赤いコウリャンと白い結婚

 ある日のこと、雪蘭は体調不良を訴え医務室に搬送された。
 診察の結果、彼女のお腹に新しい命が宿っていることが判明した。
 雪蘭の心に小さな光が灯った。
 お腹の子は松坂との子であった。雪蘭は産むことを切望した。
 この世界に、自分の人生に、新たな命を咲かせたい。命は、彼女にとって希望の象徴だった。
 そんな希望の灯火を吹き消すかのように、雪蘭の前にソ連軍の憲兵たちが現れ、こう言い放った。

「雪蘭、お前を謀殺の容疑で逮捕する」

「何のことか分かりません! 私は誰も殺していません!」

 雪蘭の叫びは、虚しく収容所の壁に吸い込まれていく。
 ソ連側はクズネツォフの書き置きを、証拠として雪蘭に提示した。
 そうか、あのときのことか。雪蘭は悟った。
 諜報員クズネツォフは万が一の謀殺に備え、誰に会いに行くかを記録として残していたのだ。
 雪蘭の心に恐怖が広がる。お腹の子だけはどうしても助けたい。

「私は妊娠中です。お腹に子供がいるのです。どうか、ご容赦を!」

 そんな陳情が通るはずもなく、雪蘭は取り調べを受ける日々を過ごすこととなった。

* * *

 松坂もまた、捕虜となっていた。
 敗戦の果てにソ連軍の手に落ちたが、将校であったがゆえにハバロフスクの収容所へと送られた。
 彼は中国語とロシア語に通じており、その才覚を見込まれて通訳の任を与えられた。
 捕虜という境遇の中にあっても、彼の耳は異国の言葉を正確に捉え、その舌は異なる言語の狭間を器用に行き来した。

 ある日、松坂の眼前にソ連軍の憲兵たちが現れた。
 容疑は謀殺。
 松坂は思い出した。二重スパイとしての取引相手を射殺したことを。
 松坂は黙秘した。
 ここで罪を認めては、収容所から出る日が遠のいてしまう。
 今は早くこの収容所から出て、雪蘭に会いたい。それが松坂の願いであった。
 容赦のない取り調べの中で、松坂の耳は鋭敏に働いていた。
 行き交う足音、交わされる僅かな会話。彼はロシア語を解するがゆえに、それを聞き取ることができる。

「──あの雪蘭とかいう諜報員の方が怪しいな──」

 その名が放たれた瞬間、松坂の胸が凍りついた。
 雪蘭!
 彼女も捕らえられているというのか
 目の前の現実が静かに揺らぐ。
 松坂は決断した。

「……憲兵殿」

 彼は声を発した。自らの感情を押し隠し、あくまで穏やかに。

「自供します。その代わり、一つだけ私の願いを聞いていただきたい」

 憲兵は鼻を鳴らした。

「取引のつもりか? お前は自分の立場が分かっているのか?」

 松坂は、その言葉を聞いて不敵な笑みを浮かべる。表情の奥には、彼独特の冷静さが潜んでいた。

「おや、私の自供でこの件が早々に片付けば、あなたの手柄になるのではありませんか?」

 言葉はするりと憲兵の心へ滑り込む。
 松坂はただの捕虜ではない。幾多の密命を潜り抜けてきた諜報員でもあった。
 憲兵の表情には緩みが見られた。

「……それで? 望みとは?」

 松坂はゆっくりと瞼を閉じ、それから静かに開いた。
 その瞳の奥には、ただ一つの願いがあった。

「私の望み、それは、生きる望みです」

 憲兵は怪訝な顔をした。

「何のことだ?」

「私の生きる望み──それは、もう一度、妻の顔を見ることであります」

 その声は澄みきり、どこか切ないほどの真実味を帯びていた。
 虜囚であり謀殺容疑者でもある松坂の言葉は、今、一人の男の、そして一人の夫の言葉として響いていた。

* * *

「雪蘭、出ろ。面会の希望者がいる」

 収容所の一室で、冷えた声が響く。

「……誰でしょうか?」

 雪蘭は問いながらも、胸の奥に小さな波が立つのを感じた。

「これは秘密裏の面会だ。余計な詮索は無用。黙ってついてこい」

 わけもわからず、雪蘭は別室へと連行された。
 その部屋の扉が開かれる。

「あなた!」

「雪蘭!」

 雪蘭は、松坂の無事を知り、心から安堵した。
 松坂もまた、雪蘭の無事を知り喜びつつも、彼女の容姿の変化に目が行った。

「どうした、その髪は」

 かつて、風に揺れていた黒く長い髪は、今はもうない。敗戦国の女として生きる苦しみが、ただ短く切り詰められたその髪に凝縮されていた。
 だが、松坂の視線は、すぐにその髪に添えられた髪飾りへと移った。
 それは、彼がかつて贈ったものだった。
 短くなった髪に、無理をして付けているように思えた。
 松坂の胸に熱がこみ上げる。

「よし、顔は見られたな。面会はこれで終わりだ」

 無機質な言葉が、二人の邂逅を引き裂く。

「そんな! あ……あなた!」

 連行されながら、雪蘭は叫んだ。

「私のお腹には、あなたとの赤ちゃんがいます!」

「本当か……!」

 松坂はその事実に驚嘆した。

「俺は必ずここから出る。だから……お前もその子も、絶対に生き抜くんだ!」

 言葉にできることは、それだけだった。
 松坂も連行されていく。
 引き離される二人の瞳は、しっかりと互いを映していた。

 あまりにも短い再会であった。
 日本語で交わされた二人の会話を、その場の兵士たちすべてが理解していたわけではなかった。
 しかし、その場にいた兵士たちの中には、そっと目をぬぐう者もいた。
 戦争が国を分け、敵と味方を隔てようとも、夫婦の愛は普遍であることを彼らは目の当たりにしたのだった。
 
 クズネツォフ殺害を認めた松坂は将校待遇を失い、一般兵と同じくシベリアに送られることとなった。

* * *

「雪蘭さんの陣痛が始まりました。誰か、当直に知らせてください」

 助産師の資格を持つ看護師がやって来る。

「いつから痛みが始まりましたか?」

「夜中から、少しずつ」

 雪蘭は震える声で答えた。
 看護師は雪蘭の腹部に手を当てる。

「胎児の向きがよくありません。医師を呼ばなくては」

 しかし、当直の軍医は酔いつぶれており、使いものにならなかった。

「私たちだけでやるしかありません」

 雪蘭の陣痛は激しくなり、彼女は時折意識を失いそうになった。
 看護師は声をかけ続ける。

「あなたは強い。赤ちゃんも強い。二人とも生きるのよ」

 夜が明け、朝が来ても、赤ん坊はまだ生まれなかった。
 雪蘭の体力は限界に近づいていた。
 看護師は、収容所長に事態を報告した。
 所長は産科医を手配してくれた。
 吹雪の中、医師が到着。
 医師は素早く状況を把握し、必要な器具を用意させた。
 医師は看護師に指示を出す。

「次の陣痛で、全力で押し出すように」

 雪蘭の目には恐怖と同時に決意が見えた。
 次の陣痛が来たとき、看護師らの励ましと共に彼女は全身の力を振り絞る。
 その瞬間、部屋に新たな声が加わった。力強い赤ん坊の泣き声だった。

「男の子です」

 医師が告げる。
 臍帯を切断し、毛布に包んで雪蘭の腕に抱かせる。
 雪蘭は疲れ切った顔に微笑みを浮かべ、赤ん坊の小さな顔を見つめた。

「私の赤ちゃん」

 雪蘭は涙をこぼしながら囁いた。
 赤ん坊の面影と松坂の面影が重なる。

 医師や看護師は、静かにその光景を見つめていた。
 敵国の女性と、その赤ん坊。
 しかし彼らの目に映っていたのは、一人の母親と、新しく生まれた一人の命であった。

 その夜、収容所の女性バラックは、小さな命の誕生を祝うかのように、静かな喜びに満ちていた。
 バラックの外では雪が止み、星空が広がっていた。
 ソ連兵たちは見張り台に立ちながら、この出来事について語り合っていた。
 戦争は人々を敵と味方に区別するが、生命の誕生の前ではそのような区別は意味を失う。
 誰かが呟いた。
「Жизни связаны」(命は繋がっている)

 先月までうず高く積み上がっていた雪は、今日は一段と低くなっていた。
 季節は少しずつ、春に近づいていた。

* * *

 松坂は、シベリアの施設に送られた。
 彼は雑居房の中で、誰とも言葉をかわさず、回想に耽っていた。
 形式だけの婚姻として始まった雪蘭との絆。
 政治的な駒に過ぎなかった二人が、いつしか本物の感情を宿し始めたとき、歴史の残酷な風が二人を引き裂いたのである。結局のところ、歪な結婚は歪なままであったのだ。
 雪蘭は無事出産できたのであろうか。
 我が子の顔を見ることも、頬に触れることさえできず、声を聞くこともなく、父親という名を持ちながら、何も出来ない自分がここにいた。
 早く雪蘭のもとへ。その思いは彼の胸中で絶え間なく脈打っていた。
 だが、脱走という選択肢は選べない。タイガの森の深淵は、自由への出口ではなく死への入口であるからだ。
 残された道はただ一つ、与えられた時を真摯に生き、忍耐という名の鎖を黙々と繋いでいくことだけだった。

 シベリアの冬は容赦がない。
 今日も白く息が宙に凍り付く。
 マイナス三十度を下回る極寒の朝、朽ちかけた木造バラックから這い出た彼らの影は長く伸び、雪面に暗く映っていた。
 ソ連兵の怒号が氷点下の空気を切り裂く。
 作業の手を止めて呆然と佇んでいた日本人を、監視のソ連兵が銃床で突いた。
 その日本人は、顔から雪面に崩れ落ちていった。
 松坂は助け起こそうとしたが、ソ連兵の鋭い目が彼の動きを制する。

「今日の作業は第三区画の枕木据え付けと線路敷設だ。かかれ!」

 昨日の食事はわずかな黒パンと水で薄めた粗末なスープのみ。
 松坂は昨日の夜、自分の配給の半分を、熱に浮かされていた若い日本人に分け与えていた。
 しかし、その仲間は、朝には動けなくなっていた。

 シャベル、つるはし、ハンマー、そのどれもが寒さに凍てついていた。
 素手で金属を掴めば、皮膚がそのまま張り付いてしまう。
 それでも松坂たちは作業を黙々と続けた。
 松坂は重い鉄のハンマーを振り上げ、枕木に釘を打ち込む。
 一打、二打、三打……
 鈍い音が荒野に響く。凍えた指は感覚を失い、ハンマーの柄を握る力が次第に衰えていく。
 休むわけにはいかない。
 今日を生き延びるために、与えられた仕事をこなす。

 日が西に傾きかけたころ、日本人がまた一人倒れた。
 監視兵が駆け寄り、雪の上で動かなくなった彼を足蹴にする。反応はなかった。
 おそらく、彼はもうだめだろう。
 皆、見て見ぬふりをするしかなかった。

 凍てついた星空の下、彼らは収容所へと足を引きずりながら帰途についた。
 誰も話さない。
 ただ、荒い息遣いと靴が雪を踏みしめる音だけが、静寂を破っていた。
 松坂は空を見上げる。
 同じ星を、今頃雪蘭も見ているのであろうか。
 この地を離れ、再び雪蘭と、そしてまだ見ぬ我が子と会うことはできるのだろうか。

 松坂はもう一度、星空を見上げた。
 深く息を吸い込む。
 凍てつく空気が肺に刺さる。
 それは生きている証であった。
 まだ、生きている。

* * *

 夏が訪れる頃、雪蘭たちは自由を取り戻していた。ついに解放されたのだ。
 故郷の満州の大地を踏みしめる感覚は、記憶の奥底から湧き上がる懐かしさとともに彼女を包んだ。
 雪蘭の子は日ごとに成長していった。
 我が子に松坂の面影を見る度に、彼女の胸は切なさで満たされた。
 四季の移ろいの中でも、松坂への思いは決して色褪せることはなかった。
 子を寝かしつけた後、雪蘭は外に出て、久しぶりに空を見上げる。

「あなたは私のことを覚えているでしょうか」

 彼女の問いかけは、夜空の星に届くことはない。

「あなたはもしかして、日本へ帰ったのですか」

 考えたくはなかったが、有り得る話であった。
 松坂の祖国は日本である。
 日本に復員するのは当然の流れだ。

「なんと愚かだったのでしょう」

 雪蘭は自らを責めた。

「満州人である私との結婚は、所詮は政略に過ぎなかったというのに、私はそれを……」

 いつしか雪蘭は、本物の愛の中に生きていると思っていた。
 二重スパイの罪を背負う自分には、普通の幸せを手に入れる資格はないということなのであろうか。
 雪蘭は運命の残酷さを噛みしめた。
 とはいえ、混沌の渦に呑まれた満州の地で、彼女は子を抱きしめる幸福だけは残っていた。

「私にはこの子がいる」

 雪蘭は、子供に「俊明」と名付けていた。
 日本語読みで「としあき」、中国語で「シュンミン」。
 どちらの世界でも生きていけるよう、こう名付けていたのだった。

 秋は毎年やってくる。
 赤いコウリャン畑を松坂と共に見る日は、もう一度来るのであろうか。
 雪蘭の眼差しは、広い畑の向こうの、青い空の果てへと向けられていた。

 松坂はシベリアの凍土を踏みしめた日々を思い返す。
 夜毎、氷結した空を仰ぎ、妻子との再会を夢に見た。
 そしていま、ようやく、松坂はこの満州の地に戻ってきたのだった。

 秋の風はひんやりとしていたが、決して冷たくはなかった。
 黄金色の陽差しが大地を覆い、コウリャンの穂が赤く揺れている。
 遠くに、小さな影が見えた。風に乗って、名を呼ぶ声が微かに届く。胸の奥が詰まるようだった。
 声にならない声が唇を震わせた。
 足が自然と動いた。
 その足は次第に早くなり、いつの間にか駆け出していた。
 胸の内で高鳴るものを抑えきれず、ただひたすらに走った。
 コウリャンの赤が、視界の端を流れていく。
 その先に、あの顔があった。髪にはあの髪飾りが付けられている。
 傍らに、幼い子供の姿も見つけた。
 どれほどの時が経ったのか。
 どれほどの言葉を交わせば、空白の年月が埋まるのか。

 互いの頬に流れる涙を拭うように、互いがそっと手を伸ばす。
 その温もりに触れた瞬間、すべてが確かなものとなった。
 秋の風が、コウリャンの穂を揺らしている。
 その赤は、燃えるように輝いていた。
 家族は再会を果たした。
 この腕の中に、今、愛するものがいる。