【Web版】無華の花嫁3~秘めた力を狙われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される~

 数日後。
 朝霞伯爵家に再び届いた招状は、前回とは別の場所を指定していた。
 東宮御所にほど近い、静かな並木道に佇む別邸——
 案内された応接間は、先日案内された部屋よりもなお静謐で、焚かれた香の匂いが淡く、それでいて肌にまとわりつくような重い空気が漂っている。
 前回と同じ、氷のように無機質な侍従が百合を迎え入れた。

「本日も、足をお運びいただき恐れ入ります」
「いえ……当然のことでございますわ」

 百合は今日こそ、と胸を躍らせていた。
 ここまで完璧に整えられた舞台装置——あの方が現れないはずがない。

 侍従は前回の記録をなぞるように、短く、けれど核心を突く問いを投げた。

「一点、補足を。あなたの『異能』が消え失せた際、朝霞すみれは何か言葉を発しましたか」
「……いいえ、何も。姉はいつもそうですの。何も言わず、ただ不気味に黙っているだけ……だからこそ余計に卑怯で、恐ろしいのですわ」

 その瞬間、厚い絨毯の向こう側で、微かな足音が止まった。
 応接間の空気が一段階、密度を増す。
 侍従が即座に立ち上がり、直角に近い角度で深く頭を下げた。

「——殿下」

 百合の心臓が、喉元まで飛び出すほどに跳ねた。

 静かに開かれた扉の向こうから現れた男は——想像していたよりもずっと、静止画のように美しかった。
 すらりと高い背丈に、寸分の乱れもなく馴染んだ深い紺のスーツ。

 額にかかる長めの前髪の奥から覗く切れ長の瞳。
 口元には春の陽だまりのような柔和な微笑みが湛えられている。

 なのに百合は、金縛りに遭ったように息が詰まった。
 美しすぎる猛獣を目の当たりにしたときのような、逃げ場のない圧迫感。

「……朝霞百合、だったね」

 鼓膜を震わせる、甘く低い声音。
 名前を呼ばれただけで百合の全身に熱が駆け巡り、膝の震えを隠すため、彼女は必死で袖を握りしめた。

「は、はい……っ。百合でございます……お目にかかれて、光栄に存じます……」
「来てくれて助かったよ。君の協力が必要だったんだ」

 その響きだけで、自分は『選ばれた』のだと百合は確信した。
 瞳から大粒の涙が零れ落ちる。今度は演技など必要なかった。
 歓喜と興奮が、勝手に涙となって溢れ出したのだ。

「殿下……わたくし……っ。姉に、すべてを奪われましたの……!本当は……わたくしが、あの場所にいるはずだったのです……!」

 恒一は、その醜い叫びに驚く素振りも見せない。
 ただ痛ましそうにわずかに眉を寄せ、完璧な分量の同情を、その表情に浮かべてみせた。

「そうか。それは辛い思いをしたね……よく、今日まで耐えてきた」

 たったそれだけの言葉。
 けれど百合の世界は、劇的な反転を遂げた。

 ようやく理解された。
 私は救われ、正当に報われるのだと。

「……姉のその不思議な力について、もう少し詳しく教えてもらえるかな」
「もちろんですわ……っ。殿下のためでしたら、わたくし、何でもお話しいたします……!」

 恒一は微笑んだ。慈愛に満ちた優しい笑み。
 けれど瞳の奥は一筋の光も通さぬほど冷ややかに、ただ対象を観察している。

「助かるよ。——君の話には、計り知れない価値がある」