【Web版】無華の花嫁3~秘めた力を狙われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される~

 ——いた。
 色とりどりの着物が波打つ人波の向こうに、否応なく視線を引き寄せる姿を見つけた瞬間、恒一の足は磁石に吸われるように、自然とそちらへ向かっていた。

 婚約者を伴っていることなど、百も承知だ。
 分かっている。それでも、今すぐ近づかなければならない——
 そんな強迫観念にも似た衝動が、理性の手綱を乱暴に引きちぎってくる。

 声をかける理由なら、いくらでも用意できる。
 皇族としての儀礼。従兄弟への形式的な配慮。あるいは、婚約内定に対する表向きの祝辞。
 どれも、口に出してしまえば通用するはずだった。

 そう目論んだ、まさにその矢先——。
 暁臣は、あの娘の肩を包み込むように腕を回し、庭園のさらに奥、人の気配が薄れていく方へと歩みを進めていった。

 ……私から、逃げたのか。

 わずかに眉がひそめられる。
 ここで呼び止めなかったのは、東宮としての矜持があったからだ。
 衆人環視の中で、東宮が特定の娘を追う。
 それだけで、どれほど下世話な噂が広がるか——考えずとも分かる。

 ——だが。

 藤棚の下へ辿り着いた二人の影を捉えた瞬間、恒一の足は、まるで地面に縫い留められたかのように止まった。
 降り注ぐ紫の花のカーテン。その奥で、暁臣があの『無華』である娘の頬に、吸い付くように手を添える。

 次の瞬間。
 抗う余地すらない力強さで、二人の唇が重なった。

 ……なぜ。

 思考が、ガラスの破片を床に撒き散らすような音を立てて、途切れる。
 理解が、感情に追いつかない。

 あれは、単なる睦み合いではない。
 偶然、目に入ってしまった情景などでは、決してない。
 隠れて見ているこの私へ向けて——あまりにも露骨で、野蛮なまでに見せつけるための口づけだ。

 気づけば、恒一は反射的に身を引いていた。
 低木の影。通り過ぎる他人の背後。

 ——自ら隠れるという、卑屈な選択をした事実に、恒一自身が最も驚愕していた。
 この国の至高を約束された東宮である、この身が。
 なぜ、逃げ隠れなどしなければならない。

 息を殺し、視線だけで再び藤棚の奥を窺った、その瞬間——。
 五条暁臣の冷え切った瞳と、視線が真っ向から衝突した。
 ほんの一瞬。瞬きほどの短い時間。

 だが、確信した。
 暁臣の瞳には、一切の迷いも、焦りもない。
 そこにあるのは、獰猛なまでの『無華』の娘に対する独占欲と所有欲。
 他者の介在を一切許さぬ、剥き出しの支配。

 ——これは、俺のものだ。
 ——お前には、指一本、触れさせない。

 無言の圧力が、そう告げていた。
 恒一は弾かれたように背を向け、その場を立ち去る。
 これ以上、あの光景を視界に入れていられなかった。

 胸の奥が、沸騰した鍋のように熱い。呼吸が浅く、荒れる。
 早足で歩きながら、自分の頬が異様な熱を帯びているのを、はっきりと自覚していた。

「……殿下?どうかなさいましたか?」

 屋内の控室へ向かう途中、婚約者の綾乃が心配そうに駆け寄ってくる。

「お顔が……少し、お赤いようですが。気分でもお悪いのでは……」

 ——触れるな。

「……うるさい!寄るな!」
「痛っ……」

 反射的に、どす黒い感情が言葉となって爆発した。
 伸ばされた手を、乱暴に振り払う。

 綾乃が短く悲鳴を上げ、息を呑む気配がした。
 はっとして足を止めるが、すでに遅い。
 彼女の瞳には、見たこともない恒一の豹変に、深い動揺と怯えが浮かんでいた。

「……すまない。少し、のぼせたようだ。風に当たってくる」

 それだけを吐き捨て、追い縋る視線を振り切るように歩みを早める。
 胸の奥で、経験したことのない得体の知れない感情が、渦を巻き、荒れ狂っていた。

 単なる怒りではない。
 嫉妬や敗北感——そんな生易しい言葉で片付けられるものでもない。
 もっと粘ついて、身体の深部に根を張るような、執拗な衝動。

 僅かばかり見えた、あの娘が、暁臣の腕の中で見せた、あの蕩けるような表情。
 上気した頬。
 羞恥に伏せられた睫毛。
 洩れ出した、甘く、切実な吐息。

 ——ほしい。
 ——奪いたい。
 奪わずに、いられない。

 唐突に心底から湧き上がったその欲望に気づき、恒一は戦慄した。
 完璧な婚約者であるはずの綾乃にすら、一度として抱いたことのない渇望。
 理解できない。いや、理解したくない。

 ただ、暁臣に触れられたあの肌を、あの声を、あの表情を——
 すべて、自分のためだけに塗り替えたい。
 その焦燥が、内側から彼を焼き尽くそうとしていた。

 白い振袖を贈るなど、その程度の『形』では足りない。
 配置をいじることも、制度を弄ぶことも、今のこの飢えを満たすには、あまりに手ぬるい。

「あれを……私の隣へ、引き摺り下ろさなければならない」

 爪が食い込むほど、拳を強く握りしめる。
 園遊会の華やかな喧騒は、もはや遠い異国の音にしか聞こえない。
 脳裏には、藤の花の紫と、あの娘の熱っぽい吐息だけが、消えない残像となって焼き付いて離れなかった。