信子さんを見送った後、一人残された私は、明日のために設えられた煌びやかな十二単を見上げ、座ったまま動けずにいた。
部屋の中には、誰かの気配はもうない。
それなのに、絹の重なりが放つ静かな存在感だけが、私をじっと見つめ返してくるようで、視線を逸らすことができなかった。
ほんの二年前までは、擦り切れた薄い着物一枚で、凍えるような蔵の隅に息を潜めていた。
あの絶望の底にいたときは、『無華』という烙印を押された私が、誰かの『お嫁さん』になる未来など、逆立ちしても思い描けなかった。
誰かに選ばれるどころか、数に入れられることすらなかった。
名前を呼ばれることも、期待されることもない。
ただ、邪魔にならないように、目立たないように、存在を薄くして生きていた。
……やはり、これはすべて、都合のいい夢を見ているのかもしれない。
不意に怖くなり、確かめるように自分の頬を強く抓ってみる。
けれど、緊張で感覚が麻痺しているのか、思ったほどの痛みは返ってこない。
夢なら、覚める前触れは、もっとはっきりしているはずなのに。
やはりこれは、覚める直前の長い夢なのかもしれない。
そう思った瞬間、足元がぐらりと揺れ、今にも現実ごと崩れ落ちてしまいそうになった。
「……ここにいたんだな」
背後から低く落ち着いた声が響き、はっとして振り向く。
そこには、公務から戻られたばかりの暁臣様が立っていらした。
「あ……暁臣様。申し訳ありません、お戻りの時間に気が付かなくて……」
「いや、構わない……」
短く答えながら、暁臣様は手袋を外し、その素肌の掌で、そっと私の頬に触れた。
ひやりとした外気を帯びた指先が、すぐに私の体温を吸い上げていく。
「……頬が赤くなっている。どうしたんだ?」
「あ、ええと……。夢なのかもしれないと思って、自分で抓ってしまって……」
あまりに子供じみた理由を正直に口にすると、暁臣様の瞳に、微かな熱が宿る。
その手が私の髪を払い、影がゆっくりと近づいてきた。
次の瞬間、抓って赤くなった方の頬に、羽毛が触れるような、柔らかく、けれど確かな唇の感触が落ちる。
「……これでも、まだ夢だと思うか?」
部屋の中には、誰かの気配はもうない。
それなのに、絹の重なりが放つ静かな存在感だけが、私をじっと見つめ返してくるようで、視線を逸らすことができなかった。
ほんの二年前までは、擦り切れた薄い着物一枚で、凍えるような蔵の隅に息を潜めていた。
あの絶望の底にいたときは、『無華』という烙印を押された私が、誰かの『お嫁さん』になる未来など、逆立ちしても思い描けなかった。
誰かに選ばれるどころか、数に入れられることすらなかった。
名前を呼ばれることも、期待されることもない。
ただ、邪魔にならないように、目立たないように、存在を薄くして生きていた。
……やはり、これはすべて、都合のいい夢を見ているのかもしれない。
不意に怖くなり、確かめるように自分の頬を強く抓ってみる。
けれど、緊張で感覚が麻痺しているのか、思ったほどの痛みは返ってこない。
夢なら、覚める前触れは、もっとはっきりしているはずなのに。
やはりこれは、覚める直前の長い夢なのかもしれない。
そう思った瞬間、足元がぐらりと揺れ、今にも現実ごと崩れ落ちてしまいそうになった。
「……ここにいたんだな」
背後から低く落ち着いた声が響き、はっとして振り向く。
そこには、公務から戻られたばかりの暁臣様が立っていらした。
「あ……暁臣様。申し訳ありません、お戻りの時間に気が付かなくて……」
「いや、構わない……」
短く答えながら、暁臣様は手袋を外し、その素肌の掌で、そっと私の頬に触れた。
ひやりとした外気を帯びた指先が、すぐに私の体温を吸い上げていく。
「……頬が赤くなっている。どうしたんだ?」
「あ、ええと……。夢なのかもしれないと思って、自分で抓ってしまって……」
あまりに子供じみた理由を正直に口にすると、暁臣様の瞳に、微かな熱が宿る。
その手が私の髪を払い、影がゆっくりと近づいてきた。
次の瞬間、抓って赤くなった方の頬に、羽毛が触れるような、柔らかく、けれど確かな唇の感触が落ちる。
「……これでも、まだ夢だと思うか?」



