ある日のこと、雪蘭は体調不良を訴え医務室に搬送された。
診察の結果、彼女のお腹に新しい命が宿っていることが判明した。
雪蘭の心に小さな光が灯った。
お腹の子は松坂との子であった。雪蘭は産むことを切望した。
この世界に、自分の人生に、新たな命を咲かせたい。命は、彼女にとって希望の象徴だった。
そんな希望の灯火を吹き消すかのように、雪蘭の前にソ連軍の憲兵たちが現れ、こう言い放った。
「雪蘭、お前を謀殺の容疑で逮捕する」
「何のことか分かりません! 私は誰も殺していません!」
雪蘭の叫びは、虚しく収容所の壁に吸い込まれていく。
ソ連側はクズネツォフの書き置きを、証拠として雪蘭に提示した。
そうか、あのときのことか。雪蘭は悟った。
諜報員クズネツォフは万が一の謀殺に備え、誰に会いに行くかを記録として残していたのだ。
雪蘭の心に恐怖が広がる。お腹の子だけはどうしても助けたい。
「私は妊娠中です。お腹に子供がいるのです。どうか、ご容赦を!」
そんな陳情が通るはずもなく、雪蘭は取り調べを受ける日々を過ごすこととなった。
* * *
松坂もまた、捕虜となっていた。
敗戦の果てにソ連軍の手に落ちたが、将校であったがゆえにハバロフスクの収容所へと送られた。
彼は中国語とロシア語に通じており、その才覚を見込まれて通訳の任を与えられた。
捕虜という境遇の中にあっても、彼の耳は異国の言葉を正確に捉え、その舌は異なる言語の狭間を器用に行き来した。
ある日、松坂の眼前にソ連軍の憲兵たちが現れた。
容疑は謀殺。
松坂は思い出した。二重スパイとしての取引相手を射殺したことを。
松坂は黙秘した。
ここで罪を認めては、収容所から出る日が遠のいてしまう。
今は早くこの収容所から出て、雪蘭に会いたい。それが松坂の願いであった。
容赦のない取り調べの中で、松坂の耳は鋭敏に働いていた。
行き交う足音、交わされる僅かな会話。彼はロシア語を解するがゆえに、それを聞き取ることができる。
「──あの雪蘭とかいう諜報員の方が怪しいな──」
その名が放たれた瞬間、松坂の胸が凍りついた。
雪蘭!
彼女も捕らえられているというのか
目の前の現実が静かに揺らぐ。
松坂は決断した。
「……憲兵殿」
彼は声を発した。自らの感情を押し隠し、あくまで穏やかに。
「自供します。その代わり、一つだけ私の願いを聞いていただきたい」
憲兵は鼻を鳴らした。
「取引のつもりか? お前は自分の立場が分かっているのか?」
松坂は、その言葉を聞いて不敵な笑みを浮かべる。表情の奥には、彼独特の冷静さが潜んでいた。
「おや、私の自供でこの件が早々に片付けば、あなたの手柄になるのではありませんか?」
言葉はするりと憲兵の心へ滑り込む。
松坂はただの捕虜ではない。幾多の密命を潜り抜けてきた諜報員でもあった。
憲兵の表情には緩みが見られた。
「……それで? 望みとは?」
松坂はゆっくりと瞼を閉じ、それから静かに開いた。
その瞳の奥には、ただ一つの願いがあった。
「私の望み、それは、生きる望みです」
憲兵は怪訝な顔をした。
「何のことだ?」
「私の生きる望み──それは、もう一度、妻の顔を見ることであります」
その声は澄みきり、どこか切ないほどの真実味を帯びていた。
虜囚であり謀殺容疑者でもある松坂の言葉は、今、一人の男の、そして一人の夫の言葉として響いていた。
* * *
「雪蘭、出ろ。面会の希望者がいる」
収容所の一室で、冷えた声が響く。
「……誰でしょうか?」
雪蘭は問いながらも、胸の奥に小さな波が立つのを感じた。
「これは秘密裏の面会だ。余計な詮索は無用。黙ってついてこい」
わけもわからず、雪蘭は別室へと連行された。
その部屋の扉が開かれる。
「あなた!」
「雪蘭!」
雪蘭は、松坂の無事を知り、心から安堵した。
松坂もまた、雪蘭の無事を知り喜びつつも、彼女の容姿の変化に目が行った。
「どうした、その髪は」
かつて、風に揺れていた黒く長い髪は、今はもうない。敗戦国の女として生きる苦しみが、ただ短く切り詰められたその髪に凝縮されていた。
だが、松坂の視線は、すぐにその髪に添えられた髪飾りへと移った。
それは、彼がかつて贈ったものだった。
短くなった髪に、無理をして付けているように思えた。
松坂の胸に熱がこみ上げる。
「よし、顔は見られたな。面会はこれで終わりだ」
無機質な言葉が、二人の邂逅を引き裂く。
「そんな! あ……あなた!」
連行されながら、雪蘭は叫んだ。
「私のお腹には、あなたとの赤ちゃんがいます!」
「本当か……!」
松坂はその事実に驚嘆した。
「俺は必ずここから出る。だから……お前もその子も、絶対に生き抜くんだ!」
言葉にできることは、それだけだった。
松坂も連行されていく。
引き離される二人の瞳は、しっかりと互いを映していた。
あまりにも短い再会であった。
日本語で交わされた二人の会話を、その場の兵士たちすべてが理解していたわけではなかった。
しかし、その場にいた兵士たちの中には、そっと目をぬぐう者もいた。
戦争が国を分け、敵と味方を隔てようとも、夫婦の愛は普遍であることを彼らは目の当たりにしたのだった。
クズネツォフ殺害を認めた松坂は将校待遇を失い、一般兵と同じくシベリアに送られることとなった。
* * *
「雪蘭さんの陣痛が始まりました。誰か、当直に知らせてください」
助産師の資格を持つ看護師がやって来る。
「いつから痛みが始まりましたか?」
「夜中から、少しずつ」
雪蘭は震える声で答えた。
看護師は雪蘭の腹部に手を当てる。
「胎児の向きがよくありません。医師を呼ばなくては」
しかし、当直の軍医は酔いつぶれており、使いものにならなかった。
「私たちだけでやるしかありません」
雪蘭の陣痛は激しくなり、彼女は時折意識を失いそうになった。
看護師は声をかけ続ける。
「あなたは強い。赤ちゃんも強い。二人とも生きるのよ」
夜が明け、朝が来ても、赤ん坊はまだ生まれなかった。
雪蘭の体力は限界に近づいていた。
看護師は、収容所長に事態を報告した。
所長は産科医を手配してくれた。
吹雪の中、医師が到着。
医師は素早く状況を把握し、必要な器具を用意させた。
医師は看護師に指示を出す。
「次の陣痛で、全力で押し出すように」
雪蘭の目には恐怖と同時に決意が見えた。
次の陣痛が来たとき、看護師らの励ましと共に彼女は全身の力を振り絞る。
その瞬間、部屋に新たな声が加わった。力強い赤ん坊の泣き声だった。
「男の子です」
医師が告げる。
臍帯を切断し、毛布に包んで雪蘭の腕に抱かせる。
雪蘭は疲れ切った顔に微笑みを浮かべ、赤ん坊の小さな顔を見つめた。
「私の赤ちゃん」
雪蘭は涙をこぼしながら囁いた。
赤ん坊の面影と松坂の面影が重なる。
医師や看護師は、静かにその光景を見つめていた。
敵国の女性と、その赤ん坊。
しかし彼らの目に映っていたのは、一人の母親と、新しく生まれた一人の命であった。
その夜、収容所の女性バラックは、小さな命の誕生を祝うかのように、静かな喜びに満ちていた。
バラックの外では雪が止み、星空が広がっていた。
ソ連兵たちは見張り台に立ちながら、この出来事について語り合っていた。
戦争は人々を敵と味方に区別するが、生命の誕生の前ではそのような区別は意味を失う。
誰かが呟いた。
「Жизни связаны」(命は繋がっている)
先月までうず高く積み上がっていた雪は、今日は一段と低くなっていた。
季節は少しずつ、春に近づいていた。
* * *
松坂は、シベリアの施設に送られた。
彼は雑居房の中で、誰とも言葉をかわさず、回想に耽っていた。
形式だけの婚姻として始まった雪蘭との絆。
政治的な駒に過ぎなかった二人が、いつしか本物の感情を宿し始めたとき、歴史の残酷な風が二人を引き裂いたのである。結局のところ、歪な結婚は歪なままであったのだ。
雪蘭は無事出産できたのであろうか。
我が子の顔を見ることも、頬に触れることさえできず、声を聞くこともなく、父親という名を持ちながら、何も出来ない自分がここにいた。
早く雪蘭のもとへ。その思いは彼の胸中で絶え間なく脈打っていた。
だが、脱走という選択肢は選べない。タイガの森の深淵は、自由への出口ではなく死への入口であるからだ。
残された道はただ一つ、与えられた時を真摯に生き、忍耐という名の鎖を黙々と繋いでいくことだけだった。
シベリアの冬は容赦がない。
今日も白く息が宙に凍り付く。
マイナス三十度を下回る極寒の朝、朽ちかけた木造バラックから這い出た彼らの影は長く伸び、雪面に暗く映っていた。
ソ連兵の怒号が氷点下の空気を切り裂く。
作業の手を止めて呆然と佇んでいた日本人を、監視のソ連兵が銃床で突いた。
その日本人は、顔から雪面に崩れ落ちていった。
松坂は助け起こそうとしたが、ソ連兵の鋭い目が彼の動きを制する。
「今日の作業は第三区画の枕木据え付けと線路敷設だ。かかれ!」
昨日の食事はわずかな黒パンと水で薄めた粗末なスープのみ。
松坂は昨日の夜、自分の配給の半分を、熱に浮かされていた若い日本人に分け与えていた。
しかし、その仲間は、朝には動けなくなっていた。
シャベル、つるはし、ハンマー、そのどれもが寒さに凍てついていた。
素手で金属を掴めば、皮膚がそのまま張り付いてしまう。
それでも松坂たちは作業を黙々と続けた。
松坂は重い鉄のハンマーを振り上げ、枕木に釘を打ち込む。
一打、二打、三打……
鈍い音が荒野に響く。凍えた指は感覚を失い、ハンマーの柄を握る力が次第に衰えていく。
休むわけにはいかない。
今日を生き延びるために、与えられた仕事をこなす。
日が西に傾きかけたころ、日本人がまた一人倒れた。
監視兵が駆け寄り、雪の上で動かなくなった彼を足蹴にする。反応はなかった。
おそらく、彼はもうだめだろう。
皆、見て見ぬふりをするしかなかった。
凍てついた星空の下、彼らは収容所へと足を引きずりながら帰途についた。
誰も話さない。
ただ、荒い息遣いと靴が雪を踏みしめる音だけが、静寂を破っていた。
松坂は空を見上げる。
同じ星を、今頃雪蘭も見ているのであろうか。
この地を離れ、再び雪蘭と、そしてまだ見ぬ我が子と会うことはできるのだろうか。
松坂はもう一度、星空を見上げた。
深く息を吸い込む。
凍てつく空気が肺に刺さる。
それは生きている証であった。
まだ、生きている。
* * *
夏が訪れる頃、雪蘭たちは自由を取り戻していた。ついに解放されたのだ。
故郷の満州の大地を踏みしめる感覚は、記憶の奥底から湧き上がる懐かしさとともに彼女を包んだ。
雪蘭の子は日ごとに成長していった。
我が子に松坂の面影を見る度に、彼女の胸は切なさで満たされた。
四季の移ろいの中でも、松坂への思いは決して色褪せることはなかった。
子を寝かしつけた後、雪蘭は外に出て、久しぶりに空を見上げる。
「あなたは私のことを覚えているでしょうか」
彼女の問いかけは、夜空の星に届くことはない。
「あなたはもしかして、日本へ帰ったのですか」
考えたくはなかったが、有り得る話であった。
松坂の祖国は日本である。
日本に復員するのは当然の流れだ。
「なんと愚かだったのでしょう」
雪蘭は自らを責めた。
「満州人である私との結婚は、所詮は政略に過ぎなかったというのに、私はそれを……」
いつしか雪蘭は、本物の愛の中に生きていると思っていた。
二重スパイの罪を背負う自分には、普通の幸せを手に入れる資格はないということなのであろうか。
雪蘭は運命の残酷さを噛みしめた。
とはいえ、混沌の渦に呑まれた満州の地で、彼女は子を抱きしめる幸福だけは残っていた。
「私にはこの子がいる」
雪蘭は、子供に「俊明」と名付けていた。
日本語読みで「としあき」、中国語で「シュンミン」。
どちらの世界でも生きていけるよう、こう名付けていたのだった。
秋は毎年やってくる。
赤いコウリャン畑を松坂と共に見る日は、もう一度来るのであろうか。
雪蘭の眼差しは、広い畑の向こうの、青い空の果てへと向けられていた。
松坂はシベリアの凍土を踏みしめた日々を思い返す。
夜毎、氷結した空を仰ぎ、妻子との再会を夢に見た。
そしていま、ようやく、松坂はこの満州の地に戻ってきたのだった。
秋の風はひんやりとしていたが、決して冷たくはなかった。
黄金色の陽差しが大地を覆い、コウリャンの穂が赤く揺れている。
遠くに、小さな影が見えた。風に乗って、名を呼ぶ声が微かに届く。胸の奥が詰まるようだった。
声にならない声が唇を震わせた。
足が自然と動いた。
その足は次第に早くなり、いつの間にか駆け出していた。
胸の内で高鳴るものを抑えきれず、ただひたすらに走った。
コウリャンの赤が、視界の端を流れていく。
その先に、あの顔があった。髪にはあの髪飾りが付けられている。
傍らに、幼い子供の姿も見つけた。
どれほどの時が経ったのか。
どれほどの言葉を交わせば、空白の年月が埋まるのか。
互いの頬に流れる涙を拭うように、互いがそっと手を伸ばす。
その温もりに触れた瞬間、すべてが確かなものとなった。
秋の風が、コウリャンの穂を揺らしている。
その赤は、燃えるように輝いていた。
家族は再会を果たした。
この腕の中に、今、愛するものがいる。
了
診察の結果、彼女のお腹に新しい命が宿っていることが判明した。
雪蘭の心に小さな光が灯った。
お腹の子は松坂との子であった。雪蘭は産むことを切望した。
この世界に、自分の人生に、新たな命を咲かせたい。命は、彼女にとって希望の象徴だった。
そんな希望の灯火を吹き消すかのように、雪蘭の前にソ連軍の憲兵たちが現れ、こう言い放った。
「雪蘭、お前を謀殺の容疑で逮捕する」
「何のことか分かりません! 私は誰も殺していません!」
雪蘭の叫びは、虚しく収容所の壁に吸い込まれていく。
ソ連側はクズネツォフの書き置きを、証拠として雪蘭に提示した。
そうか、あのときのことか。雪蘭は悟った。
諜報員クズネツォフは万が一の謀殺に備え、誰に会いに行くかを記録として残していたのだ。
雪蘭の心に恐怖が広がる。お腹の子だけはどうしても助けたい。
「私は妊娠中です。お腹に子供がいるのです。どうか、ご容赦を!」
そんな陳情が通るはずもなく、雪蘭は取り調べを受ける日々を過ごすこととなった。
* * *
松坂もまた、捕虜となっていた。
敗戦の果てにソ連軍の手に落ちたが、将校であったがゆえにハバロフスクの収容所へと送られた。
彼は中国語とロシア語に通じており、その才覚を見込まれて通訳の任を与えられた。
捕虜という境遇の中にあっても、彼の耳は異国の言葉を正確に捉え、その舌は異なる言語の狭間を器用に行き来した。
ある日、松坂の眼前にソ連軍の憲兵たちが現れた。
容疑は謀殺。
松坂は思い出した。二重スパイとしての取引相手を射殺したことを。
松坂は黙秘した。
ここで罪を認めては、収容所から出る日が遠のいてしまう。
今は早くこの収容所から出て、雪蘭に会いたい。それが松坂の願いであった。
容赦のない取り調べの中で、松坂の耳は鋭敏に働いていた。
行き交う足音、交わされる僅かな会話。彼はロシア語を解するがゆえに、それを聞き取ることができる。
「──あの雪蘭とかいう諜報員の方が怪しいな──」
その名が放たれた瞬間、松坂の胸が凍りついた。
雪蘭!
彼女も捕らえられているというのか
目の前の現実が静かに揺らぐ。
松坂は決断した。
「……憲兵殿」
彼は声を発した。自らの感情を押し隠し、あくまで穏やかに。
「自供します。その代わり、一つだけ私の願いを聞いていただきたい」
憲兵は鼻を鳴らした。
「取引のつもりか? お前は自分の立場が分かっているのか?」
松坂は、その言葉を聞いて不敵な笑みを浮かべる。表情の奥には、彼独特の冷静さが潜んでいた。
「おや、私の自供でこの件が早々に片付けば、あなたの手柄になるのではありませんか?」
言葉はするりと憲兵の心へ滑り込む。
松坂はただの捕虜ではない。幾多の密命を潜り抜けてきた諜報員でもあった。
憲兵の表情には緩みが見られた。
「……それで? 望みとは?」
松坂はゆっくりと瞼を閉じ、それから静かに開いた。
その瞳の奥には、ただ一つの願いがあった。
「私の望み、それは、生きる望みです」
憲兵は怪訝な顔をした。
「何のことだ?」
「私の生きる望み──それは、もう一度、妻の顔を見ることであります」
その声は澄みきり、どこか切ないほどの真実味を帯びていた。
虜囚であり謀殺容疑者でもある松坂の言葉は、今、一人の男の、そして一人の夫の言葉として響いていた。
* * *
「雪蘭、出ろ。面会の希望者がいる」
収容所の一室で、冷えた声が響く。
「……誰でしょうか?」
雪蘭は問いながらも、胸の奥に小さな波が立つのを感じた。
「これは秘密裏の面会だ。余計な詮索は無用。黙ってついてこい」
わけもわからず、雪蘭は別室へと連行された。
その部屋の扉が開かれる。
「あなた!」
「雪蘭!」
雪蘭は、松坂の無事を知り、心から安堵した。
松坂もまた、雪蘭の無事を知り喜びつつも、彼女の容姿の変化に目が行った。
「どうした、その髪は」
かつて、風に揺れていた黒く長い髪は、今はもうない。敗戦国の女として生きる苦しみが、ただ短く切り詰められたその髪に凝縮されていた。
だが、松坂の視線は、すぐにその髪に添えられた髪飾りへと移った。
それは、彼がかつて贈ったものだった。
短くなった髪に、無理をして付けているように思えた。
松坂の胸に熱がこみ上げる。
「よし、顔は見られたな。面会はこれで終わりだ」
無機質な言葉が、二人の邂逅を引き裂く。
「そんな! あ……あなた!」
連行されながら、雪蘭は叫んだ。
「私のお腹には、あなたとの赤ちゃんがいます!」
「本当か……!」
松坂はその事実に驚嘆した。
「俺は必ずここから出る。だから……お前もその子も、絶対に生き抜くんだ!」
言葉にできることは、それだけだった。
松坂も連行されていく。
引き離される二人の瞳は、しっかりと互いを映していた。
あまりにも短い再会であった。
日本語で交わされた二人の会話を、その場の兵士たちすべてが理解していたわけではなかった。
しかし、その場にいた兵士たちの中には、そっと目をぬぐう者もいた。
戦争が国を分け、敵と味方を隔てようとも、夫婦の愛は普遍であることを彼らは目の当たりにしたのだった。
クズネツォフ殺害を認めた松坂は将校待遇を失い、一般兵と同じくシベリアに送られることとなった。
* * *
「雪蘭さんの陣痛が始まりました。誰か、当直に知らせてください」
助産師の資格を持つ看護師がやって来る。
「いつから痛みが始まりましたか?」
「夜中から、少しずつ」
雪蘭は震える声で答えた。
看護師は雪蘭の腹部に手を当てる。
「胎児の向きがよくありません。医師を呼ばなくては」
しかし、当直の軍医は酔いつぶれており、使いものにならなかった。
「私たちだけでやるしかありません」
雪蘭の陣痛は激しくなり、彼女は時折意識を失いそうになった。
看護師は声をかけ続ける。
「あなたは強い。赤ちゃんも強い。二人とも生きるのよ」
夜が明け、朝が来ても、赤ん坊はまだ生まれなかった。
雪蘭の体力は限界に近づいていた。
看護師は、収容所長に事態を報告した。
所長は産科医を手配してくれた。
吹雪の中、医師が到着。
医師は素早く状況を把握し、必要な器具を用意させた。
医師は看護師に指示を出す。
「次の陣痛で、全力で押し出すように」
雪蘭の目には恐怖と同時に決意が見えた。
次の陣痛が来たとき、看護師らの励ましと共に彼女は全身の力を振り絞る。
その瞬間、部屋に新たな声が加わった。力強い赤ん坊の泣き声だった。
「男の子です」
医師が告げる。
臍帯を切断し、毛布に包んで雪蘭の腕に抱かせる。
雪蘭は疲れ切った顔に微笑みを浮かべ、赤ん坊の小さな顔を見つめた。
「私の赤ちゃん」
雪蘭は涙をこぼしながら囁いた。
赤ん坊の面影と松坂の面影が重なる。
医師や看護師は、静かにその光景を見つめていた。
敵国の女性と、その赤ん坊。
しかし彼らの目に映っていたのは、一人の母親と、新しく生まれた一人の命であった。
その夜、収容所の女性バラックは、小さな命の誕生を祝うかのように、静かな喜びに満ちていた。
バラックの外では雪が止み、星空が広がっていた。
ソ連兵たちは見張り台に立ちながら、この出来事について語り合っていた。
戦争は人々を敵と味方に区別するが、生命の誕生の前ではそのような区別は意味を失う。
誰かが呟いた。
「Жизни связаны」(命は繋がっている)
先月までうず高く積み上がっていた雪は、今日は一段と低くなっていた。
季節は少しずつ、春に近づいていた。
* * *
松坂は、シベリアの施設に送られた。
彼は雑居房の中で、誰とも言葉をかわさず、回想に耽っていた。
形式だけの婚姻として始まった雪蘭との絆。
政治的な駒に過ぎなかった二人が、いつしか本物の感情を宿し始めたとき、歴史の残酷な風が二人を引き裂いたのである。結局のところ、歪な結婚は歪なままであったのだ。
雪蘭は無事出産できたのであろうか。
我が子の顔を見ることも、頬に触れることさえできず、声を聞くこともなく、父親という名を持ちながら、何も出来ない自分がここにいた。
早く雪蘭のもとへ。その思いは彼の胸中で絶え間なく脈打っていた。
だが、脱走という選択肢は選べない。タイガの森の深淵は、自由への出口ではなく死への入口であるからだ。
残された道はただ一つ、与えられた時を真摯に生き、忍耐という名の鎖を黙々と繋いでいくことだけだった。
シベリアの冬は容赦がない。
今日も白く息が宙に凍り付く。
マイナス三十度を下回る極寒の朝、朽ちかけた木造バラックから這い出た彼らの影は長く伸び、雪面に暗く映っていた。
ソ連兵の怒号が氷点下の空気を切り裂く。
作業の手を止めて呆然と佇んでいた日本人を、監視のソ連兵が銃床で突いた。
その日本人は、顔から雪面に崩れ落ちていった。
松坂は助け起こそうとしたが、ソ連兵の鋭い目が彼の動きを制する。
「今日の作業は第三区画の枕木据え付けと線路敷設だ。かかれ!」
昨日の食事はわずかな黒パンと水で薄めた粗末なスープのみ。
松坂は昨日の夜、自分の配給の半分を、熱に浮かされていた若い日本人に分け与えていた。
しかし、その仲間は、朝には動けなくなっていた。
シャベル、つるはし、ハンマー、そのどれもが寒さに凍てついていた。
素手で金属を掴めば、皮膚がそのまま張り付いてしまう。
それでも松坂たちは作業を黙々と続けた。
松坂は重い鉄のハンマーを振り上げ、枕木に釘を打ち込む。
一打、二打、三打……
鈍い音が荒野に響く。凍えた指は感覚を失い、ハンマーの柄を握る力が次第に衰えていく。
休むわけにはいかない。
今日を生き延びるために、与えられた仕事をこなす。
日が西に傾きかけたころ、日本人がまた一人倒れた。
監視兵が駆け寄り、雪の上で動かなくなった彼を足蹴にする。反応はなかった。
おそらく、彼はもうだめだろう。
皆、見て見ぬふりをするしかなかった。
凍てついた星空の下、彼らは収容所へと足を引きずりながら帰途についた。
誰も話さない。
ただ、荒い息遣いと靴が雪を踏みしめる音だけが、静寂を破っていた。
松坂は空を見上げる。
同じ星を、今頃雪蘭も見ているのであろうか。
この地を離れ、再び雪蘭と、そしてまだ見ぬ我が子と会うことはできるのだろうか。
松坂はもう一度、星空を見上げた。
深く息を吸い込む。
凍てつく空気が肺に刺さる。
それは生きている証であった。
まだ、生きている。
* * *
夏が訪れる頃、雪蘭たちは自由を取り戻していた。ついに解放されたのだ。
故郷の満州の大地を踏みしめる感覚は、記憶の奥底から湧き上がる懐かしさとともに彼女を包んだ。
雪蘭の子は日ごとに成長していった。
我が子に松坂の面影を見る度に、彼女の胸は切なさで満たされた。
四季の移ろいの中でも、松坂への思いは決して色褪せることはなかった。
子を寝かしつけた後、雪蘭は外に出て、久しぶりに空を見上げる。
「あなたは私のことを覚えているでしょうか」
彼女の問いかけは、夜空の星に届くことはない。
「あなたはもしかして、日本へ帰ったのですか」
考えたくはなかったが、有り得る話であった。
松坂の祖国は日本である。
日本に復員するのは当然の流れだ。
「なんと愚かだったのでしょう」
雪蘭は自らを責めた。
「満州人である私との結婚は、所詮は政略に過ぎなかったというのに、私はそれを……」
いつしか雪蘭は、本物の愛の中に生きていると思っていた。
二重スパイの罪を背負う自分には、普通の幸せを手に入れる資格はないということなのであろうか。
雪蘭は運命の残酷さを噛みしめた。
とはいえ、混沌の渦に呑まれた満州の地で、彼女は子を抱きしめる幸福だけは残っていた。
「私にはこの子がいる」
雪蘭は、子供に「俊明」と名付けていた。
日本語読みで「としあき」、中国語で「シュンミン」。
どちらの世界でも生きていけるよう、こう名付けていたのだった。
秋は毎年やってくる。
赤いコウリャン畑を松坂と共に見る日は、もう一度来るのであろうか。
雪蘭の眼差しは、広い畑の向こうの、青い空の果てへと向けられていた。
松坂はシベリアの凍土を踏みしめた日々を思い返す。
夜毎、氷結した空を仰ぎ、妻子との再会を夢に見た。
そしていま、ようやく、松坂はこの満州の地に戻ってきたのだった。
秋の風はひんやりとしていたが、決して冷たくはなかった。
黄金色の陽差しが大地を覆い、コウリャンの穂が赤く揺れている。
遠くに、小さな影が見えた。風に乗って、名を呼ぶ声が微かに届く。胸の奥が詰まるようだった。
声にならない声が唇を震わせた。
足が自然と動いた。
その足は次第に早くなり、いつの間にか駆け出していた。
胸の内で高鳴るものを抑えきれず、ただひたすらに走った。
コウリャンの赤が、視界の端を流れていく。
その先に、あの顔があった。髪にはあの髪飾りが付けられている。
傍らに、幼い子供の姿も見つけた。
どれほどの時が経ったのか。
どれほどの言葉を交わせば、空白の年月が埋まるのか。
互いの頬に流れる涙を拭うように、互いがそっと手を伸ばす。
その温もりに触れた瞬間、すべてが確かなものとなった。
秋の風が、コウリャンの穂を揺らしている。
その赤は、燃えるように輝いていた。
家族は再会を果たした。
この腕の中に、今、愛するものがいる。
了



