昭和二十年八月九日、午前零時。
ソ連軍の砲撃が満州の夜空を引き裂いた。
轟音が大地を震わせ、閃光が街並みを照らし出す。
空襲警報のサイレンが鳴り響き、人々の悲鳴が街を満たしていく。
戦闘は満州だけではなかった。
樺太ではソ連軍が国境を超え、南樺太へと侵攻。
千島列島では、ソ連海軍が艦砲射撃や上陸作戦を行い、島を次々に奪っていった。
日本は、ソビエト連邦と交戦状態に入ったのだ。
関東軍の兵士は七十万人、戦車二百九十両、戦闘用の航空機二百三十二機。
この戦力で、満州に侵攻してきたソ連軍を迎え撃つ。
一方、満州に侵攻したソ連軍の兵士は百五十万人、戦車五千両、ロケット砲千台、航空機三千機。
質も量も、ソ連軍の方が圧倒的に上であった。
皇帝溥儀は満州国軍に対し、関東軍に協力してソ連軍を撃退するよう命令を下す。
しかし、満州国軍の実態は、徴兵によって強制的に人員だけを揃えた烏合の衆であった。
装備も貧弱であり、一人一丁の銃すら支給できていなかった。
満州国のラジオニュースは、次のように報道した。
「今朝、ソ連は卑怯にも突如として満州国を攻撃。ソ連は日ソ中立条約を一方的に蹂躙し、不法にも全国境から侵入を開始しました。しかし、我に関東軍の精鋭百万あり。全軍の士気は極めて旺盛、目下、前線では激戦を展開。ソ連軍を撃退中であります」
このラジオニュースは、満州国民ばかりでなく、日本政府の目を覚まさせることとなった。日本政府は中立国であったソ連を仲介とした和平交渉を進めていたが、ソ連が敵側について参戦してきたことで、和平交渉は頓挫したのである。
満州国軍は関東軍の補佐的な位置づけである。
指揮官は日本人であるため命令も日本語であり、伝達に齟齬が生じていた。
ソ連侵攻を知るやいなや、多くの満州国軍が離散していった。
満州国軍の一部は造反し、ソ連側へと寝返った。
これまで圧政を敷いてきた日本に対して、満州人が報復を開始したのだった。
こういった動きは軍に限ったことではなかった。
満州の崩壊が近いことを悟った満州人たちの中は、日本人移民者を襲撃する者まで現れた。
表に出た雪蘭は、衝撃の光景を目の当たりにする。
十人ほどの満州人たちが、角を曲がったところの倉庫に追い詰められた日本人役人と南満州鉄道職員を取り囲んでいた。
長年の抑圧と屈辱が一気に爆発したのだった。
満州人の一人は群衆の最前列に立ち、鉄の棒を振り上げる。
「鬼日本人! これが我々の土地を盗んだ報いだ!」
彼の声には十四年分の怒りが込められていた。
取り囲まれた日本人たちは、権力者としての威厳を完全に無くし、今はただ命乞いをするのみの存在に成り下がっていた。
群衆の怒号は止まらない。
「日本人を殺せ!」
「我々の恨みを思い知らせろ!」
棒を振りかざした男が一歩前に出る。
その時だった。
「待ちなさい!」
透き通るような女性の声が空気を切り裂いた。
群衆が振り返ると、そこには若く美しい満州人女性が立っていた。雪蘭である。
彼女の震える細い体からは明らかに緊張が認められたが、その目には揺るぎない決意が宿っていた。
「いったい何をするつもりですか」
雪蘭の声は柔らかいが、よく通る声でもあった。
「正義だ!」
「日本人が我々から奪ったものを取り返すんだ!」
群衆が次々に叫びだす。
しかし、雪蘭は静かに首を横に振った。
「これが正義ですか? 無力になった人々に暴力を振るうことが」
「日本人は我々の土地を奪った」
鉄の棒を掲げた男は、そう言い放つ。
雪蘭は一歩前に出ると、その男をまっすぐ見つめ、こう言った。
「今ここで日本人に報復して、いったい何を得るというのですか」
「では、彼らの罪を見逃せというのか?」
「いいえ」
雪蘭はきっぱりと言った。
「裁きは必要です。しかし、それは怒りに任せた暴力ではなく、正当な手続きで行うべきものです。私たちが築きたいのは、暴力の世界ではなく、正義の世界のはずではないのですか」
「何を呑気なことを言っている。関東軍は満州を守ってくれる、そういう存在だったはず。それがどうだ。関東軍は撤退の準備を始めているじゃないか。日本人は一体何をしに満州に来たんだ!」
「今はこんな争いをしている場合ではありません。満州人と日本人とが殺し合いを始めてしまったら、ソ連の笑いものになります。今は命を大事に。とにかく、逃げましょう!」
雪蘭の鈴のような通る声は、荒れていた群衆の心をいくばくか穏やかにした。
雪蘭は続けた。
「皆さん、荷物をまとめて駅に行ってください。疎開列車が出発します」
冷静さを取り戻した群衆は、自分とその家族の命を守るための行動を取り始めた。
叫んでいた男も、棒を放り投げてこう言った。
「言うとおりだな……俺も自分の家族を守ることにする」
殺されかけていた日本人は雪蘭に感謝した。
雪蘭は彼らにこう言った。
「あなたは南満州鉄道の幹部ですよね。住民の避難、よろしくお願いします」
雪蘭自身も避難しなければならない。
家に戻ると、彼女は一筆、書き置きを残した。
「父と共に避難します。心配しないでください。再び満州の地で、あなたに会えることを祈っております」
雪蘭はペンを持つ手が震えていることに気がついた。
「心配しないでください」
その言葉は、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
夫とはもう会えないのではないか。そんな不安に押し潰されそうになっていた。
雪蘭と父は、皇帝溥儀らと共に朝鮮国境付近の街へと脱出することとなった。
振り返ると、煙を上げる満州の街並みが、遠くに小さく見える。
雪蘭は、遠い空の向こうで戦っている夫の無事を祈り続けていた。
* * *
書斎に残された、雪蘭からの一通の手紙。
それを読み、松坂は決意した。
必ずや生き残り、雪蘭を迎えに行くと。
* * *
ソ連軍の戦車が満州の森を突き進んでいく。
「鹿の通れる所、そこはロシア兵も通れる」
その言葉通り、ソ連兵たちは深い森においても進路を切り開いて侵攻してきた。
戦車が木々をなぎ倒す。工兵がその木を敷いて道路をつくる。
こうしてソ連軍は、関東軍が想定していなかった経路にて戦車部隊を満州へと突入させていったのだった。
夕暮れの赤みを帯びた空の下、満州の荒野は煙と黄砂に覆われていた。遠くから聞こえる履帯の軋む音が、まるで死神の足音のように感じられた。
松坂は双眼鏡を通して地平線上に現れた鉄の巨人たちを無言で見つめていた。
ソ連軍の戦車部隊だ。
「……もはや逃げ場はない。是非に及ばず」
日本政府が「王道楽土」と呼ばせたこの満州の地は、今や「寸善尺魔」の地と化していた。
敵の砲撃が始まった。
大地が揺れ、塹壕の土が松坂たちの頭上に降り注ぐ。
若い上等兵が恐怖に顔を引きつらせ、古びた写真を胸ポケットから取り出した。死を前に愛しい人の顔をもう一度拝みたい、そう思ったのであろう。松坂は、そんな彼を見て、雪蘭のことを思い出した。
「松坂少尉殿、我々はどうすれば──」
質問は半ばで途切れた。答えは明白だったからだ。大日本帝国の軍人として、潔く最期を迎えるのみ。
死を覚悟した松坂の脳裏に、雪蘭と眺めた広大なコウリャン畑の光景が蘇った。
雪蘭と共に秋を迎えたかった……雪蘭と共に赤いコウリャン畑を見たかった……
松坂は決断し、こう宣言した。
「我々は投降する」
松坂の声は落ち着いていた。
「武器を捨てて、白旗を掲げる」
部下たちの目が大きく見開かれる。
「少尉殿! それは……」
松坂は部下の言葉を遮る。
「軍人として、死ぬことより難しいことがある。それは、生き延びて祖国の将来を見届けることだ」
塹壕の中で、兵士たちは互いに顔を見合わせる。
──生きて虜囚の辱めを受けず──
軍人なれば誰もが知っている戦陣訓。
彼らの心の中で長い間教え込まれてきた価値観は、今、崩れようとしていた。
ソ連軍の戦車は丘を越え、彼らの陣地へと迫ってくる。
その巨大な砲塔は彼らに向けられていた。もはや時間はない。
松坂は軍刀を取り出し、その刃を見つめた。
かつての武士なら、この刀で自らの命を絶っただろう。
しかし、彼はそれを静かに地面に置いた。
「行くぞ!」
白い布を風になびかせ、松坂は塹壕から這い出た。
率先垂範。そんな松坂の姿勢は、部下たちを動かした。
皆、両手を上げて降伏の意思を示す。
前方には、ソ連の戦車群。
砲塔のハッチが開き、兵士たちが現れた。
松坂は背筋を伸ばし、威厳を保ったまま歩みを進める。
松坂の心に様々な思いが交錯する。敗北の屈辱、生存への希望、そして、未知の捕虜生活への恐れ……
ソ連兵は銃を構えながら、松坂たちに近づいていく。
その顔には勝者の驕りではなく、意外にもある種の敬意のようなものが浮かんでいた。
日ソ両国の軍人が、満州の夕暮れの中で向かい合った。
「我々は投降します」
その言葉は、一人の軍人の宣言に過ぎなかったが、まるで一つの時代の終わりを宣言するかのようでもあった。
満州の夕暮れは光を失い、漆黒が空を染めた。
* * *
避難先にて、雪蘭は自らの美しい髪をすべて切り落とした。女性だと分かるとソ連兵から暴行を受けるからだ。
鏡に映った坊主頭の自分を見て、雪蘭は涙を流した。
彼女にとっては髪を切ることよりも、松坂からもらった髪飾りを付けられないことの方が悲しかった。
「いつか必ず」
いつか必ず、髪を伸ばし再びこの髪飾りを付けて松坂に会える日が来ることを。
そう願い続けた。
八月十八日。
皇帝溥儀は、避難先の大栗子にて、満州国の解体を宣言。
ここに歴史は、一つの国の終わりを刻んだ。
溥儀はなんと数奇な運命を辿ったのであろう。溥儀は、清では最後の皇帝、満州国では最初にして最後の皇帝となった。
そして溥儀は、ソビエト連邦ハバロフスクにある将校収容所へと送られた。
雪蘭とその父は、溥儀の側近であったため、溥儀と共に同じく将校収容所へと送られた。
* * *
雪蘭は朝早くに目を覚ました。自分はやはり収容所にいた。夢ではなかった。
「起床! 整列!」
粗暴な声が収容所内に響き渡る。
収容所の朝の儀式は毎日同じだ。点呼の後、わずかな朝食が配られた。水で薄められた雑穀粥と、小さなパンの切れ端。
雪蘭は、かつて松坂と共にしていた朝食が、いかに幸せな時間であったかを思い返していた。
「何をぼんやりしている!」
監視兵の叱責に、雪蘭は我に返る。
日中は作業が続く。雪蘭は女性ということで、始めは軍服の修繕の作業を任されていたが、日本語に堪能であることが知られると、押収した日本軍資料の翻訳をさせられることとなった。
日本語の文字を読むたびに、その文字は雪蘭の脳内で、松坂の声となって再生された。
元皇帝である溥儀は、衣服の中に縫い込んでいたり鞄の二重底の中に隠していたりして持ち込んでいた清朝の財宝を、少しずつソ連軍に売り渡し、引き換えに自分への厚遇を要求していた。
ここにきて、雪蘭は溥儀の持つ隠し財産の実態を知ることとなった。
元皇帝の情けない姿を見て軽蔑した。しかし、自分自身も大金欲しさに二重スパイをしていたという過去を思い返した。
金を得たいと思ったのは、自由を得たいと思ったからであった。しかし、実際に得たものは、祖国の滅亡、そして、夫との別離であった。
ソ連軍の砲撃が満州の夜空を引き裂いた。
轟音が大地を震わせ、閃光が街並みを照らし出す。
空襲警報のサイレンが鳴り響き、人々の悲鳴が街を満たしていく。
戦闘は満州だけではなかった。
樺太ではソ連軍が国境を超え、南樺太へと侵攻。
千島列島では、ソ連海軍が艦砲射撃や上陸作戦を行い、島を次々に奪っていった。
日本は、ソビエト連邦と交戦状態に入ったのだ。
関東軍の兵士は七十万人、戦車二百九十両、戦闘用の航空機二百三十二機。
この戦力で、満州に侵攻してきたソ連軍を迎え撃つ。
一方、満州に侵攻したソ連軍の兵士は百五十万人、戦車五千両、ロケット砲千台、航空機三千機。
質も量も、ソ連軍の方が圧倒的に上であった。
皇帝溥儀は満州国軍に対し、関東軍に協力してソ連軍を撃退するよう命令を下す。
しかし、満州国軍の実態は、徴兵によって強制的に人員だけを揃えた烏合の衆であった。
装備も貧弱であり、一人一丁の銃すら支給できていなかった。
満州国のラジオニュースは、次のように報道した。
「今朝、ソ連は卑怯にも突如として満州国を攻撃。ソ連は日ソ中立条約を一方的に蹂躙し、不法にも全国境から侵入を開始しました。しかし、我に関東軍の精鋭百万あり。全軍の士気は極めて旺盛、目下、前線では激戦を展開。ソ連軍を撃退中であります」
このラジオニュースは、満州国民ばかりでなく、日本政府の目を覚まさせることとなった。日本政府は中立国であったソ連を仲介とした和平交渉を進めていたが、ソ連が敵側について参戦してきたことで、和平交渉は頓挫したのである。
満州国軍は関東軍の補佐的な位置づけである。
指揮官は日本人であるため命令も日本語であり、伝達に齟齬が生じていた。
ソ連侵攻を知るやいなや、多くの満州国軍が離散していった。
満州国軍の一部は造反し、ソ連側へと寝返った。
これまで圧政を敷いてきた日本に対して、満州人が報復を開始したのだった。
こういった動きは軍に限ったことではなかった。
満州の崩壊が近いことを悟った満州人たちの中は、日本人移民者を襲撃する者まで現れた。
表に出た雪蘭は、衝撃の光景を目の当たりにする。
十人ほどの満州人たちが、角を曲がったところの倉庫に追い詰められた日本人役人と南満州鉄道職員を取り囲んでいた。
長年の抑圧と屈辱が一気に爆発したのだった。
満州人の一人は群衆の最前列に立ち、鉄の棒を振り上げる。
「鬼日本人! これが我々の土地を盗んだ報いだ!」
彼の声には十四年分の怒りが込められていた。
取り囲まれた日本人たちは、権力者としての威厳を完全に無くし、今はただ命乞いをするのみの存在に成り下がっていた。
群衆の怒号は止まらない。
「日本人を殺せ!」
「我々の恨みを思い知らせろ!」
棒を振りかざした男が一歩前に出る。
その時だった。
「待ちなさい!」
透き通るような女性の声が空気を切り裂いた。
群衆が振り返ると、そこには若く美しい満州人女性が立っていた。雪蘭である。
彼女の震える細い体からは明らかに緊張が認められたが、その目には揺るぎない決意が宿っていた。
「いったい何をするつもりですか」
雪蘭の声は柔らかいが、よく通る声でもあった。
「正義だ!」
「日本人が我々から奪ったものを取り返すんだ!」
群衆が次々に叫びだす。
しかし、雪蘭は静かに首を横に振った。
「これが正義ですか? 無力になった人々に暴力を振るうことが」
「日本人は我々の土地を奪った」
鉄の棒を掲げた男は、そう言い放つ。
雪蘭は一歩前に出ると、その男をまっすぐ見つめ、こう言った。
「今ここで日本人に報復して、いったい何を得るというのですか」
「では、彼らの罪を見逃せというのか?」
「いいえ」
雪蘭はきっぱりと言った。
「裁きは必要です。しかし、それは怒りに任せた暴力ではなく、正当な手続きで行うべきものです。私たちが築きたいのは、暴力の世界ではなく、正義の世界のはずではないのですか」
「何を呑気なことを言っている。関東軍は満州を守ってくれる、そういう存在だったはず。それがどうだ。関東軍は撤退の準備を始めているじゃないか。日本人は一体何をしに満州に来たんだ!」
「今はこんな争いをしている場合ではありません。満州人と日本人とが殺し合いを始めてしまったら、ソ連の笑いものになります。今は命を大事に。とにかく、逃げましょう!」
雪蘭の鈴のような通る声は、荒れていた群衆の心をいくばくか穏やかにした。
雪蘭は続けた。
「皆さん、荷物をまとめて駅に行ってください。疎開列車が出発します」
冷静さを取り戻した群衆は、自分とその家族の命を守るための行動を取り始めた。
叫んでいた男も、棒を放り投げてこう言った。
「言うとおりだな……俺も自分の家族を守ることにする」
殺されかけていた日本人は雪蘭に感謝した。
雪蘭は彼らにこう言った。
「あなたは南満州鉄道の幹部ですよね。住民の避難、よろしくお願いします」
雪蘭自身も避難しなければならない。
家に戻ると、彼女は一筆、書き置きを残した。
「父と共に避難します。心配しないでください。再び満州の地で、あなたに会えることを祈っております」
雪蘭はペンを持つ手が震えていることに気がついた。
「心配しないでください」
その言葉は、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
夫とはもう会えないのではないか。そんな不安に押し潰されそうになっていた。
雪蘭と父は、皇帝溥儀らと共に朝鮮国境付近の街へと脱出することとなった。
振り返ると、煙を上げる満州の街並みが、遠くに小さく見える。
雪蘭は、遠い空の向こうで戦っている夫の無事を祈り続けていた。
* * *
書斎に残された、雪蘭からの一通の手紙。
それを読み、松坂は決意した。
必ずや生き残り、雪蘭を迎えに行くと。
* * *
ソ連軍の戦車が満州の森を突き進んでいく。
「鹿の通れる所、そこはロシア兵も通れる」
その言葉通り、ソ連兵たちは深い森においても進路を切り開いて侵攻してきた。
戦車が木々をなぎ倒す。工兵がその木を敷いて道路をつくる。
こうしてソ連軍は、関東軍が想定していなかった経路にて戦車部隊を満州へと突入させていったのだった。
夕暮れの赤みを帯びた空の下、満州の荒野は煙と黄砂に覆われていた。遠くから聞こえる履帯の軋む音が、まるで死神の足音のように感じられた。
松坂は双眼鏡を通して地平線上に現れた鉄の巨人たちを無言で見つめていた。
ソ連軍の戦車部隊だ。
「……もはや逃げ場はない。是非に及ばず」
日本政府が「王道楽土」と呼ばせたこの満州の地は、今や「寸善尺魔」の地と化していた。
敵の砲撃が始まった。
大地が揺れ、塹壕の土が松坂たちの頭上に降り注ぐ。
若い上等兵が恐怖に顔を引きつらせ、古びた写真を胸ポケットから取り出した。死を前に愛しい人の顔をもう一度拝みたい、そう思ったのであろう。松坂は、そんな彼を見て、雪蘭のことを思い出した。
「松坂少尉殿、我々はどうすれば──」
質問は半ばで途切れた。答えは明白だったからだ。大日本帝国の軍人として、潔く最期を迎えるのみ。
死を覚悟した松坂の脳裏に、雪蘭と眺めた広大なコウリャン畑の光景が蘇った。
雪蘭と共に秋を迎えたかった……雪蘭と共に赤いコウリャン畑を見たかった……
松坂は決断し、こう宣言した。
「我々は投降する」
松坂の声は落ち着いていた。
「武器を捨てて、白旗を掲げる」
部下たちの目が大きく見開かれる。
「少尉殿! それは……」
松坂は部下の言葉を遮る。
「軍人として、死ぬことより難しいことがある。それは、生き延びて祖国の将来を見届けることだ」
塹壕の中で、兵士たちは互いに顔を見合わせる。
──生きて虜囚の辱めを受けず──
軍人なれば誰もが知っている戦陣訓。
彼らの心の中で長い間教え込まれてきた価値観は、今、崩れようとしていた。
ソ連軍の戦車は丘を越え、彼らの陣地へと迫ってくる。
その巨大な砲塔は彼らに向けられていた。もはや時間はない。
松坂は軍刀を取り出し、その刃を見つめた。
かつての武士なら、この刀で自らの命を絶っただろう。
しかし、彼はそれを静かに地面に置いた。
「行くぞ!」
白い布を風になびかせ、松坂は塹壕から這い出た。
率先垂範。そんな松坂の姿勢は、部下たちを動かした。
皆、両手を上げて降伏の意思を示す。
前方には、ソ連の戦車群。
砲塔のハッチが開き、兵士たちが現れた。
松坂は背筋を伸ばし、威厳を保ったまま歩みを進める。
松坂の心に様々な思いが交錯する。敗北の屈辱、生存への希望、そして、未知の捕虜生活への恐れ……
ソ連兵は銃を構えながら、松坂たちに近づいていく。
その顔には勝者の驕りではなく、意外にもある種の敬意のようなものが浮かんでいた。
日ソ両国の軍人が、満州の夕暮れの中で向かい合った。
「我々は投降します」
その言葉は、一人の軍人の宣言に過ぎなかったが、まるで一つの時代の終わりを宣言するかのようでもあった。
満州の夕暮れは光を失い、漆黒が空を染めた。
* * *
避難先にて、雪蘭は自らの美しい髪をすべて切り落とした。女性だと分かるとソ連兵から暴行を受けるからだ。
鏡に映った坊主頭の自分を見て、雪蘭は涙を流した。
彼女にとっては髪を切ることよりも、松坂からもらった髪飾りを付けられないことの方が悲しかった。
「いつか必ず」
いつか必ず、髪を伸ばし再びこの髪飾りを付けて松坂に会える日が来ることを。
そう願い続けた。
八月十八日。
皇帝溥儀は、避難先の大栗子にて、満州国の解体を宣言。
ここに歴史は、一つの国の終わりを刻んだ。
溥儀はなんと数奇な運命を辿ったのであろう。溥儀は、清では最後の皇帝、満州国では最初にして最後の皇帝となった。
そして溥儀は、ソビエト連邦ハバロフスクにある将校収容所へと送られた。
雪蘭とその父は、溥儀の側近であったため、溥儀と共に同じく将校収容所へと送られた。
* * *
雪蘭は朝早くに目を覚ました。自分はやはり収容所にいた。夢ではなかった。
「起床! 整列!」
粗暴な声が収容所内に響き渡る。
収容所の朝の儀式は毎日同じだ。点呼の後、わずかな朝食が配られた。水で薄められた雑穀粥と、小さなパンの切れ端。
雪蘭は、かつて松坂と共にしていた朝食が、いかに幸せな時間であったかを思い返していた。
「何をぼんやりしている!」
監視兵の叱責に、雪蘭は我に返る。
日中は作業が続く。雪蘭は女性ということで、始めは軍服の修繕の作業を任されていたが、日本語に堪能であることが知られると、押収した日本軍資料の翻訳をさせられることとなった。
日本語の文字を読むたびに、その文字は雪蘭の脳内で、松坂の声となって再生された。
元皇帝である溥儀は、衣服の中に縫い込んでいたり鞄の二重底の中に隠していたりして持ち込んでいた清朝の財宝を、少しずつソ連軍に売り渡し、引き換えに自分への厚遇を要求していた。
ここにきて、雪蘭は溥儀の持つ隠し財産の実態を知ることとなった。
元皇帝の情けない姿を見て軽蔑した。しかし、自分自身も大金欲しさに二重スパイをしていたという過去を思い返した。
金を得たいと思ったのは、自由を得たいと思ったからであった。しかし、実際に得たものは、祖国の滅亡、そして、夫との別離であった。



