夕食を終えると、すみれは間を置かず机に向かい、昼間、信子殿が持ってきたという数冊の小説と分厚い辞典を広げて、せっせと小さな文字の列を追い始めた。
灯りに照らされた机の上は、まるで小さな世界の入口のようだ。
不慣れな辞典を引き、また小説の頁へ戻り、小首を傾げながら未知の言葉をなぞる。
時折、何かを噛みしめるように深く頷き、思い出したように次の行へ進む。
その華奢な背中を、書斎から戻った俺は扉口で足を止め、しばらく音を立てずに眺めていた。
——可愛いな。本当に。
脳裏に浮かんだのは、あまりに語彙の乏しい、だが偽りのない感想だった。
新しい知識を吸い込むこと自体が、楽しくて仕方がないのだろう。
暗く冷たい蔵の中で、たった一人、明日すら定かでない日々を過ごしていた頃には、文字を追う喜びも、物語に心を震わせる贅沢な時間も、きっと存在しなかったはずだ。
「……そんなに難しい言葉ばかりか?」
ふいに声をかけると、すみれは弾かれたように肩を跳ねさせ、慌ててこちらを振り返った。
「あ、暁臣様……!い、いえ、大丈夫です。少し、意味を調べていただけですので……」
「そうか。あまり根を詰めると、目を悪くしてしまう」
一体、どんな本を読んでいるのか。
何気ない風を装って、机の上に積まれた一冊を手に取る。
手触りの良い布張りの表紙。
上品な金の題字。
だが、頁を開いた瞬間、目に飛び込んできたのは——
月夜の庭園で寄り添い合う、男女の密やかな挿絵だった。
「…………なるほど」
嫌な予感が的中したまま、隣に積まれた別の一冊を取る。
さらにもう一冊、その次も。
表紙の意匠こそ違えど、中身はどれも、男女の情愛を赤裸々に、あるいは感傷的に描いた、紛れもない恋愛小説だった。
「…………」
思わず、天を仰いで重い溜息が漏れる。
「……信子殿も、随分と……察しが良いというか、何というか」
「……?あの、何か、問題がありましたでしょうか?」
「いや。本の内容に問題があるわけではない」
すみれがきょとんと首を傾げ、不安そうに俺を見つめてくる。
ああ、問題はない。確かにない——ただ。
これは、信子殿による、少しどころではない、かなり意図的な『教育』だ。
これらの本を選んだということは、すみれが今、どこまで『大人の感情』に触れ始めているのか。
そして、この俺が、彼女にどこまで踏み込んだ接触をしてしまったのか。
すみれが最も信頼している相手だ。
おおよその事情は、恐らく筒抜けなのだろう。
……しまったな。完全に油断していた。
ほんの軽い慰めのつもりで、すみれに触れているわけではない。
だが、正式な婚儀を前に、情動に任せて距離を縮めてしまったという自覚が、胸の奥をちくりと刺す。
「……暁臣様?どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない……続けてくれ」
潤んだ瞳で見上げられると、その無垢さが、かえって毒のように理性を侵食する。
これ以上、俺が先走って彼女の純真を汚すわけにはいかない。
そう言い聞かせながらも、再び机に向かい、熱心に頁をめくる白い横顔から、どうしても目が離れなかった。
一行一行を真剣に追い、時折、桃色に染まった頬を自分で押さえるような仕草。
意味を確かめるように、細い指先が辞典の紙面を彷徨う。
……待て。
今、彼女が読んでいる辺りは、確か——。
「……今日は、そのくらいにしておけ。夜更かしは体に毒だ」
「はい……でも、あと少しだけ。キリのいい所まで……」
小さく笑って返す、鈴を転がしたような声。
その響きだけで、胸の奥がじわりと制御不能な熱を帯び始める。
信子殿が何を考えてこれらの本を持ってきたのか。
そして、すみれが物語を通して、どこまで『男と女』を知ろうとしているのか。
その両方を悟ってしまい、耐えきれず、静かに背を向けた。
……本当に、身近な者の察しが良すぎるというのも、困りものだ。
灯りに照らされた机の上は、まるで小さな世界の入口のようだ。
不慣れな辞典を引き、また小説の頁へ戻り、小首を傾げながら未知の言葉をなぞる。
時折、何かを噛みしめるように深く頷き、思い出したように次の行へ進む。
その華奢な背中を、書斎から戻った俺は扉口で足を止め、しばらく音を立てずに眺めていた。
——可愛いな。本当に。
脳裏に浮かんだのは、あまりに語彙の乏しい、だが偽りのない感想だった。
新しい知識を吸い込むこと自体が、楽しくて仕方がないのだろう。
暗く冷たい蔵の中で、たった一人、明日すら定かでない日々を過ごしていた頃には、文字を追う喜びも、物語に心を震わせる贅沢な時間も、きっと存在しなかったはずだ。
「……そんなに難しい言葉ばかりか?」
ふいに声をかけると、すみれは弾かれたように肩を跳ねさせ、慌ててこちらを振り返った。
「あ、暁臣様……!い、いえ、大丈夫です。少し、意味を調べていただけですので……」
「そうか。あまり根を詰めると、目を悪くしてしまう」
一体、どんな本を読んでいるのか。
何気ない風を装って、机の上に積まれた一冊を手に取る。
手触りの良い布張りの表紙。
上品な金の題字。
だが、頁を開いた瞬間、目に飛び込んできたのは——
月夜の庭園で寄り添い合う、男女の密やかな挿絵だった。
「…………なるほど」
嫌な予感が的中したまま、隣に積まれた別の一冊を取る。
さらにもう一冊、その次も。
表紙の意匠こそ違えど、中身はどれも、男女の情愛を赤裸々に、あるいは感傷的に描いた、紛れもない恋愛小説だった。
「…………」
思わず、天を仰いで重い溜息が漏れる。
「……信子殿も、随分と……察しが良いというか、何というか」
「……?あの、何か、問題がありましたでしょうか?」
「いや。本の内容に問題があるわけではない」
すみれがきょとんと首を傾げ、不安そうに俺を見つめてくる。
ああ、問題はない。確かにない——ただ。
これは、信子殿による、少しどころではない、かなり意図的な『教育』だ。
これらの本を選んだということは、すみれが今、どこまで『大人の感情』に触れ始めているのか。
そして、この俺が、彼女にどこまで踏み込んだ接触をしてしまったのか。
すみれが最も信頼している相手だ。
おおよその事情は、恐らく筒抜けなのだろう。
……しまったな。完全に油断していた。
ほんの軽い慰めのつもりで、すみれに触れているわけではない。
だが、正式な婚儀を前に、情動に任せて距離を縮めてしまったという自覚が、胸の奥をちくりと刺す。
「……暁臣様?どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない……続けてくれ」
潤んだ瞳で見上げられると、その無垢さが、かえって毒のように理性を侵食する。
これ以上、俺が先走って彼女の純真を汚すわけにはいかない。
そう言い聞かせながらも、再び机に向かい、熱心に頁をめくる白い横顔から、どうしても目が離れなかった。
一行一行を真剣に追い、時折、桃色に染まった頬を自分で押さえるような仕草。
意味を確かめるように、細い指先が辞典の紙面を彷徨う。
……待て。
今、彼女が読んでいる辺りは、確か——。
「……今日は、そのくらいにしておけ。夜更かしは体に毒だ」
「はい……でも、あと少しだけ。キリのいい所まで……」
小さく笑って返す、鈴を転がしたような声。
その響きだけで、胸の奥がじわりと制御不能な熱を帯び始める。
信子殿が何を考えてこれらの本を持ってきたのか。
そして、すみれが物語を通して、どこまで『男と女』を知ろうとしているのか。
その両方を悟ってしまい、耐えきれず、静かに背を向けた。
……本当に、身近な者の察しが良すぎるというのも、困りものだ。



