【Web版】無華の花嫁3~秘めた力を狙われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される~

 一瞬だけ、綾乃様の表情が苦しげに曇った。
 けれどその陰りはすぐに消え、彼女は再び、気高さと清廉さを宿した眼差しで前を向く。

 ——泣いているように見えたのは、私の錯覚だろうか。
 雨に濡れた頬を伝う雫が、涙なのか雨水なのか、もう判別できない。

 激しさを増す雨の中。
 東宮殿下は一度も私たちを顧みず、霧に煙る庭園の向こうへ消えていった。

 姿が見えなくなって、ようやく私は肺に溜めていた熱い空気を吐き出した。
 深く息を吸う。吸えた、その瞬間——足の力がふっと抜け、そのまま地面に座り込んでしまう。

 立たなければならないのに。
 指先一つ動かすことさえ、今は難しい。

「すみれっ」
「すみれ様、しっかりしてください!大丈夫ですか?」
「っ……っはぁ……っはぁ……っはぁ」

 荒くなる吐息。
 視界がぐにゃりと歪み、周囲の色が雨の膜越しに溶けていく。

「綾乃殿、すまない。すみれをすぐに休ませたい。今日はこれで失礼する」

 暁臣様の強い腕に抱き上げられ、身体がふわりと宙に浮く。
 耳元で聞こえる鼓動だけが、今の私の唯一の道標だった。

 遠のく意識の端で、雨音に混じった声がした。

「わたくしは、……すみれ様が、ほんの少しだけ羨ましいですわ」

 胸の奥に、ひどく冷たいものが落ちる。
 ——綾乃様。
 その声だけが、いつまでも耳の奥で消えなかった。