雪の名残が庭の隅々に白く残る朝、朝霞伯爵家に一通の書状が届けられた。
朝食の席でその封蝋の色彩を目にした瞬間、妹の百合は喉を鳴らして息を呑む。
高貴なる紫の蝋に刻印された、皇族の——それも東宮方の印。
「……え?私に……東宮殿下から?」
女中が恐る恐る差し出したそれを、百合はひったくるような勢いで受け取った。
指先が歓喜に震え、胸の奥にどろりとした熱が広がる。
屈辱に歪んでいたはずの唇が、いまは勝利を確信した笑みを作ろうとしていた。
来た。ようやく、私の番が。
五条暁臣の婚約者候補として、社交界で我が世の春を謳歌していたとき期があった。
だが結果は惨敗。
あの『無華』で、蔵の鼠のように生きてきた、何も持たないはずの姉——すみれに、すべてを奪われた。
その憎悪は日ごとに増し、百合の心をじわじわと真っ黒に染め上げてきたのだ。
けれど、神は見捨ててはいなかった。
今度の相手は、宮家を凌ぐ東宮。
この国で、これ以上ない最高位に君臨する男。
「……やっと、来たわ……!」
百合は食事もそこそこに鏡台の前へ駆け込むと、入念に髪を整え、肌を磨き上げた。
頬の色、唇の艶、瞳の潤み方。
鏡に向かって、何度も『可憐な涙』を零す練習を繰り返す。
虐げられた悲劇のヒロインには、真珠のような涙こそがふさわしい。
そう信じて疑わなかった。
泣けないなら、泣ける顔を作ればいい——それで世界は味方をする。
指定された面会場所は、華やかな東宮御所ではなかった。
宮内省の一角にある、歴史だけは古いが、どこか事務的な空気が漂う応接間。
百合は一瞬、その殺風景さに肩透かしを食らいながらも、すぐに気を取り直して胸を張り、淑女らしく着座した。
——大丈夫。これは単なる前段に過ぎない。
殿下のような尊いお方は、後から劇的に現れるものなのだから。
向かいに座ったのは、三十代半ばほどの怜悧な顔立ちの男だった。
髪は一分の隙もなく撫でつけられ、官吏の制服は皺一つない。
丁寧な物腰ではあるが、その瞳には凍てつくような冷徹さが宿っている。
その調べる目は優しさの欠片もない、紙と事実だけを見る目だ。
「朝霞百合様。お忙しい中、足を運んでいただき感謝いたします」
「いえ……。殿下のお役に立てる機会をいただけるのでしたら、この百合、どこへでも参りますわ」
男は表情を変えずに一礼し、手元の書類を無造作に開いた。
紙をめくる音が、やけに乾いて響く。
「本日は、一昨年の年末からの事実関係について、いくつか確認させていただきたいことがございます」
「……はい。何なりとお聞きになってくださいまし」
朝食の席でその封蝋の色彩を目にした瞬間、妹の百合は喉を鳴らして息を呑む。
高貴なる紫の蝋に刻印された、皇族の——それも東宮方の印。
「……え?私に……東宮殿下から?」
女中が恐る恐る差し出したそれを、百合はひったくるような勢いで受け取った。
指先が歓喜に震え、胸の奥にどろりとした熱が広がる。
屈辱に歪んでいたはずの唇が、いまは勝利を確信した笑みを作ろうとしていた。
来た。ようやく、私の番が。
五条暁臣の婚約者候補として、社交界で我が世の春を謳歌していたとき期があった。
だが結果は惨敗。
あの『無華』で、蔵の鼠のように生きてきた、何も持たないはずの姉——すみれに、すべてを奪われた。
その憎悪は日ごとに増し、百合の心をじわじわと真っ黒に染め上げてきたのだ。
けれど、神は見捨ててはいなかった。
今度の相手は、宮家を凌ぐ東宮。
この国で、これ以上ない最高位に君臨する男。
「……やっと、来たわ……!」
百合は食事もそこそこに鏡台の前へ駆け込むと、入念に髪を整え、肌を磨き上げた。
頬の色、唇の艶、瞳の潤み方。
鏡に向かって、何度も『可憐な涙』を零す練習を繰り返す。
虐げられた悲劇のヒロインには、真珠のような涙こそがふさわしい。
そう信じて疑わなかった。
泣けないなら、泣ける顔を作ればいい——それで世界は味方をする。
指定された面会場所は、華やかな東宮御所ではなかった。
宮内省の一角にある、歴史だけは古いが、どこか事務的な空気が漂う応接間。
百合は一瞬、その殺風景さに肩透かしを食らいながらも、すぐに気を取り直して胸を張り、淑女らしく着座した。
——大丈夫。これは単なる前段に過ぎない。
殿下のような尊いお方は、後から劇的に現れるものなのだから。
向かいに座ったのは、三十代半ばほどの怜悧な顔立ちの男だった。
髪は一分の隙もなく撫でつけられ、官吏の制服は皺一つない。
丁寧な物腰ではあるが、その瞳には凍てつくような冷徹さが宿っている。
その調べる目は優しさの欠片もない、紙と事実だけを見る目だ。
「朝霞百合様。お忙しい中、足を運んでいただき感謝いたします」
「いえ……。殿下のお役に立てる機会をいただけるのでしたら、この百合、どこへでも参りますわ」
男は表情を変えずに一礼し、手元の書類を無造作に開いた。
紙をめくる音が、やけに乾いて響く。
「本日は、一昨年の年末からの事実関係について、いくつか確認させていただきたいことがございます」
「……はい。何なりとお聞きになってくださいまし」



