夜が更けるまで、書斎で仕事をするふりをして机に向かっていたが、隣室から微かに聞こえる衣擦れの音や、頁をめくる小さな気配を、俺はずっと意識し続けていた。
すみれの動きが少しずつ緩慢になっていることに気づいたのは、柱時計の針が深い時間を指してからだ。
頁をめくる規則的な音が途切れがちになり、辞典を引く手つきも、夢の入口を彷徨うように心許ない。
「……すみれ、もうそれくらいにしておけ」
背後から声をかけると、彼女は慌てて背筋を伸ばして振り返った。
「は、はい、暁臣様……申し訳ありません」
「謝ることはない。ただ、これ以上は身体に障る。今日はここまでだ」
そう告げると、すみれは一瞬だけ、名残惜しそうに本を見下ろした。
だが、すぐに納得したように、小さく頷く。
「……はい。そう、します」
小説をそっと閉じ、重たい辞典を丁寧に重ねる仕草が、ひどく幼く、そして健気だ。
それだけで、胸の奥が不意に締めつけられる。
「安心しろ。本は逃げない。明日も、明後日も、お前の前にある」
「……ふふ。そうですね。楽しみは、取っておくことにします」
立ち上がろうとしたすみれが、座り続けていたせいか、ふらりと身体を揺らした。
咄嗟に腕を伸ばし、細い肩を抱き寄せて支える。
「……っ」
「無理をするなと言っただろう」
腕の中の体温は、驚くほど軽く、ほのかに甘い香りがした。
一瞬、呼吸が詰まる。
だが、彼女を惑わせるわけにはいかない。
すぐに力を緩め、添えるだけに留めて自立させた。
「……ありがとうございます、暁臣様」
見上げた瞳は、少し眠たげに潤んでいる。
これ以上、厳しい言葉も、甘すぎる言葉も、口にできなかった。
静まり返った廊下を並んで歩き、私室の前まで送る。
扉の前で足を止めると、すみれが躊躇うようにこちらを見上げた。
「暁臣様……」
「どうした?」
「……その、あの……」
言葉を探して視線を彷徨わせ、やがて小さく首を振り、微笑む。
「……おやすみなさいませ」
「ああ。良い夢を。おやすみ」
短い挨拶を交わし、扉が静かに閉まる。
——結局、触れなかった。
触れれば、彼女はきっと拒まない。
だが、欲望に任せてその手を取ることに、何の意味がある。
信子殿の意図も、すみれが『知ろう』としている理由も、すべて理解しているからこそ——。
……急ぐな。
暗い廊下で独り、そう呟く。
漂うのは、微かに残った彼女の残り香と、扉の向こうで静かな眠りに落ちた気配だけ。
それでいい。今は。
婚儀までは——
いや、婚儀の後でさえも。
すみれが、自分自身の心で、きちんと俺を『知りたい』と望んだときに、その手を取ればいいのだから。
すみれの動きが少しずつ緩慢になっていることに気づいたのは、柱時計の針が深い時間を指してからだ。
頁をめくる規則的な音が途切れがちになり、辞典を引く手つきも、夢の入口を彷徨うように心許ない。
「……すみれ、もうそれくらいにしておけ」
背後から声をかけると、彼女は慌てて背筋を伸ばして振り返った。
「は、はい、暁臣様……申し訳ありません」
「謝ることはない。ただ、これ以上は身体に障る。今日はここまでだ」
そう告げると、すみれは一瞬だけ、名残惜しそうに本を見下ろした。
だが、すぐに納得したように、小さく頷く。
「……はい。そう、します」
小説をそっと閉じ、重たい辞典を丁寧に重ねる仕草が、ひどく幼く、そして健気だ。
それだけで、胸の奥が不意に締めつけられる。
「安心しろ。本は逃げない。明日も、明後日も、お前の前にある」
「……ふふ。そうですね。楽しみは、取っておくことにします」
立ち上がろうとしたすみれが、座り続けていたせいか、ふらりと身体を揺らした。
咄嗟に腕を伸ばし、細い肩を抱き寄せて支える。
「……っ」
「無理をするなと言っただろう」
腕の中の体温は、驚くほど軽く、ほのかに甘い香りがした。
一瞬、呼吸が詰まる。
だが、彼女を惑わせるわけにはいかない。
すぐに力を緩め、添えるだけに留めて自立させた。
「……ありがとうございます、暁臣様」
見上げた瞳は、少し眠たげに潤んでいる。
これ以上、厳しい言葉も、甘すぎる言葉も、口にできなかった。
静まり返った廊下を並んで歩き、私室の前まで送る。
扉の前で足を止めると、すみれが躊躇うようにこちらを見上げた。
「暁臣様……」
「どうした?」
「……その、あの……」
言葉を探して視線を彷徨わせ、やがて小さく首を振り、微笑む。
「……おやすみなさいませ」
「ああ。良い夢を。おやすみ」
短い挨拶を交わし、扉が静かに閉まる。
——結局、触れなかった。
触れれば、彼女はきっと拒まない。
だが、欲望に任せてその手を取ることに、何の意味がある。
信子殿の意図も、すみれが『知ろう』としている理由も、すべて理解しているからこそ——。
……急ぐな。
暗い廊下で独り、そう呟く。
漂うのは、微かに残った彼女の残り香と、扉の向こうで静かな眠りに落ちた気配だけ。
それでいい。今は。
婚儀までは——
いや、婚儀の後でさえも。
すみれが、自分自身の心で、きちんと俺を『知りたい』と望んだときに、その手を取ればいいのだから。



