華やかなドレスを脱ぎ、ゆっくりと湯船に身を沈める。
一日分の煤を洗い流すように、肩まで湯に浸かった瞬間、やっと身体の力がすとんと抜けた。
念入りに施された化粧を落とし、鏡に映る素顔を見つめる。
さっきまで煌びやかに輝いていた『妃殿下』の姿は、まるで最初から存在しなかったかのように消え去り、そこには見慣れた自分がいる。
少しだけ赤みの残る頬。見開いたままの目。
冬の気配を孕んだ夜気で冷え切っていた指先や足先が、熱い湯に包まれ、強張っていた芯がじわじわと解けていく。
血が巡る感覚が、遅れて追いついてくる。
「ふぅ……」
思わず零れた安堵の溜息が、湯気の立ち込める浴室に小さく反響した。
その音すら、今日は優しい。
今日は本当に、色々なことがあった。
十九年という歳月を振り返ってみても、これほどまでに長く、これほどまでに濃密な一日は、きっと二度とない。
思い返すだけで、胸の奥が忙しい。
湯から上がり、清潔な寝間着の浴衣を纏う。
外で待機してくれていた女中さんが、恭しく声をかけてきた。
「すみれ様。お支度が済みましたら、これより殿下のお部屋へお越しくださいませ」
「……はい……よろしくお願いいたします」
かつて一度だけ、暁臣様に抱き締められたまま、朝まで眠ってしまった夜があった。
けれど今日は、公に夫婦となって迎える、初めての夜だ。
私に……その、妻としての『お勤め』が、果たせるのだろうか……。
先ほどまでの公の場での緊張とは違う、肌を粟立たせるような、熱を帯びた緊張が、身体の奥底から静かに湧き上がってくる。
逃げたいわけではない。ただ、知らない扉の前に立っているだけ。
案内された暁臣様の寝室へ足を踏み入れると、部屋の奥にある浴室から、微かな水音が聞こえてきた。
あの方も、今、支度をなさっているのだ。
これまで私は、暁臣様を待つ時間をどう過ごしていただろう。
立ったまま控えていたか。
それとも、ソファの端に腰かけていたか。
そんな当たり前の所作すら思い出せなくなるほど、今の私の頭の中は白く塗り潰されている。
壁に掛かった時計の針は、すでに夜の十ときを回っていた。
秒針の音が、やけに大きく感じられる。
迷いながらも、整えられた大きなベッドの端に、壊れ物を扱うような手つきで腰を下ろした。
私の部屋にあるものと同じ意匠。
けれど、色使いだけが少しだけ凛々しい寝具。
シーツから漂う微かな暁臣様の香りを手繰り寄せるように、そっと顔を近づけ、深く息を吸い込む。
嗅ぎ慣れた、心を落ち着かせるお香の匂いに、張り詰めていた神経が、少しだけ凪いでいく。
仰向けに横たわり、天井の柔らかな灯りに左手をかざした。
薬指に光る円環が、闇の中でも確かにそこにあるのだと、静かに主張している。
「……本当に、綺麗……」
呟きは、誰に向けるでもなく、ただ自分の胸に落ちた。
そっと瞼を閉じると、今日一日の光景が走馬灯のように脳裏を駆け抜けていく。
荘厳で静謐な杜の中での祈祷。
重厚な十二単、清らかな白無垢、燃えるような色打掛。
そして——あの純白のドレス。
一生に一度あるかないかの美しい衣装を、一日のうちにこれほど何度も纏わせてもらったなんて。
やはり、まだどこか現実感が薄い。
纏った衣装も、指に輝く指輪も。
すべてが『無華』として疎まれてきた私には、分不相応で、過ぎたものばかりかもしれない。
けれど。
たとえ今の自分にまだ似合っていなかったとしても、暁臣様の隣に、堂々と立ちたい。
並んで歩けるようになりたい。
そう強く願っている自分を、今はもう否定したくなかった。
ほんの少しだけ……。
明日からの自分を、これまでより好きになれるかもしれない。
そんな予感が、胸の奥に静かに灯っていた。
一日分の煤を洗い流すように、肩まで湯に浸かった瞬間、やっと身体の力がすとんと抜けた。
念入りに施された化粧を落とし、鏡に映る素顔を見つめる。
さっきまで煌びやかに輝いていた『妃殿下』の姿は、まるで最初から存在しなかったかのように消え去り、そこには見慣れた自分がいる。
少しだけ赤みの残る頬。見開いたままの目。
冬の気配を孕んだ夜気で冷え切っていた指先や足先が、熱い湯に包まれ、強張っていた芯がじわじわと解けていく。
血が巡る感覚が、遅れて追いついてくる。
「ふぅ……」
思わず零れた安堵の溜息が、湯気の立ち込める浴室に小さく反響した。
その音すら、今日は優しい。
今日は本当に、色々なことがあった。
十九年という歳月を振り返ってみても、これほどまでに長く、これほどまでに濃密な一日は、きっと二度とない。
思い返すだけで、胸の奥が忙しい。
湯から上がり、清潔な寝間着の浴衣を纏う。
外で待機してくれていた女中さんが、恭しく声をかけてきた。
「すみれ様。お支度が済みましたら、これより殿下のお部屋へお越しくださいませ」
「……はい……よろしくお願いいたします」
かつて一度だけ、暁臣様に抱き締められたまま、朝まで眠ってしまった夜があった。
けれど今日は、公に夫婦となって迎える、初めての夜だ。
私に……その、妻としての『お勤め』が、果たせるのだろうか……。
先ほどまでの公の場での緊張とは違う、肌を粟立たせるような、熱を帯びた緊張が、身体の奥底から静かに湧き上がってくる。
逃げたいわけではない。ただ、知らない扉の前に立っているだけ。
案内された暁臣様の寝室へ足を踏み入れると、部屋の奥にある浴室から、微かな水音が聞こえてきた。
あの方も、今、支度をなさっているのだ。
これまで私は、暁臣様を待つ時間をどう過ごしていただろう。
立ったまま控えていたか。
それとも、ソファの端に腰かけていたか。
そんな当たり前の所作すら思い出せなくなるほど、今の私の頭の中は白く塗り潰されている。
壁に掛かった時計の針は、すでに夜の十ときを回っていた。
秒針の音が、やけに大きく感じられる。
迷いながらも、整えられた大きなベッドの端に、壊れ物を扱うような手つきで腰を下ろした。
私の部屋にあるものと同じ意匠。
けれど、色使いだけが少しだけ凛々しい寝具。
シーツから漂う微かな暁臣様の香りを手繰り寄せるように、そっと顔を近づけ、深く息を吸い込む。
嗅ぎ慣れた、心を落ち着かせるお香の匂いに、張り詰めていた神経が、少しだけ凪いでいく。
仰向けに横たわり、天井の柔らかな灯りに左手をかざした。
薬指に光る円環が、闇の中でも確かにそこにあるのだと、静かに主張している。
「……本当に、綺麗……」
呟きは、誰に向けるでもなく、ただ自分の胸に落ちた。
そっと瞼を閉じると、今日一日の光景が走馬灯のように脳裏を駆け抜けていく。
荘厳で静謐な杜の中での祈祷。
重厚な十二単、清らかな白無垢、燃えるような色打掛。
そして——あの純白のドレス。
一生に一度あるかないかの美しい衣装を、一日のうちにこれほど何度も纏わせてもらったなんて。
やはり、まだどこか現実感が薄い。
纏った衣装も、指に輝く指輪も。
すべてが『無華』として疎まれてきた私には、分不相応で、過ぎたものばかりかもしれない。
けれど。
たとえ今の自分にまだ似合っていなかったとしても、暁臣様の隣に、堂々と立ちたい。
並んで歩けるようになりたい。
そう強く願っている自分を、今はもう否定したくなかった。
ほんの少しだけ……。
明日からの自分を、これまでより好きになれるかもしれない。
そんな予感が、胸の奥に静かに灯っていた。



