一瞬だけ、綾乃様の表情が苦しげに曇った。
けれどその陰りはすぐに消え、彼女は再び、気高さと清廉さを宿した眼差しで前を向く。
——泣いているように見えたのは、私の錯覚だろうか。
雨に濡れた頬を伝う雫が、涙なのか雨水なのか、もう判別できない。
激しさを増す雨の中。
東宮殿下は一度も私たちを顧みず、霧に煙る庭園の向こうへ消えていった。
姿が見えなくなって、ようやく私は肺に溜めていた熱い空気を吐き出した。
深く息を吸う。吸えた、その瞬間——足の力がふっと抜け、そのまま地面に座り込んでしまう。
立たなければならないのに。
指先一つ動かすことさえ、今は難しい。
「すみれっ」
「すみれ様、しっかりしてください!大丈夫ですか?」
「っ……っはぁ……っはぁ……っはぁ」
荒くなる吐息。
視界がぐにゃりと歪み、周囲の色が雨の膜越しに溶けていく。
「綾乃殿、すまない。すみれをすぐに休ませたい。今日はこれで失礼する」
暁臣様の強い腕に抱き上げられ、身体がふわりと宙に浮く。
耳元で聞こえる鼓動だけが、今の私の唯一の道標だった。
遠のく意識の端で、雨音に混じった声がした。
「わたくしは、……すみれ様が、ほんの少しだけ羨ましいですわ」
胸の奥に、ひどく冷たいものが落ちる。
——綾乃様。
その声だけが、いつまでも耳の奥で消えなかった。
けれどその陰りはすぐに消え、彼女は再び、気高さと清廉さを宿した眼差しで前を向く。
——泣いているように見えたのは、私の錯覚だろうか。
雨に濡れた頬を伝う雫が、涙なのか雨水なのか、もう判別できない。
激しさを増す雨の中。
東宮殿下は一度も私たちを顧みず、霧に煙る庭園の向こうへ消えていった。
姿が見えなくなって、ようやく私は肺に溜めていた熱い空気を吐き出した。
深く息を吸う。吸えた、その瞬間——足の力がふっと抜け、そのまま地面に座り込んでしまう。
立たなければならないのに。
指先一つ動かすことさえ、今は難しい。
「すみれっ」
「すみれ様、しっかりしてください!大丈夫ですか?」
「っ……っはぁ……っはぁ……っはぁ」
荒くなる吐息。
視界がぐにゃりと歪み、周囲の色が雨の膜越しに溶けていく。
「綾乃殿、すまない。すみれをすぐに休ませたい。今日はこれで失礼する」
暁臣様の強い腕に抱き上げられ、身体がふわりと宙に浮く。
耳元で聞こえる鼓動だけが、今の私の唯一の道標だった。
遠のく意識の端で、雨音に混じった声がした。
「わたくしは、……すみれ様が、ほんの少しだけ羨ましいですわ」
胸の奥に、ひどく冷たいものが落ちる。
——綾乃様。
その声だけが、いつまでも耳の奥で消えなかった。



