱い何かが背筋を這う。
 天は限界だった。これ以上、その言葉を聞いてはいられない。
 
「やめんかい!!!」

 怒りに任せて”後ろで天の体を舐めていた男”に肘鉄を食らわせる。「ぷぎゃ」と間抜けな声を出して男が湯の中で倒れた。
 
「なんだなんだ!」

 それはこの場にいなかったはずの男。気配さえ感じさせることなく、突如現れた不審者に天と禁は距離を取りながらその正体を確かめる。
 
「こ、こいつは――」
 
「垢嘗めだ!!!」
「変態や!!!」